かぶ

予期せぬ申し出 - 02

「……ああ、髪が乱れてしまったね」
 気のせいだろうか、いつもより少し低い声でそんな事を呟いて、ウィロビーが手を伸ばす。顔に被る髪を、意外に無骨な指が掬い取り、耳にかけたところでようやく彼女は今の状況に気づいた。こんなところを人に見られては、自分にもウィロビーにも嬉しくない風聞が立ってしまう。かっと頬が熱くなるのを感じながら、カリーチェは声を上げた。
「ウィロビー様!」
「うん?」
 自分の声に首を傾げる彼の手が離れた。なぜかそれを寂しく感じながらも、カリーチェは戸惑いも露わに問いかける。
「あの……ご、ご冗談、ですよね?」
「まさか。僕が冗談でこんな事を言えると思うかい?」
 思えない。だからこそ余計に信じられなかった。
 彼は、違うと思っていた。友人たちを憂えさせるような、気位ばかりが高く愚かで不誠実な男とは違うと思っていた。なのに……
「君には唐突に思えるかもしれない。だけど僕はかなり以前から決めていたんだ。僕の子供を産むのは君だって」
 またしても何かおかしな言葉を聞かされた気がする。思考が停止しそうになるのをぎりぎりのところで押し留め、正しく言うべき言葉を口にする。
「で、ですが、奥様や旦那様は……それにご弟妹の皆様だってどう思われますか!」
「ああ、それなら大丈夫だよ。両親には以前から自分の意思は伝えていてね。向こうからもそれでいいって言われているし、弟妹もきっと喜んでくれるよ。みんな君が大好きだしね」
 驚くほどにあっさりと、反論をかわされてしまう。あまりの事に混乱してしまって、何を考えるべきか、どう判断すべきかがわからない。第一、「それでいい」というのは何に対しての発言なのだろう。仮に自分がウィロビーの子供を宿したとしても、その子は相続権を請求しないと誓約するとか、そういう事なのだろうか。
 第一彼の弟妹がカリーチェを好んでくれているのは、彼女が家庭教師であり年の似た相談相手としてあるから、だ。長兄の愛人となって子供を産む事になどなれば、本来彼女が去るべき時が過ぎても彼らの傍に留まる事ができるから、その事を単純に喜んでくれるかもしれない。しかしいずれ物事がわかるようになった時、彼らに軽蔑されてしまう可能性がどれだけ高い事か。
 確かにカリーチェはウィロビーに好感情を抱いている。それに、彼の弟妹たちも、彼のご両親も彼女に対していつもあたたかく接してくれるせいで、不遜なまでの親しみを感じている。
 だからこそ余計に、たとえそれがウィロビーの望みであろうと、彼らを傷つけたり、失望させたくないと思うのだ。
 何より子供を産んだ後で彼が正式な妻を迎えたとして、自分は彼が妻やその子を慈しむ様子を見て平静でいられるだろうか。彼が妻子を愛するようになり、若かりし頃の過ちとして省みられなくなった後、黙って身を引けるだろうか?
