かぶ

微睡みの場所

 出会いの春は終わりを告げ、鬱陶しい梅雨前線が到来したと気象庁が梅雨入りを宣言したその日、刑部秀人(おさかべ ひでと)は降って湧いた新プロジェクトのサブリーダーに任命され、文字通り寝る暇もない忙しさに放り込まれる羽目になった。
 否。新プロジェクトが近いうちに開始される事は前々から知っていた。そのプロジェクトに携わらざるを得ない事も、だ。
 知らなかったのは、彼がサブリーダーなんぞに任命される事になるというこの一点で、プロジェクト会議のその場でさらりと告げられて見事に十四秒思考停止させてしまった。
 プロジェクトの内容そのものは大して難しいものではない。元々秀人の勤める会社はプログラムの外注を主たる業務としており、今回のプロジェクトも以前に請け負ったシステムをより使いやすく、かつよりセキュアなものにする事を目的とした手直しだ。
 問題は、その締め切りが梅雨明けに重なるであろう約一ヵ月半後というありえないスケジュールである事と、これまで一プログラマとしてしか動いた事のない秀人に、サブという単語がついているとは言え、リーダーの役職が与えられてしまった事である。
「……これ、なんのいじめですか」
 気心の知れたメンバーが集まっている会議室で、下された宣告による衝撃にべったりと机に懐いた秀人が呻くように呟いた。それを聞きつけ、今回のプロジェクトを総括する宮明(みやあき)主任がからからと笑う。
「誰も刑部の事はいじめとらんって。お前の実力を見越しての抜擢や。喜べ」
「嘘や。だってオレより寺田さんのがレベル高いやろ」
「アホウ。寺田は新婚やろが。なるべく早う帰してやらな、新婚半年未満で三行半ってな事になったらどないすんねん。訴えられても会社はどないもできへんねんで?」
「主任、縁起でもない事言わんでください」
 苦笑する寺田に宮明はすまんとあっさり返す。そのやり取りに、秀人はまた唸った。
「新婚優先てどないな理由や……」
「何言うてんねや。今時珍しないで? それにお前、どうせ今彼女もおらんねやろ? この間にがっつり稼いどいて、夏にパーっと遊べばええやん。ついでに経験値も稼げて一石二鳥!」
「……彼女はおらんでも、放っといたら見捨てられるかもしれん相手はおるっちゅーねん……」
 宮明の能天気な言葉に、はぁ、と溜め息を吐いた秀人はほとんど無意識に呟いていた。
「ほう。そら初耳やな。打ち上げん時にでも詳しい聞かせや。――ま、とりあえずそういう事で、来週までに今手がけとる件は他に回すなり無理やり仕上げるなりして片付けといてくれ。ちゅーわけで解散」
 ちゃっかり秀人の呟きを耳にしていた宮明が実に楽しげな笑みを浮かべながらそんな風にまとめ、プロジェクト会議はあっさり解散した。
 ……後に一人、失言したと頭を抱える秀人を残して……


