かぶ

Truly Madly Deeply - 19

 キッチンから足早に離れた隆は、ベッドの足元にあるクローゼットの中にある腰の高さまであるローチェストの引き出しを開けた。適当に黒地のノースリーブシャツと色あせたブルージーンズを取り出してスポーツバッグを担ぎなおすと、バスルームの脱衣所へと向かった。
 手早く着替えて汚れ物を洗濯機に放り込んでしまえば、もうする事は何もない。これまでの経験から、依子の手伝いができるのは料理が出来上がってからだから、彼女に呼ばれるまでは本当に手持ち無沙汰なのだ。
 どうせ何もする事がないのならメールチェックでもしておこうかとばかり、隆はパソコンの電源を入れる。本体は足元に置いているから、広々とした机の上には、モニタとスピーカーを除けば使いっぱなしになっていたシャープペンシルが数本と昨夜使った参考書が載ってる以外は何もない。
 大して待つ事もなく立ち上がったログイン画面で惰性のようにパスワードを打ち込み、無駄なアイコンのほとんどないデスクトップが表示されるのを待つ。アンチウィルスソフトのアップデートが終わると、スタートアップに設定しているネットラジオプレーヤーとメールソフトが自動的に起動した。メールソフトの起動処理と自動送受信が終わるのを待つ間に、ネットラジオプレーヤーのチャンネルリストから最近よく聞いている局を選択して再生ボタンを押す。僅かな時間差を置いて、スピーカーから聞き慣れたヒットチャートが流れ出した。
 男にしては甲高い声が、街で見かけて一目ぼれした女性の事を切々と歌い上げるのを耳にして、今日は依子がいるのだから、別に音楽をつける必要はなかったのではないかと思い至る。
「……まあ、別にわざわざ消す必要もないか」
 苦笑混じりに一人ごちて、隆は受信し終えたメールへと目を通していく。新着メールはどれも大した重要性のないものばかりで、必要な返信もそう時間をかけずに全て終えてしまう。
 さてどうしようかと、すわり心地のいい椅子に全身を預けて隆はそっと溜め息を吐く。
 キッチンからは、音楽に混じってさっきまで聞こえてきていたリズミカルな包丁の音は聞こえてこない。代わりに何かを炒める、香ばしい匂いと音が空っぽの胃を刺激する。
 食べ物への欲求が高まると同時に、そう遠くない距離で調理している依子の姿が隆の脳裏に浮かんでくる。
 傾きかけた陽光と噴水を彩るライティングに照らされた依子は、駅の階段を転がるように駆け下りた隆の息を奪うには十分すぎるほど綺麗だった。
 試験中にもその後も、隆は何度か彼女が女の子らしい服を着ているのを見た事があった。けれど今日は、きっと初めてのデートのはずだったからだろう、いつもより一層可愛らしい姿をしていて――ギリギリのところで理性が煩悩を克服したからそれは実行に移さなかったのだけれど、駆け寄る勢いのまま抱きしめてキスしたくなったくらいだ。
 改めて考えてみれば、依子がスカートを吐くようになったのは試験後になってからだったし、ノースリーブシャツを着る事は時折あったものの、今日のように肩が完全に出るキャミソールを隆の前で着るのは初めてだ。
 彼らが二人きりになるのが主に依子の部屋だった事から、もしかするとこれまで彼女は意識して服を選んでいたのかもしれないと、隆は今更に気づく。
 気づいたとたん、依子が自分の部屋にいるのだという事が――それも無防備としか言いようのない格好をして――やけに鮮明な実感として隆の中に息づいた。
 やっぱり今日はこれまでで最良かつ最悪の日かもしれない。
 そう胸中で嘆息したところで、隆は自分を呼ぶ依子の声に気づいた。
「……あの、神沢君?」
「ごめん、ぼうっとしてた。――それよりどうかした?」
