かぶ

はじまりの時

「ちょっとちょっとちょっと! あかんてあれ! あんなん反則やわ!」
 調理場の横にある、飲み物やグラス、おしぼりなどが置かれたスペースに飛び込むなりそう叫んだ裕美子(ゆみこ)の声は、すぐ裏の居間で宿題をしていた要(かなめ)の耳にもはっきりと届いた。
「なんやの裕美子姉さんそんな声出して。女将に聞かれたらはしたないて叱られるえ?」
「せやけどしゃあないやん! あんな美形間近で見ておかしならん方がおかしいわ。ああもうほんまびっくりした。あの人芸能人かなんかやろか……?」
「へぇ、姉さんがそこまで言うような男前さんが来たはんの?」
「それは気になりますねぇ。ほなうち、ちょっと表出てきます―」
「あ! こら! 抜け駆けはなしやよ!」
 きゃあきゃあと楽しげに交される姉さん方の言葉に興味を抱き、要は手の中のシャープペンシルをぱたりとちゃぶ台に置いた。
「裕美子姉さん、そんな男前さん来たはるん?」
「なんや、要ちゃんも興味あるん?」
「そら、うちかて女の子やし、男前がおるって聞いて、黙ってられるわけあらへんやん」
 にっと笑って肯定すると、そこに集まっていた姉さん方がそらそうやな、と笑いさざめく。
 要の養い親である梓(あずさ)が女将をするこの店で働いているのは、みんながみんな梓の昔馴染みなため、要が幼い頃からずっと知っている相手だ。時々子ども扱いどころか赤ちゃん扱いされる事があるのが少々難だけれど、元芸妓の梓の古い知り合いという事もあり、身のこなしも優雅で礼儀作法も整っている。そんな大人達に囲まれて育ってきているせいで、同じ学校に通う同世代の少女達の行儀の悪さに、うっかりこの子の親は何を教えているのだろうかと眉をしかめてしまう事も多々あったりする。
 それはさておき今気にするべきは男前のお客だ。
「どの席に着いたはるのん?」
 何気ない調子で訊いた要に、裕美子があっさり応えた。
「表座敷の一番こっち側、三番さんよ」
「……せやったら、そこから見えるんちゃう?」
「うーん、どやろ? ちょっと待ち」
 要の目に浮かぶ純粋な好奇心にふふ、と笑いながら、裕美子はたおやかに身を翻す。
「――あ、見えるわ。ちょっと遠いけど、要ちゃんやったら見えるんちゃう?」
「ほんま!?」
 声を上げると同時に予備のぞうりに足を滑らせて、表と奥を遮る暖簾に取り付いた。……後ろから姉さん方の楽しそうな笑い声が聞こえるが、この際は無視する事にする。
 そっと暖簾を持ち上げて店の中へと視線を巡らせる。
 一番最初に飛び込んでくるのは、奥座敷とお客さん用のお手洗いに続く入り口の手前に置かれている、梓が手ずから活けたお花。そこから少し左に視線を動かせば、和風の衝立で遮られた表座敷のうち真ん中と一番奥の二つが見える。ちなみに一番入り口に近い座敷は、カウンターの陰になってこの場所からは見えない。
 比較的正面に近い三番座敷には、三人の男性が座っていた。
 要から見てテーブルの右側、つまり奥の上座に座っているのは中年を越えたおじさんで、その人じゃないだろうと即座に判断する。次にテーブルの左側へと視線を向けると、そこには男性が二人並んでいた。けれど手前の人が身体ごと奥にいる人を向いているため、どちらの顔も見る事ができなかった。
 けれどそのぴんと伸ばされた背筋のいい背中から、ほとんど瞬間的にこの手前の人だと要は直感した。その直感を確かなものにするために、要は裕美子を振り返る。
「姉さん、奥と手前のどっちの兄さんなん?」
 ほんの少し焦燥混じりに問う。こんなところを梓に見られてしまっては大目玉が確実だから、少しでも早く顔を見て、居間に戻らなければならない。どっちでもええからはよこっち向いてぇな! そう叫びたくなる自分を抑える要に、調理場から一品料理の載った皿を受け取りながら裕美子がおっとりと答えた。
「手前のお客さんよ。――丁度ええわ。今からお料理運ぶさかい、うまい事こっち向いてもらえるようにしたる」
「おおきに!」
 ぱっと満面に笑みを浮かべる要にしゃあないなぁ、と苦笑を浮かべ、桜色の着物に身を包んだ裕美子は皿でいっぱいのお盆を手に表へと出る。即座にもう一度暖簾に取り付いた要は、息を呑んでそのしゃなりとした後姿を見つめる。
「お待たせしました」
 下座側にお盆を置き、流れるような動作で座敷に上がる裕美子を、テーブルを囲む男三人が振り返った。
 瞬間、要は自分の心臓が一瞬、ぴたりと止まったのを感じた。その次の瞬間、とてつもない勢いで心臓が動き出す。
 暖簾を掴む手に力が入る。全身が熱くなる。まるで全力疾走をした直後のようだ。
 それぐらい、衝撃を受けた。
 なまじ躾に厳しい上質な大人達の元で育ったせいだろう。要はいわゆる今時のちゃらけた男にはこれっぽっちも興味をもてなかった。服だ髪だと外見を気にするより、先に中身をしっかり確立させろと言いたくなる。
 けれどそんな感想が浮かぶ余地がまったくなかった。
 スポーツ刈りかそれより少し長めの真っ黒な髪は、整髪料で天を突くように立たされている。広くも狭くもない額の下にはきりっとつりあがった太い眉と、少し目尻の下がった双眸。日本人には珍しいほど綺麗に筋の通った鼻と、笑みを湛えた薄い唇は、弛みのない鋭角な、髭のきちんと剃られた顎と調和して凛とした空気を醸しだしている。
 その奥に座る男性との比較からも、彼の身体がかなり大きいとわかる。きっと要が並べば文字通り大人と子供の身長差だろう。あんな風にスーツがしっくり似合うという事は少なくとも数年の社会経験があるはずだ。そう考えれば年齢だって一回り近く違ってもおかしくない。
 けれど、それでも、はっきりとわかってしまった。
 あの人だ、と。
 どこか麻痺している頭の片隅で、幼い頃から、何度も聞かされてきた要の実母と実父の恋物語を思い出す。
 出会った瞬間にこの人なのだと確信を得たのだと囁く母の、どこか儚げで、けれど自信に満ちた微笑を。
 その直感が、必ずしも完璧なハッピーエンドには繋がらない事も理解している。両親を見れば、それは明白だ。二人は深く愛し合っていたけれど、父には母や要とは別に、彼の立場に見合った妻と子がいる。なぜそんな事になったのか、その理由も事情も、きちんと知っている。
 だから――この想いが、本当に完全な意味で叶うとは限らないのだという事は、ちゃんとわかっている。
 だけど、それでも、あの人なのだ。
 全身全霊が、ぞわりと怖気立つような強さで確信している。
「……見つけた……」
 ポツリと零れ落ちたその言葉が契機となり、要はゆっくりと全身から力を抜く。たった一瞬で、恐ろしいほどに緊張してしまっていたらしい。
 既に視界からは消えているというのに、目の前にはあの人の顔がちらついている。それを認識するたび、心臓が苦しいほどに締め付けられる。忙しく動いている姉さん方の邪魔にならないようにと、居間に続く上がりかまちにそっと腰を下ろした。
「要ちゃん、どやった? ちゃんと見れた?」
「姉、さん……」
 裕美子の声に、要は顔を上げる。その顔を見て、裕美子は全てを理解したらしい。
「どんぴしゃやったみたいやね。……なぁ、名前、知りたい思わへん?」
「! 知ったはるんですか!?」
「配膳してる時にちらと聞こえたんよ。刑部(おさかべ)さん、いわはるんやて」
「刑部さん……」
 そっと口にするだけで、また心臓がうるさくなる。けれどそれは先程までの劇的なものではなく、川のせせらぎのような軽やかで心地いいものだ。
 何度か知ったばかりの名前を口にして、心臓の上に置いた手をきゅ、と握る。そしてふわりと微笑んで裕美子を見上げた。
「姉さんほんまおおきにな」
「これくらいお安い御用やよ」
 何いってんの、とからりと笑う彼女にもう一度おおきにと笑って、要は居間へと戻る。
 もう、宿題なんて考えられなかった。宿題なんて、いつも出たその日にやってしまうから、今日の分を終わらせなかったところで明日に支障はない。惰性のように勉強道具を片付けて二階にある部屋に戻り、何も敷いていない畳に身を横たえる。
 まぶたの裏から離れない面影を反芻し、同じ建物の中で舌鼓を打っているであろう彼を想う。
 要は必要とされた時こそ店を手伝うものの、いつもの事ではない。彼がいる時に手伝えるとは限らないし、逆に要が手伝っている時に彼が来るとも限らないのだから、そう簡単に知り合えるはずがない。
 知り合ったところで、彼が自分に興味を抱いてくれるとも限らない。
 けれどいつか、いつかきっと――

