かぶ

若紫な君 - 01

「――阿呆言わんでください! 確かにこの子にはそれなりの手習いはさせてますし躾もしてます。せやけどここはお茶屋でもなければ置屋でもおまへん。店の手伝いはさせても、座敷に出すとか、ましてや旦那をつけるなんて、ちいとも考えてなんぞあらしまへん!」
 和やかな空気を切り裂いて響いた鋭い声に、刑部秀人(おさかべ ひでと)はぴたりと箸を止めた。
 北新地の外れにある小料理屋『梓(あずさ)』は、二ヶ月ほど前、会社の上司に連れてきてもらって以来、純朴ながらも上品な味付けの料理とゆったり落ち着ける雰囲気が気に入って、懐の余裕を見ては足しげく通っていた。
 こじんまりとしている店は、十人程度が座れるカウンターにオープンな座敷が三つと、プライバシーの守られる奥座敷が一つ。純和風の店で、女将も店子も控えめな柄の着物を纏い、穏やかな関西訛りの言葉で話しては膳を上げ下げする。
 元は芸妓だった女将の梓が十年ほど前に芸妓を引退し、それまで貯めた資金と当時の旦那の援助でもってはじめたらしいこの店には、女将が昔馴染みで無理を言って引き抜いたという板前と、その弟子が一人に加え、数人の店子がいる。このお運びの女達は、女将の古い知り合い――つまりは彼女と同じく元芸妓であったり、その妹や娘といった関係にあるためか、その動作には、若い娘でさえ今時の少女達によくある乱暴な雑さはない。
 そんな店で、それもよりにもよって女将が声を荒げるなど普通ではありえない。
 一体何事かと声のした方へと視線を向けると、この小料理屋の女将が、店の仲居の制服である桜色の着物に身を包んだ少女を庇うように背に隠し、目の前の客と対峙している。
 耳に届いた言葉から鑑みるに、どうやらあの少女に客がしつこく言い寄っているらしい。
 聞いた話では、仲居として働いている女達はいざ座敷に呼ばれても遜色ない程度の手習いを受けているらしいが、それはあくまで女将の前身が前身であるため、身に着けておいて悪くないからと習わせているのであり、実際に座敷に出て客に披露させるための芸ではない。芸妓になりたいのであれば、正式に置屋に入ればいいというのが女将の言である。
 しかしどうやらこの客は、その辺りを正確に理解していないらしい。その上かなり酒を飲んでいるらしく、女将の剣幕にもまったく動じた様子を見せない。むしろ酔いによってもたらされた強気でもって、更に傲慢な言葉を吐き出した。
「せやけど女将。どうせいずれは座敷に出る事になるんやろ? ちょいと早いか遅いかの違いやないか」
「宮川さん、寝言は寝てから言うもんや。ええですか? この子はうちのおねえさんからの大切な預かり者なんよ。この子が自分から芸妓になる言うて、その上でこの人を旦那にしたいて言い出したなら話は別やけど、そうでもない限りは真っ当な道歩ませるつもりです」
「へぇ。ほな要(かなめ)ちゃんがうん言うたらええっちゅう話やな。……なぁ、どうや? おっちゃんが面倒みたるさかい、要ちゃん、おっちゃんとこ来ぃひんか?」
 下卑た笑いも露に、宮川と呼ばれた男は女将の背後にいる少女へと詰め寄る。その動きを遮り、女将が常は白い顔を怒りに赤く染めて声を張り上げた。
「けったいな事言うんも大概にしてください! 冗談もここまで来たら冗談ですませまへん。お代は結構やからさっさと引き取っていただきましょ」
 ぴしゃりと言い切り、客を追い出さんと伸ばされた女将の手を少女が押さえた。
「おばちゃん、そんな事したらせっかくの常連さんなくしてまうで?」
「要。ここはあんたが口出すとこやおへん。ええからさっさと奥に戻りおし」
「せやけど、このままやと宮川のおっちゃんも納得できへんやろ? ええからちょっと、うちに任せてや」
 女将に比べるとはるかに大阪訛りの強い言葉を口にししながら宮川の前へと進み出た少女の姿に、秀人は内心で感心の声を上げた。
