かぶ

晴れのち雨・花火 - 02

「こっから土手やけど、足、大丈夫?」
「はい。あ……でも、地面斜めってますよね? せやったらうち、正直裸足の方が楽なんですけど……」
 こんな事を梓に言ったりしたら、なんてはしたないと怒られてしまうだろう。だけど秀人なら、きっと要の意味するところをわかってくれる。
 そして、その期待は見事に叶えられた。
「お、要ちゃんええ事言うなぁ。スニーカーとかならともかく、下駄で土手ったら、うっかりすると滑り落ちそうやし、疲れた足でこの芝の上直接歩いたら、多分結構気持ちええで?」
 一回りも年上だとは思えないような無邪気な笑顔は、要の緊張を一気に解きほぐし、ほんの数秒まで全身に入っていた無駄な力がするりと抜けていく。
 浴衣の裾をひょいと絡げて下駄を脱いだ秀人は、風呂敷を持つ手の指に鼻緒を引っ掛けると、空いた手を要へと差し出した。
「掴まり?」
「あ、はい」
 ここで照れても意味がない。平静に、平静に、と自分に言って聞かせながら、大きくがっしりとした手に掴まって、片足ずつ下駄を脱ぐ。それを巾着と一緒にしっかりと持つのを確認して、秀人は要の手を取ったまま、堤防の土手へと向かって歩き出す。
 ひやりと湿った芝が疲れた足を優しく癒す。踏みしめる草の下の柔らかな土が、かかる重さにきゅいと押さえられるのを直接に感じるのが快い。
「なぁ、あのちょっと空いてるとこ、あそこにする?」
「あ、そうですね。そうしましょうか」
 特に否やもなく頷くと、秀人はすでにシートを敷いたり、折りたたみの椅子を持ってきて座っている人たちの間を縫うように、選んだ場所へと要を誘導した。
 まるで誂えたようにぴったり二人分なスペースにやってくると、秀人はちょっと待っててと言ってここまで抱えてきた風呂敷を広げた。中から出てきたのは要が想像していたとおり、簡素なつくりの折りたたみ椅子と足元に敷く用のビニールシートだった。こういった事に手馴れているのか、秀人は要が手どころか口を挟む間もないほど実にてきぱきとセッティングをしてしまう。
「お待ちどおさん。ほら、こっちおいでや」
 また、当然のように手を差し伸べられる。こうも一日に何度も手を繋いでは、さすがに少し慣れてくる。はい、と頷くいてあたたかな手を取り、つるりとしたビニールシートに足を乗せた。
「まだちょっと時間あるけど、いける?」
「いけるって、何がですか?」
「腹減ったりとか喉渇いたりとか」
「や、もう十分すぎるぐらい食べたし飲んだんで。そういう刑部さんこそ、結構食べてた思うんですけど、苦しないですか?」
「おおきにな。でもオレは全然問題なし。ま、喉渇いたりしたらすぐ言うてや? 買いに行くにも時間かかるさかいな」
「あー……ですね」
 ついさっきまで揉まれていた人の混み具合を思い出し、地味に顔が引きつる。特に屋台の並びが終わった後の、観覧席と河川敷の両方を相手取って商売をしていた店のまえの長蛇は、自分自身行きたくないのは当然だが、ならば秀人を行かせるのかと考えると、それもそれで激しく申し訳ない。こうなればもう覚悟を決めて、空腹にならないよう努力するだけだ。――まあ、生理現象を操るなど、並の人間にできるはずはないのだけれど。
「……にしても、あの辺とかあの辺、めっちゃ嫌な色の雲あらへん?」
 指差された方向へと視線を向けると、確かに上流の方角から梅田スカイビルの見える方角――北東から南にかけて、濃い灰色の雲が集まりだしている。
「あれ、雷来ますよね?」
「来るやろね。要ちゃんって、雷あかん方?」
「特にあかんとかありませんね。……目の前で落ちるとか、そんなんでもない限りは大丈夫です」
「ほんなら大丈夫かな。ま、今日は帯で隠されてるから、オレも要ちゃんも、おへそは取られずにすみそうやね」
「――刑部さん、そんなん言いながら、子供の頃はお腹出して雨の中駆け回ってたタイプちゃいます?」
「うわ、バレバレやん」
 笑いながらも不安な視線を空に向ける。下流側は綺麗に晴れているから大丈夫と思いたいけれど、地上の風と上空の風は、吹く方角も違えば速さも違う。河川敷には天気のいい側――西から風が吹いているが、雲を見れば見るほど、嬉しくない色の雲の側から吹いているように見える。
「あのー……雲、こっち来てません?」
「あー……来てるねぇ」
「雨、来ますかね」
「来そうやねぇ」
 強いて暢気さを装いながら、どこまでも引きつった調子で言葉を交し合う。乾いた笑いを浮かべ、はぁ、と秀人が息を吐いた。
「オレ、結構晴れ男やから大丈夫や思っとったんやけど、今日はあかんみたいや。どないする? 雨、降るんやったら帰る? せっかくの浴衣とか髪とか、濡れたらアレやない?」
「別にうちは気にしませんよ。髪は仕方ないけど、浴衣はきちんと手入れしたらええ話ですし」
「そうなん? ほな、中止にでもならん限りは粘ろか」
 などと言葉を交わしている間にも、遠くに見えていた雲は稲妻を走らせ、風は花火大会会場へと、着実に暗雲を近づけてくる。それとは実に対照的に、ほぼ真上より西側では、晴れた宵空に月がぽっかりと浮かんでいる。
「――あっちとこっちでこんだけ天気違うとか、ほんま、自然っておもろいなぁ」
「!」
 彼女が感じたそのままを秀人が言葉にする。ただの偶然なのだろうけれど、こんな感覚の共鳴は普通にある事じゃない。
 ああ、やっぱりこの人だ。そんな確信が要の胸に浮かんでくる。
 同じ事を考えていたのだと伝えたい。その思いに背中を押され、少女は心の震え故にこわばっている舌を、なんとか操る。
「……で、すね。うちもそう思います」
「せやんな。――うん。やっぱ要ちゃん、オレと気ぃ合うわ」
 にかっと笑って返した秀人の目に、嬉しさや喜びといったもの以外の何かが一瞬見えたような気がした。けれど、天候悪化のため、花火の開始時間を早めるというアナウンスがスピーカーから流れ出したせいで、それが何かを確かめる事はできなかった。