* * *

「――阿呆言わんでください! 確かにこの子にはそれなりの手習いはさせてますし躾もしてます。せやけどここはお茶屋でもなければ置屋でもおまへん。店の手伝いはさせても、座敷に出すとか、ましてや旦那をつけるなんて、ちいとも考えてなんぞあらしまへん!」
 梓の言葉に、彼が驚いたように視線を上げる。その目が、はっきりと要を捉えて僅かに細められた。
 ――気づいてくれた。
 状況が状況だというのに、要の胸には純粋な喜びが湧き上がってくる。
 今がその時だと、確信する。彼に自分を知ってもらえる最高の機会は今なのだと。
 きっと後から梓に思いっきり怒られるだろう。けれど、今はそんな事を気にしている場合じゃない。
 彼が要に興味を持ってくれるかもしれないチャンスは、今しかないのだ。
「……おっちゃんには悪いけど、それはできへん。うちは芸妓になるつもりはあらへんし、なるとしても、旦那になってもらうならこの人て心に決めた人がおるんや」
 そう口にした時、声が震えていないかと気になった。だけどここで気弱な態度を取るわけにはいかない。この機会を逃せば、次にいつチャンスが来るとも知れないのだ。梓がいつも言っている、女としての張りを見せるべきタイミングが今なのだ。
 要の言葉に逆上した宮川の勢いに怯みそうになる。けれど背筋をぴっと伸ばして、口元にそっと笑みを浮かべる。そして、事の成り行きをじっと見守っている彼へと視線を向けた。
「――わざわざ連れてこんでもそこにいはります。しばらく前からこのお店を贔屓にしてくれたはるお客さんで、刑部さん。あの人が、うちが旦那になって欲しい思うてる人です」