かぶ

幸せな獣

「……ねえ、貴方。そろそろね、いいんじゃないかと思うの」
 穏やかなお茶の時間、中庭できゃいきゃいと転げまわるようにして遊ぶ子供たちを見つめていた皇太子は、妻の言葉に首を傾げました。
「いい、というのは、何の事だ?」
「だから、私があなたにかけた魔法。そろそろね、解呪しようかと思って」
 どの魔法の事だと口にしかけてぴたりと動きを止めた夫に、后の魔女はそっと微笑みました。
「今の貴方なら、また新たに側室を宛がわれても、国を傾けかねないほどに耽溺する事も、あの子たちをないがしろにする事もなくなると思うの」
 昔の貴方では、子供ができてもきっと目もくれなかったでしょうから。そう微笑む妻へ、皇太子は慌てたように返します。
「だが……お前はそれでいいのか? 私がまた、他の女の下へ行っても、本当にいいのか?」
「いい、悪いは私が決める事ではないわ。第一、貴方のような身分にある方は、本来側室の二人や三人持っていて当然でしょう? 国王陛下だって、かつての貴方ほどお盛んではないけれど、今でも二人、傍に置いておられるじゃない」
 きょとんとして返す魔女に、皇太子はずきずきとこめかみの辺りが熱を持つのを感じます。
 違う、違うのです。彼が言いたいのはそういう事ではないのです。
「私はお前の心を気にしているんだ。あの時お前はとても傷ついていただろう? 当時の私はお前に対して、国を護ってくれている事に対する感謝はしていたが、愛情は欠片も持っていなかった。むしろ厄介な荷物ぐらいの気持ちでいたのだ」
「ええ、知っていたわ」
 さらりと返された言葉に心が痛みます。けれど今はそれを敢えて無視して言葉を続けました。
「今も言ったように、私にとってのお前は、どうなってもいいくらいの存在だった。その有能さと美しさがなければ、きっと喜んでお前をあの島に帰していただろうという程に。――だが、今は違う」
 そういえば、この事を告げるのは、これまで一度もなかったかもしれないと、今更に気付きました。気付いて改めて魔女へと視線を向ければ、彼女はまた、わかってます、とでも言いたげな顔をしています。
「ええ、それはそうでしょうね。だって私は、貴方にあの子たちを産んでさしあげたんですもの」
 ――案の定、でした。思いっきり溜息を吐きたくなる自分を抑え、皇太子は酷くなる頭痛を堪えてゆっくりと頭を振ります。
「だから、そうじゃない。いや、確かにそれも一部あるのは確かだが、それでも違う。確かにお前にこの呪いをかけられた時には恨みもした。だが、今ではそれでよかったのだとすら思っている」
「え……」
 純粋な驚きに目を丸くする妻の手を取ると、皇太子はそっとその細い肩を抱きました。
 一度、訊ねた事があったのです。彼女の目に、自分はどう映っているのかと。その時の答えが真実なのならば――嘘を吐けないように生まれついた魔女である彼女の言葉なのだから、当然真実なのだろうけれど――この剣を取るに似つかわしい大きくごつごつとした男性的な手は濃い灰色の剛毛で覆われており、漆黒の髪が覆っているはずの形のいい頭部にもくすんだ鋼色のの獣毛がごわごわと生えている。大きく不恰好な鼻はさらに押し潰されたようになっており、その下の口は大きく引きつれて不揃いな黄色い歯が並んでいて狼にも猿にも虎にも豚にも見えるような、そんな歪な形相をしているはずなのです。そしてそれは、見慣れかけた頃にまた一層酷い形相へと変化をするのだとか。
 そんな男にこんなにも近寄られても、彼女はほとんど動じません。ただごく稀に、自分の目に映っているまやかしを再認識して、気付かれないように身を震わせるくらいです。
「だけど……だけど貴方は、美しい女性たちが好きでしょう? 中にはとても寵愛していた方もいたと聞いたわ。私ね、ずっと申し訳なく思っていたの。貴方から、私の嫉妬心と独占欲だけで愛する人たちを奪ってしまったと」
 そっと目を伏せて懺悔する妻を抱く腕に力を篭めます。そうしてそのこめかみにそっと唇で触れると、皇太子は極力穏やかに聞こえるようにと言葉を綴りはじめました。
「お前は本当に、有能なくせにどうしてそんなに馬鹿なのだ。あの女たちが本当に私を愛していたのならば、私がどんな姿に見えようとも後宮に残っただろうし、私があの女たちの一人でも愛していたのならば、鎖に繋いででも放しはしなかった。だが、現実はどうだ? 私が去らないでくれと懇願したのは、後にも先にもお前一人だ」
「だってそれは、私が魔女で、政治や経済に強くて……」
「そんなもの、お前以外でも役に立てる者はいるだろうが。守護の魔法だって、お前がこの国に留まらずとも効力は消えないのだろう?」
「ええ、それは。あれは私の魔法そのものをこの国に移し変えたものですから」
「であれば、国守りの魔女としての役目すら、お前はまっとうしていたという事になるな」