* * *

「……そういうワケやから、来週再来週はまだ大丈夫や思うけど、それ以降からプロジェクトが終わるまではしばらく来れそうにないんや……」
 はぁ、と、サブリーダーに任命されて以来何度目になるか数え切れない溜め息を吐いてネクタイを緩める秀人のグラスに、冷たい麦茶を注ぎながら要は小さくそうなんですか、と呟いた。
 春の穏やかな日差しが初夏のじんわりと照りつける日差しへと変わりつつある。会う度に濃さを増す要の肌の色に気づくたび、そういえば自分もこのぐらいの年齢の頃にはこうだったな、などと昔を懐かしむ思考回路に陥ってしまいがちだ。
 外では否応なしに高まっている湿度と気温に辟易してか、適度に空調の効いた部屋の中にいながらも要はVネックの黒いTシャツを身に着けている。足元はいつもと同じくぴたりとしたジーンズで、健康的に細い四肢にうっかり視線が釘付けになりそうだ。
「嫌やなぁ。うちは一ヵ月半程度会えへんだけで刑部さんの事見限るような度量の狭い女ちゃいますよ。……けど、お仕事そんなに大変なんですか?」
「大変っちゅーか、ややこしいんや。単に自分の仕事さえこなせばええプログラマとちごて、サブリーダーはいくつかのモジュール――プログラムを作る部品みたいなもんやねんけど、こいつらをひとまとめにして、齟齬なく動くかどうかを細こう確認せなあかんねん。個々ではしっかり動いても、組み合わせたとたんに不具合出る事がまた多いんや……って、だぁ! もう、考えるだけで頭痛い……」
 ちゃぶ台に突っ伏す秀人を見て、要は目を丸くする。
 二人が初めて言葉を交わしてから既に二ヶ月近い日が過ぎていた。その間、秀人は要が当初予想していたよりも頻繁に『梓』に来てくれている。もちろん食事のためだけでなく、要に会うために。それだけでなく、ゴールデン・ウィークには、チケットが手に入ったからと、某映画系テーマパークに連れて行ってくれたのだ。
 そして知ったのは、初めて言葉を交わしたあの日に本人が行っていた通り、秀人が意外なほどに子供っぽい一面を持っているという事。
「一応オトナやから体面取り繕う事はできるけど、どうも窮屈であかんねん。けど、オレに寄ってきてくれる女の子っちゅーんは、大抵が『オトナな刑部秀人』に憧れを抱いとるさかい、どないにも素の自分を出されへんなるんや。そんなんで長い付き合いはできへんやろ? 逆に素のオレを知っとる相手は言うたら、オレを恋愛対象としてやのうて友人としてしか見てへん。せやけど……ちゅうか、せやからこそ、要ちゃんにはどっちのオレも見た上でオレの事判断してほしいんや」
 少し真面目な顔で、けれどどこか照れくさそうに言った彼の言葉はとても誠実で、要はまた、秀人を好きになった。
 久しぶりに会ってからほんのしばらくの間は、やっぱりどうしても緊張してしまう。けれどゴールデン・ウィークに秀人の子供っぽい面を存分に見て以来、緊張が解けてくると、ある程度は素の要で接する事ができるようになっていた。それから、少しだけとは言え、気軽に彼に触れる事にも慣れつつ、ある。
 ほんの少し緊張を残した手で、ちゃぶ台に突っ伏している秀人の髪にそっと触れる。スタイリング剤を使っているためくしゃくしゃとかき混ぜる事はできないが、それでも意外に柔らかな髪の感触に、胸がうるさいほど高鳴った。
「要ちゃん……?」
「仕事、大変や思うけどがんばってください。刑部さんとしばらく会えへんのは寂しいけど、また会えるんや思たら我慢できるし。でも、無理はせんといてや? 倒れたとか聞いたら、うち、絶対心臓止まってまうさかい」
「はは、せやな。要ちゃんのためにも無理だけはせんでがんばるわ」
 くしゃりと笑みに顔を崩して、秀人はしばし、要の手が自分の頭を撫でるその優しい動きを目を閉じて堪能する。
 こんな風に誰かに甘えたのは、いつが最後だっただろうか?
 高校半ばまで背の低かった秀人は、同世代の少女達より年上の女性に人気があった。彼女達は、まだまだ少年だった秀人を、そういえば歳相応に扱って居てくれた気がする。反抗期に入って精神的な成長痛にむずがっていた秀人を、どこまでも優しく甘やかして包んでくれていた。
 あれは彼女らが年上だからだと思っていたのに、どうして一回りも年下の要が彼女らと同じように秀人を安らがせる事ができるのだろう? それこそ精神的な成熟によるものなのだろうか?
 そんな事を取り留めなく考えているうちに日々の疲れがじんわりと浮上して、うとうとと微睡みそうになる。
「なぁ……仕事で疲れ果てたら、こうやって甘えに来てもええかな……」
 半ば以上無意識に出てきた甘える言葉に、要がそっと微笑んだのが気配でわかる。
「……ええですよ。秀人さんがうちに甘えてくれる言うんやったら、それ以上に嬉しい事はあらへんし」
「ええ子やな、要ちゃん。……オレが保証するわ。要ちゃんは絶対ええ女になるで」
「そうなれるように日々精進しとるんです。――せやから刑部さん、うちの事、ずっと見といたってくださいね」
 ここが要の家である事も、このまま眠ってしまうわけにはいかない事も、頭ではきちんとわかっていた。けれどこの穏やかで優しい空気には抗えない。最後の理性を振り絞り、うっすらと目を開けて要を見る。
「ごめん。ちょっと寝てええ……? 一時間で起きるさかい……」
「せやったら横になってください。ちゃんと一時間で起こしますから、安心して寝てくれてええですよ」
「んー……ほな、お言葉に甘えて……」
 ゆっくりと身体を起こし、てきぱきと要が用意した座布団に頭を乗せて身体を伸ばす。どこから持ってきたのか、ふんわりとした厚手のタオルケットが身体にかけられるのを感じた。
 そういえば、このところずっと一人暮らしの部屋で一人寝をしていたから、誰かの気配がある中で眠るのも久しぶりだ。人の気配がこんなにも落ち着くものだという事さえ、忘れていたような気がする。
 身体の下は畳だけれど、今の秀人にはそんな事はどうでもよかった。この柔らかな気配の傍で眠りを貪る事ができるのであれば、きっと石の寝床でも文句は出ないだろう。
 ほんの少し身体を動かして一番落ち着く形を取り、眠りの狭間の無意識で、おやすみと呟いた。
 眠りに落ちるその瞬間、おやすみなさい――秀人さん、と、下の名前で呼びかける要の声が聞こえたような気がしたけれど、それを確かめる間もなく、秀人の意識は睡魔の手の内に収まっていた……