かぶ

予期せぬ申し出 - 03

「これまで、あまり人の前で緊張なんてした記憶がないのだけれど、どうやら僕はあがりきっていたみたいだ。ちゃんと言うべき事を言ったつもりになっていたけれど、一番大切な事も言わずに『子供を産んでほしい』なんて言い出したんじゃ、君が悪い方向に考えてしまうのも当然だよ」
「ウィロビー様……」
 乾燥してかさ付いた指が、そっとカリーチェの頬に触れる。こんな風に異性から触れられるのは初めてで、カリーチェは思わず身を硬くしてしまう。
「僕は、君を知るにつれて、君を妻にしたいって思うようになった。君のような人が僕の妻で、僕たちの子供の母親なら、きっと両親にも負けないあたたかな家庭が築けるはずだって、そう思ったんだ。だから両親にも、早いうちから伝えておいたんだ。もし僕に家庭を持たせたいのなら、君を僕の妻として認める以外に道はないってね。ついでに、僕の意思を変えさせるために君を追い出したりしたら、僕は相続権を放棄して君を追いかけるつもりだ、とも言ったかな。そうそう、万が一にも君をどこぞの男に無理やり嫁がせたりなどしたら、その相手から奪って駆け落ちする覚悟もあるとさえ告げたはずだ。その相手が決闘を申し込むのなら、喜んで引き受けるだろう、というのが締めくくりだったかな」
 にこにこと実に無邪気な笑みを浮かべる貴族の青年を、カリーチェは何も言えず、ただただ呆然と見つめる。
 ほんのついさっきまではカリーチェの子供の話だった。だけど一体いつの間に、ウィロビーが彼女を娶る話に摩り替わってしまったのだろう? それに……これは、なんだろう。まるで愛の告白を受けているようではないか。
 身分を問わず、恋のゲームを仕掛けるためだけに結婚と言う言葉を口にする男がいるというのはよく聞く話だが、それは逆も然りだ。そしてウィロビーは、これまでの付き合いから鑑みれば、どう考えても後者のタイプだろう。
 曲がりなりにも身分制度が存在しているため、当然のように階級の異なる男女間で婚姻が結ばれる事は多くない。当然のように、身分や地位についてやたらめったらこだわりを持つ人間も多数存在する。
 しかしそれでも、特異な成り立ちをしているこの国では、他国ほど身分階級は厳密ではなく、故に本来ならば認められるはずのない婚姻が受け入れられる事は少なくないのだ。
 だからきっと、ウィロビーは本気で彼女に求婚しているのだろう。そして彼のご両親も、彼女を受け入れる事に賛成しているのだろう。カリーチェの両親がこの事を知れば、きっと二人して卒倒するだろう。兵団に入っている兄たちはウィロビーの真意を確かめるために乗り込んでくるかもしれない。だけどそれくらいの障害は、実際の彼と会って少しでも話をすれば、すぐに取り払われるはずで……
 そこまで考えて、カリーチェは気付く。プロポーズをされる前までは、愛人契約の申し出だと思っていた間は絶対に嫌だと思っていたこの申し出を、正式な求婚なのだと理解したとたんに受け入れたくて仕方がなくなっている事に。
 けれど……本当にいいのだろうか。穏やかな家庭を作り上げるためだけに結婚するなんて、それでいいのだろうか。
 返事を待っているのだろう、満面に期待を浮かべたウィロビーの視線はほんの少しも揺らがない。だんだんといたたまれなくなって、彼女は喘ぐように大きく息を吸いこんだ。
 はっきりと何かを告げたいと思っていたのに、出てきた言葉は情けないくらい戸惑いに満ちたものだった。
「……だからどうして、私なんですか……」
「君だからだよ、カリーチェ。君とならあたたかで穏やかな家族を作れそうだと思ったんだ。両親に負けないくらいの幸せな家庭をね。他の女性とじゃ、そんな風にはどうしても思えない」
「ウィロビー様……」
「だからね、うんって言ってくれないかな。うんって頷いてさえくれれば、たとえ今は僕を雇い主の息子としか思ってくれてないとしても、必ず君を幸せにするよ。絶対に後悔はさせない」