 魔法の事となれば自信たっぷりになる妻へと皇太子が満足げに笑って見せれば、あ、と呟いてまた困った顔になってしまいます。
「では……では、どうしてですか? 私程度の女など、捜せばいくらでもいたはずですし……」
「そうだな。お前程度の美しさを持つ女なら、確かにいくらでもいる。だが、お前は一人しかいない」
 彼女の目にはどう映るともしれないものの、皇太子は優しく微笑んで、妻を抱きしめました。
「お前を愛しているのだ。他の女になど、目もくれたくないと思うほどに」
「貴方……」
 重ねあった胸を通して、妻の心臓が早鐘を打ち始めるのを感じます。それが自分の望む理由によるものであればと、皇太子は強く願いました。
「――私、ちゃんとわかってたわ。貴方が私を、愛してくれている事なんて」
「え……?」
「だから、だからこそ、魔法を解きましょうと、そう言ったの」
 ゆっくりと身体を離した妻の目には、薄っすらと涙が幕を張っていました。その頬は薔薇色に上気して、太陽の日差しの中に解けてしまうのではないかと思うほどに美しく映ります。
「どういう、意味だ?」
「今なら子供たちもいるし、貴方は私に確かに心を預けてくれてる。だから他の女性を寵愛しても、私を忘れる事も、あの子たちを忘れる事もなくなると、そう信じているの」
「だが……」
「ええ、もちろん嫉妬はするでしょうね。だけど愛されていないままでいるのと、愛されている事を知っているのでは、心の持ちようもまったく変わるわ。―― あの時、貴方の事を、本当に心から慕っている娘たちもいたの。その事を、私は知ってた。知っていて、奪われるのが怖くてこんな理不尽な魔法をかけてしまった」
 瞳を後悔に翳らせる魔女にお前は何も悪くないのだと伝えてやりたいと、皇太子は思いました。けれどそれを今の彼女は求めていないのだと気付き、口を噤みます。
「本当なら、貴方を心から慕い、貴方自身も愛しく想う相手には正しい姿が映るようにすればよかったの。でも、それすらも――いいえそれこそが、怖かった。貴方が他の誰かを心から慈しむ姿を見るのだけは、耐えられなかった。だから私は、私自身ですら含めてしまう魔法を使う事にしたの。そうすれば、公平になるからって」
「公平?」
 妻の口から飛び出した言葉に驚いて、皇太子は思わず鸚鵡返しに問うてました。辛うじて涙を抑えながら、彼女はこくりと一つ、頷きます。
「他の女性たちだけに貴方の姿を歪めて映して、私だけが正しい姿の貴方を見るなんて不公平がすぎるじゃない。だから、したの。貴方や、貴方の関心を奪った、奪おうとする女性たちだけでなく、私自身も罰するために。貴方を孤独に追い込み、貴方に恋する心を挫かせるような真似をした自分自身の罪を知るために」
 昏い眼をする魔女に、皇太子はどう言葉を返していいのかわかりませんでした。けれど、ひとつだけははっきりとしているのです。
「私は、お前以外の女人など、別に必要とはしていないよ。子供たちを産んでくれたからというだけではない。お前が、私に愛情がどういうものかをその身でもって教え、証明してくれたからだ」
 皇太子は驚いたように息を止める妻の額にそっと唇で触れました。ふるりと身体が震えたのは、容姿に対する嫌悪からなのか、それとも違う理由からだったのでしょうか。
「だから、お前がどうしても解きたいというのであれば解けばいい。だが私としては、お前の心を煩わせる可能性が少しでもあるのであれば、今のままでいたいと思う」
「あ、なた……」
 ほろりと、とうとう一粒、魔女の瞳から雫が零れ落ちました。それをすいっと指先で掬い取り、ほろほろと次から次へと真珠の涙を零す妻の目じりへと唇を寄せ、胸を刺す味のするその水滴を拭います。
「私は獣の姿を持つと言われている。人は私を不幸だと言うかもしれない。だが、真実はそうではない。――私はきっと、世界で一番幸せな獣だ」
 優しく囁いて、ほろほろと涙を零す妻の唇へと口付けを落としました。妻の魔女の身体が腕の中でふるりと震えたのを感じたのと、頭の奥でぱちんと何かが弾けるような音がしたのはほとんど同時でした。
 一つの確信にも近い予感を覚え、皇太子はそっと妻から身体を離します。そうして覗き込んだ魔女の顔には、とても穏やかな微笑が浮かんでいました。
「――なぜ」
「だって、本当に必要ないもの。私にも、貴方にも。だから解呪した。それだけよ」
 そっと夫の頬に手を伸ばす魔女の瞳には、彼女が皇太子に呪いを掛けたあの日から――いいえ、それよりはるかに前から見られる事のなくなった輝きが宿っていました。
 その輝きを目にして、皇太子は改めて思いました。なんと美しい女性なのだろうかと。長い間悲しませ、苦しめてきた事実に胸が苦しくなります。けれど同時に思ったのです。彼女に見初められ、彼女の愛情を受け取る事のできた自分は、やはりとても幸運だったのだ、と。