かぶ

穏やかな時間

 そっと、頬に触れる。かつてはやわらかく潤っていた肌は今ではもうかさついて。指を滑らせると明らかな凹凸に、ほんの少しもうしわけないきもちになる。
「そんな顔をしないで。私はおばあちゃんなんだもの。しわくちゃになるのも当然だわ」
「うん、わかってる。わかって、いるよ……」
 答える僕は、かなしい気持ちで頷く。
 彼女と出会ったのは、もう六十年も前になる。それからずっと、一緒にいた。一度だけ、どうしようもなくて別れた事があったけれど、結局僕らは一緒にいる道を選んで。
 長い年月の中で世界は目まぐるしく変わった。一度離れた長くも短い年月の間に彼女は夫と子供を作り、子供と一緒に僕の元へと戻ってきた。その時の彼女はとても苦しげだったけれど、僕には彼女が求めていたものをあげる事ができないのだから仕方がない。そう思って、こころのいたみにきづかないふりをした。
 そうして彼女は歳を重ね、彼女の子供もあっという間に大人になった。幼い少年だった彼はすぐに僕と変わらない見た目になり、今では彼の方が僕より年上に見える。彼女の事は言うまでもない。彼女が戻ってきた時には、僕は既に彼女より幾分年下の見た目だったのだ。

