かぶ

Trick... or Treat? - 02

 定時間際になって営業部から回ってきた書類は、今日のイタズラの仕返しなのか何なのか、少しばかり面倒くさい上に今日中に処理をしなければならないものだった。それを回してきたのが誰なのかは知らないが、それを渡されてしまった水谷紀香(みずたに のりか)は自分のデスクの前で盛大に溜め息を吐いた。
「あれ、水谷ちゃん残業?」
「そうでーす。お菓子ちゃんと渡したのに、イタズラの仕返しされちゃったみたいです」
 帰り支度をしていた先輩社員のお姉さんに声をかけられ、紀香はぺろりと舌を出して苦笑する。元々童顔の彼女が、こんな表情をすればまるで学生のように幼くなる。小さくて人懐っこくてイベント事が好きな彼女は、周囲から小動物相手の要領で可愛がられている。
「ありゃりゃ。そりゃご愁傷様で。……時間かかりそうならおやついる?」
「うーん、でも、面倒くさくても量はそんなにないんで、多分時間はそんなにかからないかな。でも、くれるってものはなんだっていただいちゃいます」
 だからください。にっこり笑って無邪気に手を出せば、まったくこの子は要領がいいんだから、と引き出しの中から袋包みのトリュフを三つ投げられた。
「わー! これ好きなんですよ! ありがとうございます! ふふふ、これでもう残業なんて怖くないぞー」
 笑顔全開で喜ぶ紀香を総務課の面々が実に暖かな眼差しで見守っている事に気づいていないのは、当の本人だけだった。