 そんな内面の惑いが表に出ていたのだろう。困ったような顔で、ウィロビーがカリーチェを、いつもの穏やかな声で促す。
「……君が戸惑っている理由は何だい?」
「理由、なんて……」
 ぽつりと言葉が零れ落ちる。それがきっかけとなって、胸の中に渦巻く感情がぽろぽろと溢れだす。
「だって……だって、違いすぎます。私は下流の出で、ウィロビー様は上流の方ですし。それに、子供……だなんて……む、無理が過ぎます! ウィロビー様は、いずれきちんとしたお家の方とご結婚されるでしょうし、そうなればきっと、醜聞や騒動になってしまいます!」
「醜聞や騒動だなんて! 馬鹿を言わないでおくれ。誰が君と僕の子供をそんなものに巻き込ませるものか! それに言っただろう? もう既に両親の許可は得てるって。だから何も心配はいらないんだよ」
「許可……? それは、その、私がウィロビー様の愛人となり、子を産む事について……ですか?」
 それとなく、愛人を持つ事を仄めかすぐらいならあるかもしれないが、まさか長男が愛人との間に子供を作る事まで認める両親というのは一体どんなものなのだろうか。それ以前に、これまで一緒の時間を過ごして知ってきた夫妻の印象から、そんな非常識な判断をする人たちだなんて欠片ほども思った事がない。
 けれど、違ったのだろうか。自分の考えは間違えていたのだろうか。
 すうっと顔を蒼褪めさせ、混乱のあまり言葉を失うカリーチェに、ウィロビーはしばらくの間、何も言わなかった。
 きっとそんなに長くない沈黙の後、実に気まずげな様子で、彼はカリーチェの様子を慮りながらそっと口を開いた。
「あー……カリーチェ?」
「……」
「ええと、だね。どうも君は、何かすごい考え違いをしているみたいなんだけれど……」
「考え違い、ですか……?」
 まだどこかぼんやりとしたままで、カリーチェは鸚鵡返しに訊ねる。うん、と頷いたウィロビーは、その柔らかげな髪を左手でくしゃくしゃとかき混ぜながら、困ったような顔をして視線をあちらこちらへと彷徨わせていた。最終的に、深々と息を吐き出すと腰を上げ、カリーチェの前に膝を突いた。
「あの、ウィロビー様!? 一体何を――」
「いいから黙って」
 若君の唐突な行動に慌てる彼女を一言で押し留め、ウィロビーはゆっくりと息を吸い込むと、これ以上にない程真摯な声で、きっと生涯における最初で最後の申し出を口にした。
「カリーチェ・ドゥ・トライシュホーン。どうか僕の妻となり、僕との間にたくさんの子供を産んではもらえませんか?」
 今度こそ、完全に思考が停止した。
 否。思考が理解を拒否したのだ。
 顔から一気に血の気が引く。それどころか、手足の先も一瞬で体温を失い、全身が震えていないのが不思議なほどに冷たくなった。
 すぐ傍にいるはずのウィロビーの顔が、やけに遠くにあるように見える。思考を放棄した頭がふらりと揺れそうになる。
 ああ、意識を失うのだわ、と、まるで他人事のように考えた時、目の前の青年が、苦しげに目を伏せるのが見えた。
 いけない。こんなところで意識を失うなんて、そんな真似はできない。だってそんな事になっては、この優しい人を、取り返しが付かないほどに傷つけてしまう。
 それだけは――彼を傷つけるような事だけは、絶対にしたくない。
 その考えが、カリーチェを現実へと一気に引き戻した。
 口の中が衝撃のあまりからからに乾いてしまっている。呼吸をするさえも苦しかったが、カリーチェは喘ぐように息を吸い込むと、なけなしの勇気を振り絞って問いかけた。
「……本気、なのですか……?」
 通り過ぎる風にも紛れそうな声は、けれど確かにウィロビーへと届いたようだった。
 表情を失っていた顔が、ゆっくりと上下に揺れる。
「本気だよ。恋のゲームを楽しむためにこういう言葉を口にする人たちもいるけれど、僕にはそんな事、できない。しかも相手が君なんだ。冗談になんか、絶対できるはずがないじゃないか」
 くしゃりと、まるで今にも泣き出しそうな顔で笑いながら、ウィロビーは言葉を続ける。
「誤解をさせてしまってごめんよ。だけど僕は、君を愛人にしようなんて、一瞬たりと考えた事はない。それこそ両親にも、弟妹たちにも袋叩きにされるだろうし、君はそんな扱いをしていい女性じゃない。これでも僕は、地位や家柄でしか他人を判断できない愚か者ではないつもりだしね」
 その言葉に、カリーチェははっと息を呑む。さっきまで彼女を支配していた考えは、あれはどう言い訳をしても彼を見損なっていたのだと知らしめるものでしかない。そんなつもりはなかったのだと口にしかけるも、ウィロビーがわかっているよとでも言うように、そっと頷いたせいで告げる事はできなかった。