 そう。僕は歳を取らない。歳を取る事ができない。なぜなら僕は、人間じゃないから。

 『僕』という存在が何なのか、僕は知らない。僕のような存在に詳しいヒトに言わせると、僕は精霊と呼ばれる存在なのだそうだ。ヒトや生きるモノの思いが自然の力と結実して生まれた存在。だから僕は幼少の記憶なんてものは持たず、変化する事もない。
 だけど僕には、『精霊』という言葉が想起させるような事は何もできず、ただヒトと交流し、彼らを見守り、最期を看取っていく。彼らの人生に手を加えるような真似は、どんなに望んでもできず、本当にただ見守るだけ。
 見て、見つめて、見つめ続けて。ただそれだけしかできずに。
「あなたは本当に変わらないのね」
「うん」
「私は変わったでしょう?」
「ううん」
「あら」
 子供のように首を振ると、彼女はくすくすと笑った。
 白い部屋の中、白いベッドの中で、白い服を着て横たわる彼女。美しい黒だった髪は真っ白になって久しい。
 だけど僕の目に、彼女は相変わらず可憐で愛しい恋人として映る。
「だって君は変わらないよ。見た目は変わったけれど、心は変わっていない」
「心?」
「うん。君の心は僕と出会ったあの頃と一緒だ。僕が変わらない存在なのだと知った時も、とても揺れたけれど結局は変わらなかった」
 長い時を過ごす僕がヒトと係わる時に一番おそれるのは、僕という存在がどんなものかを知って離れていかれる事、憎まれる事。こわいのは、欲の目で見られる事。
 だけど彼女は僕がどんなものかを知った時、僕のために哀しんで、苦しんで、そうして一度は離れる事を選んだ。
 彼女が昔から望んでいた、家族を手に入れるために。
「……あなたは本当に、優しいわね」
「そうかな。そう、なのかな」
「そうよ。だから私の裏切りを、許してくれたのでしょう?」
 一度の別離は、彼女に罪悪感という傷を与えた。僕にとっては理解のできる行動だったけれど、彼女からすれば、自分の身勝手故にたくさんの人を傷つけただけのように思っているらしい。
 ――ああ、だけど、だからこそ僕は彼女をいとしくおもうのだ。
「裏切りじゃないよ。おかげで僕は、君の息子に出会えた。彼には嫌われていたようだけれど、最近は少しずつ、歩み寄ってくれてるみたいだ」
「あの子ってば本当に頑固だから。一体誰に似たのかしらね?」
「きっと、君じゃないかな。君のように意志の強いヒトは中々いないよ?」
 声を合わせてくすくすと笑いあう。こんな風に僕らは、いつも一緒に過ごしていた。同じ時を過ごしていた。
 だけど……
「……ごめんなさいね」
「え?」
「あなたを置いて行ってしまったこと。そしてこれから、あなたを置いて逝ってしまう事」
「馬鹿。そんな事はいいんだよ。僕にはちゃんと、わかっているんだから」
 目を伏せた彼女にそっと微笑んで、僕はふわりと口づける。触れるその唇の感触は変わってしまったけれど、触れた時に感じるものは今も昔も変わらない。
 こんな出会いは何度目だろう。
 こんな別れも、何度目なんだろう。
 記憶はいくつも降り積もって重なっていく。だけどヒトと違って感情の希薄な僕には、その時々の痛みも慟哭も残らない。ただ切なる空虚に流されて眠りに就き、目が覚めれば不思議な衝動に動かされ、また誰かと出会う。
「身体、辛くはない? 何か欲しいものは?」
「大丈夫。……ねえ、近いの?」
「うん。たぶん、明日かな」
 何もできない僕にただ一つ出来るのは、『その時』を知る事。どんな風に、なんてのはわからない。わかるのはただ、『いつ』というそれだけ。
 だから僕はいつだって、『その時』には必ず僕があいした相手の傍にいた。それが僕に出来る唯一の事だから。
「ねえ、彼を呼ばないでいいの?」
「彼って、どっちの彼?」
「どっちって……両方、だよ」
「いらないわ。私を送るのは、あなただけで十分」
「……また、怒られちゃいそうだ」
 ほんの少し天を仰いで呟くと、彼女はそっと声を上げて笑う。
「あらあら」
「だって、本当にすごいんだよ? 君は知らないかもしれないけれど、怒った君の息子さんは、それはそれはおそろしくて。僕には尻尾を巻いて逃げるしか出来なくなってしまう」
「そんなに? ううん、だったら私も、一度正面切って怒られてみたかったわねぇ」
「なら、今からでも呼ぶかい? そうして本当は何も言わずに逝くつもりだったと教えてみる? きっと彼は君の望みどおり、頭から君を丸呑みにするような勢いで怒ってくれるよ」
 とても真剣に言ったのに、彼女は楽しげに声を立てて笑う。ひとしきり笑って、それから小さく咳き込んだ。
「大丈夫? ……ほら、口を開けて」
「ん」
 けほけほと咳を繰り返す彼女の顎を持ち上げ、水を含んだ唇を押し当てる。驚いたように目を開きながら、彼女は素直に僕の唇から水を飲む。それを何度か繰り返して、ようやく彼女は人心地ついたようにほうと息を吐いた。
「……あなたには本当に驚かされるわ。この歳になって、こんな風に水を飲ませてもらうなんて」
「歳なんて関係ないよ。僕がそうしたいって思っただけなんだから」
「だけど、何も知らない人に見られたら……」
 そんな事を言って顔を曇らせる彼女を、僕はきっぱりと遮った。
「周りがどう思うかなんて、それこそどうでもいい。僕はそんなの、気にしないし」
「あなたはそうでも、私や他の人は気にするの。……ああ、でも、今更ね」
 それはそうだ。だって彼女が僕の元に戻ってきた頃から、既に色々な事を言われていたのだ。日々が過ぎて僕たちの見た目に差が出てくると、より一層。
 だけど僕はそんなものなど気にしなかったし、彼女もなるべく意識しないようにとしていた。どんな事を言われても、心を偽ってまで周囲に合わせる必要などないと。
 ほんの少し、沈黙が落ちた。
 開いた窓から柔らかな風が、白い光と共に吹き込んでくる。僕たちの肌を撫でて風が通り過ぎた頃、彼女はゆっくりと口を開いた。
「あのね、私、本当に幸せだったのよ。そりゃあ後悔する事はあったけれど、あの人と結婚した事やあの子を生んだ事は、後悔していないの。あなたたちを傷つけたけれど、それでも私は選択を間違ったとは思っていないわ」
「うん」
 静かな眼差しで彼女は僕を見上げてくる。そこには迷いも後悔もなく、ただ穏やかな感情だけがある。
「だからあなたも、私の事を傷にはしないで」
「しないよ。君は僕の中で、大切な記憶になる。きっと君の後に僕もしばらく眠るけれど、目が覚めたらまた君を思い出しながら生きていくんだ」
「ええ、そうして」
 頷いて、それからふふ、と笑いを漏らす。
「不思議ね。昔はあなたが変わらない事が悔しかったり、私がいなくなった後もあなたが残り続けるって事が哀しかったりしたというのに、今はもう、そんな風には思わない、なんて」
「そんなもの、らしいよ。きっと心に貯めていられる感情っていうのは量が決まっていて、長く生きれば生きるだけ、そういった感情を使ってしまうんじゃないのかな。で、激しい感情の方が穏やかな感情よりも先に出尽くしてしまうから、だから最後には平穏だけが残るんだよ」
「あなたが言うのなら、きっとそうなのでしょうね」
 僕の言葉に頷いて、それから彼女は目を閉じた。
「少し、眠るわね」
「うん」
 また一つ頷いて、僕は彼女の隣へと身を横たえる。薄いブランケットの中で、すっかり細くなった身体を抱きしめる。
 とても軽くなってしまったけれど、それでも彼女はまだあたたかくて、ちゃんと生きている。それに、『その時』までにはまだしばらく時間がある。だから僕も、彼女と一緒に少し眠る事にした。