 花火の開始まであともう少し、という時間になって、空の三分の二を多い尽くした雨雲は、溜めに溜めていた雨水を、淀川のほとりに集まっていた人々の上へと降らせはじめた。
「あ、来た」
 頭のてっぺんにぽつりと落ちてきた雨粒を感じて呟いた瞬間、ばっと空を見上げた秀人はほとんど飛び上がるような勢いで折りたたみの椅子から立ち上がった。
「もっぺん確認やけど、雨降っても見るねんな?」
「はい」
 真剣な顔で問うてきた秀人に、要も覚悟を決めてはっきりと頷く。
「よし。ほな、ちょっとでも濡れへんように対策しよか。悪いけど要ちゃん、ちょい立ってシートから出てくれんか?」
「はい」
 彼が何をするつもりなのかはわからない。けれど彼がしようとしている事は自分たちのためなのだという事はわかるから、要は落ち着いた所作で立ち上がると、言われたとおりにシートから退いた。
 その場に膝を突いた秀人は二人分の折りたたみ椅子をぱたぱたと閉じ、畳んで置いてあった風呂敷に元のように包み直す。そして地面に敷いていたビニールシートを裏返して持ち上げると、要に自分の方へ来るようにと手で合図した。
「もうええんですか?」
「うん。格好はちょっと情けないけど、このシート頭から被っとけば、濡れる心配はあらへんやろ?」
「ああ、なるほど!」
 得心が行ったと手を打って、要は見る見る強くなってきた雨から逃れようと、シートを頭の上に掲げた秀人のすぐ隣に寄り添う。けれどそれは秀人の意図とはずれていたらしい。
「横におったら肩とか濡れるやろ。オレの前に来ぃ」
「あ、はい」
 特には何も考えず、出された指示に従って秀人の前に立つ。確かにこの方が場所も取らないし、シートを持ち上げている秀人的にも、横方向に伸ばすよりは前に伸ばす方が――
 楽だろう、と、頭の中で結論付けるより一瞬早く、本当に、一瞬たりと期待も予想も想像もしていなかった状況に陥って、要は緊張と驚きのあまり、完全に硬直してしまった。