 彼の本質が一流の騎士に劣らないものだと知っていたつもりだった。けれどどうやらウィロビーが日常的に見せている柔和な一面に慣れすぎていたらしい。穏やかで優しげな様子は欠片もない。凛として迷う事なく、ただ己の望みを叶えるために、カリーチェの決断を促している。
 嬉しくないなどといえば、カリーチェは嘘吐きになってしまう。
「あの、ウィロビー様が私を……その、妻にと、求められるのは、私が賢母となれるとお思いだから、なのですか?」
「まさか! それだけを理由にするのなら、僕は真っ先に、僕の乳母だったリリエッタに求婚しておかなければならないよ」
 一瞬驚いた顔になったウィロビーは、しかし次の瞬間、盛大に破顔した。
「ああもう本当に僕はどうしようもないね。順番が何から何まで逆だ。子供を産んでほしいという前に求婚しなくてはならないというのは当然だけれど、更にその前にきちんと気持ちを伝えなければならないと言う事すら忘れていただなんて」
 苦笑も露わに首を振って、彼は改めて姿勢を正すとカリーチェの右手を自らの手で取り上げた。
「カリーチェ。まずは僕の不明を許してほしい。本当に、自分でも信じられないのだけれど、僕はどうしようもないほど緊張しているみたいなんだ。そのせいで物事を正しく考えられずにいる」
 ほんの少し困ったように微笑んで、彼は更に言葉を続けた。
「――その上で聞いてほしい。僕が君を妻にと望むのは、僕自身が君を必要としているからだ。君がいなくなっては、きっともう、これまでのように心安らかに生きる事はできないだろう。カリーチェ、君は僕の心の平安を保つに必要な唯一なんだ。君がここを去ってしまうなんて、考えるだけで心臓が失われたような気持ちになってしまう。だって僕は君を……君を、とても深く愛しているんだから」
 うっとりと甘く囁いて、手袋など嵌めていない爪先へと唇を落とす。どこまでも貴族的なその行為に、カリーチェは全身がかっと熱くなるのを感じた。きっと顔は耳まで真っ赤に染まっているだろう。心臓が、これまで一度もなかったくらいの速さで鼓動を打っているし、呼吸もなぜかままならなくなっている。
 だけど――だけどどうしてだろう。ほんの少しも、嫌だなんて思えない。それどころか、胸が震えそうなほどの歓喜が全身を満たしている。
 つまり、結局はそういう事だったのだ。カリーチェの不安や恐れはウィロビーの真意がどこにあるのかがわからなかった事に起因していた。故に、彼のこのあまりにも唐突な申し出が彼女への想いから来ているのだと知らされたとたん、彼女の中からネガティブな思考が一度に掻き消えた。
「ウィ……ロビー、様」
「カリーチェ」
「ウィロビー様」
「うん」
 穏やかな笑顔をほんの少し強張らせている青年をじっと見つめ、カリーチェは今にも逃げ出したくなっている自分を必死で嗜めつつ、思いを口にする。
「わ、たし……も、ウィロビー様を、お慕い申し上げております」
 最後の方は情けないほどに小さな声になってしまった。だけどそれも、目の前に跪いているウィロビーの耳に届くには十分な大きさで。
 一瞬だけ呼吸を止めた彼は、まるで無邪気な幼い少年を思わせるような笑みを満面に浮かべ、すっと腰を上げるとカリーチェの身体を強く抱きしめた。
「きゃぁっ!」
「カリーチェ、嬉しいよカリーチェ! ああ、僕はその言葉をずっと聞きたいと思ってたんだ。すごい、ああ、なんだかもう、このまま君を抱きしめたまま、空を飛べそうな気分だ!」
 正直なところ、ぎゅうぎゅうと全力で抱きしめてくる腕は少しどころでなく痛かった。けれどその痛みが、カリーチェにこれは現実なのだと教えてくれる。
 何もかもがあまりにも突然すぎて戸惑う事が多いけれど、それでも衝撃が薄れるにつれ、幸福感が湧き上がってくる。
 硬直していた身体をほんの少し和らげて、あたたかな胸に頬を沿わせる。とたんに聞こえてきたとくとくと小刻みな心臓の音に、カリーチェはウィロビーの腕の中でそっと微笑んだ。