* * *

 残業のある社員は定時のチャイムの後、十分間の休憩を取る事が許されている。
 その時間を使ってカップ入りココアを買ってきた紀香は、もらい物のチョコレートをじっくりと堪能してから書類へと取り組んだ。
 三年も同じ職場で働いていれば、よっぽどの事でもない限り、無茶なまでの残業をこなさなければならない事態は起きない。よっぽど要領が悪ければ話は別だが、普通の人ならそのはずだ。それも、総務課のようなルーチンワークの多い課となれば更にだ。
 ただしそれも、今日のような飛込みの仕事が入ってこなければ、の話である。
 先輩にはあんな風に言ったものの、与えられたのは二種類のデータベースに分けて保存されている情報を確認しなければならない種類のもので、しかも性質の悪い事に、それら二つのデータベースは実に相性が悪く、一度に一つしか立ち上げられない上、うち一つのデータベースは画面遷移のために一々コマンドを打ち込まなければならない、という極悪なタイプのものだったため、数枚ぽっちの書類の内容確認とその処理に掛かった時間は、予想外に長くなってしまった。
 ようやく終わった時には、既に八時近くなっていた。
 ハロウィーンのイベントに則ってせしめたお菓子と、報復防止のために持ってきていたおやつのおかげで空腹をごまかす事ができたからいいものの、それらがなければ休憩時間に近くのコンビニに走らなければならないところだった。
「できた~!」
 ぐーっと椅子の背もたれに背中を預け、思いっきり伸びをしながら歓声を上げる。
 その声にパソコンのモニタから顔を上げた課長が、苦笑混じりに労いの言葉を口にする。
「おう、お疲れ。悪かったな、押し付けて」
「いえいえ。でも、営業がこんなバッドタイミングで書類回すって珍しいですよね。何かあったんですか?」
「え、あ……いや、まあ、こういう事もたまにはあるだろうさ」
 カタカタとキーボードに指を走らせながら、何か躊躇うような、どこか後ろめたいような表情を浮かべる。
「とにかく悪かったな。ほら、侘びの代わりだ。グリコボックスから何でも一個好きなもん取ってこい」
 言いながら、用意していたのだろう百円玉を差し出してくる。
「うわっ、いいんですか!? わーい、ありがとうございます~」
 まるっきり子供なその喜び方に、課長はどこか疲れたように息を吐いた。
「……お前、知らない人からお菓子やるって言われたら素で着いて行きそうだな」
「知らない人なら行きませんよ。知ってる人ならついていきますけど」
「おいー」
「あはは、冗談ですって。それじゃ、課長の気が変わらないうちにグリコボックス行ってきまーす」
 顔を顰める課長にひらひらと手を振って、紀香は休憩ブースへと急ぐ。この時間だと、他の課でも残業している人はほとんどいないだろう。
 時間も遅くなったし、今日は久しぶりに外食でもしようかと考えながら休憩ブースに入った彼女は、今日の午後にしでかした、大胆なイタズラを思い出して一人赤面する。
 本当は、あんな事をするつもりじゃなかった。
 ただ、思いもしない言葉を言われて、ほんの少し舞い上がってしまった。だからあんな事をしでかしてしまった。
「……絶対、変な子だって思われたよね……」
 はぁ、と溜め息を一つ吐きだす。
 入社した当初から営業部のエースとして名高い沢木幸広(さわき ゆきひろ)に、紀香はずっと憧れていたのだ。
 はじめは見た目のかっこよさで。それから書類でわからない事を訊きに行った時の気さくで親切で丁寧な態度に。飲み会などで仲のいい同僚たちと飲みながら話している時の無邪気なまでの笑顔に。そして酔っ払った同僚や上司や後輩などの世話をする優しさに。
 そんな新しい一面を垣間見るごとに、彼女は彼に惹かれていったのだ。
 けれど課が違えば年齢も離れていて、自分自身幼いところがあると自覚している紀香は、先輩のオネエサマたちに混ざって幸広にアプローチするなどできなかった。あんな大人な男の人に相手をしてもらえるなんて、そんな事は起こりえるはずがなくて。
 希望を持った事がなかったからこそ、今日のあの言葉が嬉しかった。
 ――嬉しくて嬉しくて、うっかり勢いに任せてキスしてしまうほど嬉しくて。
「うあー、これでもう顔も合わせられないよ……。ほんとにどうしてこう、後先考えないんだろ……」
 その場にがっくりとしゃがみこんで溜め息を吐く。頭の中では馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿と一つの言葉がぐるぐるまわっている。
 けれど反省は、ぐう、という間抜けなお腹の虫によって強制終了される。
「とりあえずお菓子とご飯。反省はそれからだ」
 すっくと立ち上がり、グリコボックスへと足を向ける。最近はまっているスナックが一つ残っていたので、カエルの口から百円玉を放り込み、引き出しから目的の品を取り出す。