 椅子から立ち上がり、キッチンから顔を出している依子へと視線を向ける。壁から覗いている肩は元々着ていた薄いレースのボレロに包まれていて、さっき貸したシャツはもう脱いだのかと頭の片隅が認識する。残念なような嬉しいような奇妙な感情が胸の奥でもやもやと渦巻いている。
「ご飯の用意できたんだ、けど……」
「わかった。じゃあ――って、あ……」
 依子の元へと足を進めかけ、隆は彼女が奇妙な表情をしている理由に気づく。
 一人暮らしを初めてから一年と少し。その間に人を招いて食事をした事など一度としてないし、いつもは無駄に広いパソコンデスク兼勉強机か、行儀は悪いけれどキッチンのカウンタで食事を済ませていたため、たった今まで気づかなかった。食事をするための、テーブルがないという単純な事実に。
 まさか自分と同じ事を依子にさせるわけにもいかなくて、どうしようかと隆は天を仰いだ。
「悪い。うち、テーブルってないんだよな」
「え、本当にないんだ? てっきりどこかに片してるだけかと思ってた」
 目をぱちくりとさせる少女に苦笑が漏れる。
「部屋は広く使いたかったからはじめから置いてないんだ。いつもはこの机で食べてるし」
「……もしかして神沢君って、そういうところあんまり気にしない人?」
「ていうか、実家でうるさく言われすぎてたから、一人になったとたんどうでもよくなったって感じ?」
 小首を傾げる依子を真似て自分も首を傾げながら返せば、ああなるほど、と、やけにすんなり納得された。
「峰倉さ、床に物置いて食べる事に抵抗感じる方?」
「んー……あんまり気にしないかな。遠足とかでも慣れてるし」
「じゃあ、テレビ前に適当に直置きしていい? どうせ秀人とか洋司が来た時はあそこで適当に飲み食いしてるから汚れても気にしないし」
「それじゃあ、遠慮なく」
 苦肉の策を口にする隆にあっさり頷いて、依子がキッチンへと引っ込む。その後を、隆は慌てて追いかけた。
「待って、峰倉。運ぶのは俺がする」
「あ、うん。じゃあお願い」
 少女に続いて足を踏み入れたキッチンは、これまで見た事がないほど生活感に溢れていた。それは例えばシンクの中に重ねられている鍋だとか、洗って壁に立てかけられたまな板だとか、料理を盛り付けられた皿だとかによるものだろう。けれど無機質だったキッチンを息づいた空間へと変えたのが依子だという事実に、隆の胸が不思議なざわめきを覚える。
 初めて使われる深皿に入っていたのはきのこのソテーがたっぷり乗せられたスープパスタだった。香り付けに入れられたニンニクと胡椒の匂いがどうしようもなく食欲を掻き立てる。二人分のそれをラグの方へと運び、飲み物とそのためのグラス、それからカトラリーを依子が持ってくるのを先に座って見つめていた隆は、ふと思い出したように訊ねた。
「音楽、消した方がいい?」
「え?」
「いや、さっきから流しっぱなしだったから。峰倉は部屋で音楽とか聴いてないだろ? だから、もしかしたらうるさいかって思ったんだけど」
「そんな事ないよ。騒がしいのは学院で慣れてるし、音楽聴くのも嫌いじゃないから」
 だから気にしないで。言いながらいつもの様に自分の左側へと足を揃えて依子が座る。何気なく彼女の肩越しにキッチンへと視線を投げて隆はしみじみと呟いた。
「……なんか、あのキッチンがまともに使われるのってはじめてかも」
 乱れたスカートの裾をそっと直しながら、鍋や食器を探すために開けた戸棚の中の整然とした様子を思い出し、そっと苦笑を漏らす。
「確かにそんな感じだったね。お鍋もフライパンもみんなピカピカだもん。使うのもったいないとか思っちゃった」
「ハウスキーパーに夕食を用意してもらってた時も、どっかで作ったの持ってきてるみたいだったから……うん、やっぱこのキッチン、まともに使ったのって今日が初めてだ」
「うわぁ、本当に持ち腐れだったんだ。圧力鍋とかもあったのに……もったいない」
「圧力鍋?」