 年の頃は十六か七だろうか。後頭部で一つにまとめられた髪は今時珍しいぐらいに艶やかな黒色で、ほっそりとしたうなじの白さが際立っていた。背丈は決して背が高いわけではない女将の肩をわずかに超えている程度だから一五〇前後だろう。着物を着るに相応しくすっと背筋が伸びていて、ともすれば見惚れてしまいそうなほどに姿勢がいい。アーモンド型の大きな目ときゅっと引き締められた口元に、生来のものであろう気の強さが垣間見える。凛とした横顔には幼さがまだ残っているが、それでもあと数年が楽しみになるだけの素質がはっきりと見て取れる。
 なるほど。こんな少女を前にしたのでは、酔った男が妙な気を起こすのもある意味当然だろう。だからといって擁護するつもりはないが。
 ようやく目当ての娘が目の前に現れたのを見て、宮川がにへらと更に表情を緩める。
「お、要ちゃん。なんや、やっぱおっちゃんとこがええんか? ん?」
「……おっちゃんには悪いけど、それはできへん。うちは芸妓になるつもりはあらへんし、なるとしても、旦那になってもらうならこの人て心に決めた人がおるんや」
 きっぱりと告げる少女に女将が戸惑いの声を上げる。
「要、それどういう意味やの? あんた、一体いつの間にそんな相手……」
「せや、一体どういう事やねん! その相手っちゅーんはどこのどいつや! わしの目の前に連れてこんかい!」
 相対する大人が二人に増えたというのに動じた様子もなく、要ははにかみながら視線を秀人へと向けた。
(え?)
 真正面から少女の視線を受け止め、秀人はきょとんと瞬きを繰り返す。
「――わざわざ連れてこんでもそこにいはります。しばらく前からこのお店を贔屓にしてくれたはるお客さんで、刑部さん。あの人が、うちが旦那になって欲しい思うてる人です」
 驚きのあまり、酔いが一気に醒めた。
 さっきまではざわついていた店内も、今や完全に静まり返っている。誰もが驚きに声も出せずにいる中で、少女一人が平静な顔をして秀人を見つめていた。
 そんな中、真っ先に現実に立ち返ったのは女将だった。
「……刑部さん、うちの要とは一体どういう……?」
「せや、おどれ一体何モンやねん! 人が見初めた女、横から掠め取るつもりやないやろな!?」
 訝しげな視線と共に問いかける女将に触発されたのか、唖然としていた宮川も我を取り戻し、憤然と秀人に突っかかってくる。それを溜め息混じりに制したのは、やはり要だった。
「阿呆言わんでください。このお人はうちの事なんか、多分今まで知らんかったはずです。うちが勝手に片思いしてるだけや。それに、考えてもみてください。うちはまだ中学生なんよ? 相手にしてもらえるはず、あらへんやん」
 どこか寂しげな笑みを浮かべる要は、しかし彼女が言うほど幼くは見えなかった。大人と子供の狭間に佇んでいるような雰囲気から、成人していないだろうとは思っていた。けれどいくら幼いとは言ってもせいぜい高校生にはなっているだろうと思っていたのに、まさか中学生だったとは。
 女将が宮川の発言に対して激怒したのも得心が行く。
 そんな事を、衝撃の抜け切っていない頭でぼんやり考えているうちに、要は感情の見えない笑みを浮かべ、宮川へと一歩近づいていた。
「宮川さん、今日はもう帰った方がええんちゃいますか。こんなに酔っ払っとるからうちみたいな子供もええように見えてまうんよ。家には別嬪さんな奥さんが待ってるんやろ? ちゃんと帰ったらな、可哀想や」
「……せやな。要ちゃんのいう通りや。今日は帰る事にするわ」
「そうしてください。――裕美子(ゆみこ)姉さん、お勘定お願い」
「はいな」
 実に見事な手際で場を収め、数分前までの荒れ具合が嘘のように機嫌よく帰っていく宮川を見送った要は、自分に注目している客達をぐるりと見回すと、
「お騒がせして申し訳ありませんでした」
 そう、笑顔でぺこりと頭を下げた。