 人気のほとんどない廊下を急ぎ足で戻ると、課長がちらりとモニタから視線を上げて紀香の姿を確認した。
「戻ってきたか。あまり遅くならないうちにさっさと帰れよ」
「はい。それじゃあお先失礼します。お菓子、ありがとうございました。お疲れ様です。残業がんばってください」
 仕事が終わればすぐに帰れるようにとまとめておいた荷物を机の下から取り上げ、勢いよくぺこりと頭を下げて部屋を出る。この会社は女子社員用の制服がないので、いちいち着替える必要がない。だから荷物さえ持てばまっすぐに帰る事ができるのだ。
 エレベーターの階数表示が二機とも一階にあると表示しているのを見て、紀香は待つのも面倒くさいとばかりあっさり踵を返して非常階段に向かう。どうせこのフロアは三階なのだ。朝や昼だって面倒くさければ階段を使っている。
 ヒールの低いパンプスではあっても、足音は妙に反響する。
 かんかんかん、と足音を高らかに響かせてロビーまで降りた紀香は、誰もいないだろうと思っていたそこに背の高い影を見つけて足を止めた。
「水谷さん」
「……さ、わき、さん……?」
 一日着ていたせいか、ほんの少しくたびれて見えるスーツに身を包んだその人は、どう見ても間違いなく彼女がとんでもないいたずらを仕掛けた相手――沢木幸広だった。
「残業、お疲れ様」
「あ、はい。お疲れ様です」
 反射的にぺこりと頭を下げたところではたと一つの可能性に気づいて動きを止める。
「――あの、もしかして、あの書類……って、そんなわけないか」
「どうだろう。そんなわけあるかもだよ?」
 自己完結したとたんに結論を覆されて思考が停止する。
「沢木さん……?」
「ごめんね。でも、どうしても足止めしたかったから、あの書類わざとあのタイミングで依頼したんだ。もちろん名指しで」
 面倒くさいの頼んでごめん、ともう一度謝る幸広を、紀香はぽかんとした顔で見つめる。
 なんだろう。どうにもこうにも状況が掴めない。一体今、何が起きているのだろう。というか彼は一体何を言っているんだろう。
「そだ。これ、返しておくよ。もらってしまったらいたずらできないから」
 にっこりと笑ってぼうっと呆けている紀香の手に何かを握らせる。目をぱちくりとさせて握らされた手を開いてみれば、そこには今日一日かけて会社の人たちに配って歩いたミルキーがあった。
「そういうわけで、水谷さん。……Trick or Treat?」
「へっ!?」
 綺麗過ぎると逆に聞き取りにくいんだ、と、頭の片隅で妙に納得するほど流暢な発音で訊かれ、紀香は気が抜けた声を上げる。未だに状況が理解できてない彼女は、視線を上げたその先、それも妙に近い距離に憧れている相手の男らしく整った顔を見つけてまた息を呑む。
「――お菓子はもらえないみたいだね」
 紀香がパニックを起こしている事などわかっているだろうに、彼は大して待ちもせず、実に楽しげにそんな事を言った。そして。
「それじゃ、お約束どおりイタズラさせてもらうよ」
「えっ、あの、沢木さ――っ!」
 名前を最後まで呼ぶ事すらできなかった。
 ぐい、と腰を引き寄せられたと思った次の瞬間には、柔らかな唇が紀香の唇を甘く奪っていた。
 呼びかけのため開いていた唇の隙間から、すばやく潜り込んできた彼の舌は、驚きのあまり奥で縮こまっていた紀香のそれをあっさりと見つけ出して掬い取り、爽やかな外見からは想像もできない貪欲さで彼女の唇を奪う。
 開放された時には、酸欠と衝撃と与えられた甘い感覚のせいで、それまでとは違う意味で頭がぼうっとしていた。
「水沢さん、大丈夫?」
「じゃ、ないです……」
「そっか。なら、お詫びに食事でもおごるよ」
「え」
「お菓子しか食べてないならお腹空いてるだろ? この近くに美味しい創作料理の店があるんだ。遅くまでやってるからゆっくりできるよ」
 なんだか色々ぼんやりしているあいだに事態がとんでもない方向に進んでいるような気がする。
 それもこの目の前の人ってば、絶対確信犯だ。
「あたし、とんでもない事しちゃった……?」
 そんな一言がようやく紀香の唇から零れたのは、幸広の大きな手が彼女の小さな手をしっかりと、それも指を絡ませる形で握って、会社の入っているビルディングからでてからの事。
「どうだろうね。でも、俺に火を点けたってのはどっちかって言うとGood jobな範囲じゃない?」
 あっさりと、なにかどことなくとんでもない事を返て
「安心してくれていいよ。俺、気に入った相手はとことん大切にするから。ああでもとりあえず、今日はたっぷりイタズラさせてもらうから覚悟して?」
 ああでも、Trick(いたずら)というよりはTreat(ご褒美)って言った方が正しいかな?
 そんな事をにんまりと笑いながら言ってのけた彼の背中に、紀香は黒いコウモリの羽を幻視した……ような、気がした。


 その日、うっかりあくまな相手にかわいいイタズラを仕掛けた魔女っ子がどんなイタズラという名のゴホウビを受けたのか……それはお月様だけが知っている。