かぶ

おこりんぼかけひき

「あの、だから、その……ですね」
「……」
「配ったのは、皆さんに、ですよ。それも総務課女子一同からと銘打ってますし」
「…………」
「他にも片山さんとか梨尾さんも配ってたんです。まあ、営業部の担当になったのはあたしですけど、それもあみだくじの結果ですし」
「………………」
「――だから、あたしには何の意図もなかったんです! いい加減に無視するの、やめてくださいってば、幸広さん!」
 最後には逆ギレも手伝って、紀香(のりか)は半分泣きそうな声で叫んでいた。
 事の発端は、今日がバレンタインだからという事で会社を上げて行われる、チョコレート配布行事にある。
 毎年各課の女子社員達が、くじ引きなりなんなりで係を決め、男子社員に配るチョコレートを購入したり、当日に配布したりする。
 で、今年の紀香は配布役に当たってしまったのだ。
 「配布係」と書かれたくじを引き当てた時は、正直ラッキーだと思った。一昨年買出し係に当たってしまったのだけれど、アレは本当にきつかった。社内の男性社員全員用となった時点で数が数だし、実は役職によってチョコレートの格付けもしなければならないという、紀香からすれば馬鹿馬鹿しい事限りないしきたりがあったりしたため、無駄に頭を使わされたものだ。
 けれどまさか、担当決めのあみだくじで、営業部が当たるとは思ってなかった。
 営業部には、去年のハロウィーンからほぼ強制的に恋人となった沢木幸広(さわき ゆきひろ)がいる。いつもは彼女が営業部に行く事はないから、運がよければ働いているところが見れるかもしれないと、その時はちょっぴり浮かれてしまった。特に、今日は外回りの予定はないと事前に聞かされていたから、余計に期待は膨らんだのだ。
 お茶の時間になり、大きな紙袋を抱えて営業部に足を踏み入れた紀香は、自分でもつい笑いそうになるくらいすぐに幸広を見つけていた。
 いつもはぴっしりと丁寧に撫で付けられている髪は、今日は外回りがないためか少しラフで、紀香はほんの少し、くつろいだ時間を過ごす時の彼を思い出させた。けれどスーツのジャケットを脱ぎ、シャツの袖を捲り上げた状態で誰かの机にもたれるようにして書類片手に真剣な顔で話しているその姿は恐ろしいほどキマっていて、そんな姿を毎日見る事のできる営業部女子がちょっぴり羨ましく思う。
 しても仕方のない嫉妬だと自分に言い聞かせ、ぷるぷると頭を振ってネガティブな考えを振り払うと、元気よく挨拶をして扉に近い人から順番にチョコレートを渡しはじめた。
 彼がいたのは比較的奥の方だったから、結果的に渡すのはかなり後の方になってしまった。しかも、妙に知り合いが多いせいでチョコレートを渡すたび雑談をしていたものだから、更に時間を食ってしまって。
 総務部からです、と、他の人に対するものよりほんの少し甘えた笑顔でチョコレートを差し出した時、幸広はちらりとも笑みを見せず、感情の篭らない声でありがとう、と短く返しただけだった。その時点で微妙に嫌な予感はしていたのだけれど……
 感情を爆発させても幸広は視線を合わせずタバコを燻らせている。
 仕事が先に終わった紀香は、前から約束していた通り、先に幸広の部屋にやってきて、夕食を用意していたのだ。八時近くなって帰って来た幸広は、しかし一言も言葉を交わそうとしないどころか、視線すら合わせてくれない。ただいま、の言葉もなく寝室に入り、セーターにジーンズという姿で戻ってきて以来、見てもないテレビを睨みつけたままだ。
 溜め息を一つ吐き、リビングの入り口に置いてあった荷物の方へと足を向ける。
「……もう、いいです。そんなに怒ってるなら、一人で怒っててください」
 今年、寒くなると同時に買ったオフホワイトのダッフルコートを着込み、バッグを取り上げる。いつも使っているものより大き目のそれから、今日のためにと用意しておいたプレゼントを取り出した。
「これ、置いておきます。……いらないなら、捨――」
「――誰が帰れつったよ」
 振り返る暇もなかった。
 いつのまに来ていたのか、不意に背後から強く抱きしめられた。
「幸、広……さん?」
 戸惑う紀香の耳元に、どこか苦々しい声が落ちてくる。
「ごめん。勝手に変な嫉妬してた。お前が人気者だってくらい、嫌って程知ってるのにな……」
「……」
「で、嫉妬して不機嫌になって、せっかくお前と一緒だったのに、その機会潰した自分に腹立ててたんだ」
「…………はぁ?」
 うっかり妙な声が出た。
「笑うだろ。自業自得な事で勝手に怒ってたんだ。しかも危うく同じ理由で同じ事繰り返しかけてたわけだ、俺は」
「はあ……」
 くつくつと耳元で低い笑い声を上げている幸広に、紀香は呆れ混じりに安堵の息を吐く。
「じゃあ、もう、怒ってないんですね?」
「ああ」
「なら、晩ご飯にしましょう。味見で少し食べてはいますけど、お腹空いちゃって」
 首を捻って無理に振り返る。元から女の子としても背が高いとはけっして言えない紀香からすれば、成人男性の平均をちょっとばかし超えている幸広をこの体勢で見上げるのは少しばかり辛い。それを知っている幸広はほんの少し腕の力を緩めて、彼女を自分に向き直らせた。
「さっそく飯かよ」
「だって冷めちゃうし」
 言いながら、プレゼントの包みをバッグへとしまう。それを見て、幸広が訝しげに眉をひそめた。
「紀香? それ、俺のだろ?」
「はい。でも、帰らないならまだ後でもいいでしょう?」
「……今はくれないのか?」
「ご飯の後までお預けです」
「お預け、って……なんで?」
 いつもはキリっとしている眉が、情けなく下がっている。いつもは飄々とした空気を纏っているくせに、この人は時々こんな風に情けない顔を見せてくれる。こういう顔を見てしまうと、ついつい絆されて何でも許してしまいそうになるのだけれど、今日は駄目だ。
「簡単です。だって、あたしが怒ってるんですもん」
 にっこりと、いっそ小気味がいいほどの笑顔を向けて、あっけに取られている幸広の腕の中からするりと抜け出す。
「晩ご飯食べ終わったらちゃんとあげます。だから、早く食べましょう?」
 もう一度振り返って付け足して、それからキッチンへと足早に向かう。
 しばらくの沈黙の後、背後から低い笑い声が聞こえてきた。それはとてもとても楽しげで、コンロに立つ紀香は内心で盛大に冷や汗をかいてしまう。
 いつだってこうだ。ちょっとした事でつい調子に乗ってしまって、その後きっちり「お仕置き」を受けるのだ。
「明日も会社あるけど……大丈夫、かなぁ……」
 ハロウィーンの翌日の二の舞は、ちょっと嫌だ。ていうか、こんな事で貴重な有給は使いたくない。
「が、がんばってプレゼントで懐柔しよう!」
 小さく拳を握りながらも、声はどこか弱い。
 内心の動揺とささやかな期待は、ビーフシチューを掬うお玉を持つ手の震えに、ありありと表れていた。