 聴きなれない言葉に眉を顰める隆に、ペットボトルの烏龍茶をグラスに注ぎながら依子は、うーん、と唸る。
「造りがちょっと特殊でね、調理中のものに圧力をかける事で熱の通りをよくするの。シチューとかカレーみたいな煮込み系の料理を短時間で仕上げられるし、肉じゃがとかでも普通のお鍋で作るより美味しくなるって聞いた事ある」
 言葉を選び選び説明する依子に、隆はへえ、と目を丸くする。
「じゃあさ、それ使って今度何か作ってくれる?」
「え?」
 ボトルのキャップに手を伸ばした体勢で依子が振り返った。目をぱちくりとさせる彼女は純粋な驚きを露わにしていて、そんな事を言われるなど想像していなかったのだと知れる。
「……ごめん。やっぱ俺、甘えすぎてる?」
「……いいの? あたしまた来ても」
 気まずい沈黙が落ちかけたタイミングで、二人は同時に口を開いていた。互いに驚いて一瞬口を噤み、それから顔を見合わせて笑い合う。
「もちろん来てくれていいし、来て欲しい。飯も作って欲しい」
「神沢君にとってお邪魔じゃないなら、食事ぐらいいくらでも作るよ?」
 二人の間に一瞬走った緊張感はもうその名残も残していない。穏やかな空気に安堵したのか、身体の力を抜くように大きく息を吐いて依子は口を開いた。
「一応少し硬めの湯で加減にしたんだけど、すぐに伸びちゃうから早く食べないと」
「了解。じゃあ、いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
 きちんと手を合わせて食前の決まり文句を口にすれば、嬉しそうな笑みを浮かべて言葉が返される。
 こんな些細なやり取りも、一緒に食事をするのも初めてじゃないくせに、ここが自分の部屋だからか、どことなく照れくさい。
 そんな気分を振り払うように、隆は早速とばかり深皿を持ち上げると、自分のフォークにパスタをくるくると器用に巻き付けて口に運ぶ。その横顔を、依子が息を呑んでじっと見守っている。
「……美味い」
 いつもの事ながら、短い言葉が口を突いて出てくる。率直に漏らされる感想はそのまま隆の素直な思いで、だからこそ依子はその一言を何より大切に受け止める。花が綻ぶように笑みを浮かべ、依子も小さくいただきますと口にしてから自分のパスタに手をつける。ぱくりと掬い取った一巻きのスパゲティを口の中に運び入れ、うん美味しい、と呟いた。
 まるで初めて食べるような言葉に驚いて、隆はほとんど反射的に尋ねていた。
「峰倉、味見とかしてないの?」
「まさか。ちゃんと味見はしてるよ。でも、ガスじゃないコンロって初めてだったから、湯で加減に自信がなかったんだ」
「……俺、料理作らない人だからわからないけど、やっぱり違う?」
 率直な疑問に依子がきっぱりと頷く。
「なんていうか、ガスだと目で火の見えるから細かい調整しやすいんだけど、電気だと、つまみがどの位置でどれだけの強さってのがはっきりしないし、強さを調節しても、反応が見えないから手ごたえがイマイチで。細かい火加減の調整が必要な料理はよっぽど慣れないと難しいかも」
「ふうん……じゃあ、峰倉はやっぱガスの方がいいんだ?」
「慣れてるし、目でわかるから」
「ならやっぱ、うちにある鍋とか、峰倉んとこ運んだ方がいいかも?」
 その方が料理しやすいだろ?
 だしの効いた、けれど薄味であっさりめのスープを啜りながらそんな事を口にする隆に、依子は僅かに目を瞠って、それからゆっくりと首を横に振った。
「圧力鍋みたいに大きなもの、うちには置く場所ないよ。それにここの調理器具、あたしが見た感じだとガスコンロ非対応っぽかったから使えないと思うし」
「鍋にもそんな違いあるんだ。――使えねえの」
 どうせ揃えるならどっちでも使えるのにしとけばいいのに、と、拗ねたような口調で隆が呟く。
 それがあまりにも子供っぽい言い草で、依子はたまらず吹き出した。