かぶ

晴れのち雨・花火 - 03

 これまで何かの拍子に手を繋いだり、肩を軽く抱かれるような事はあった。だけどそれはどれも短い間の事で、はぐれないためだとか、バランスを崩さないためなどといった理由があっての事だった。
 なら、この状況はどうなのだろう? なぜ、こんな事になっているのだろう?
 なぜ秀人の腕が、要の身体を包み込んでいるのだろう?
 包み込んでいるとは言っても、帯があるせいで要の背中と秀人の腹の間には無粋な隙間がある。けれど少女を納めている腕は確かに彼女の身体を抱き寄せていて、ほんの少しだけ触れ合っている部分から相手の体温と鼓動が、浴衣の布地越しに伝わってくる。
「お、さか、べ、さん……?」
 耳の奥でばらばらと響いているのは頭上のビニールシートに跳ねる雨粒の音なのか、とてつもない勢いで打ち付ける心臓の音なのかの判断すらできない。全身が緊張でこわばっているせいか、声帯も正常に機能していないらしい。そうでなくて、どうしてここまで情けなく震えた声が出るというのか。
 けれど秀人はそんな要の状況に気づいているのかいないのか、常とまったく変わらない様子でまっすぐに見下ろしてくる。
「あー、やっぱこの体勢、嫌?」
「そういう問題や、のうて、ですね」
「もしかして恥ずかしい?」
「そ、れもありますけど、せやのうて……」
 混乱と戸惑いばかりが先立って、今の感情を表す言葉が見つからない。意を決してそっと視線を上に持ち上げると、いつになく真剣な顔の秀人とぴたりと視線が合ってしまう。
 どくん、と、鼓動が不規則さを加速させる。
「オレは、要ちゃんが嫌やないんやったら、このままがええねんけど」
「けど……なんでですの? こんな……」
 周囲に人がいるのはわかっている。遠くではスピーカーから、危険ですので傘を差さないでください、と繰り返す声も聞こえてきている。だけど激しく振付ける雨がまるでヴェールのように二人を包み込み、外界から切り離している。ようやく最初の衝撃は薄れ、今は秀人に片腕で抱きしめられているというこの状況に対する戸惑いだけが残っていた。
 じっと要を見詰めていた秀人はほんの少し彼女から視線を逸らすと、はぁ、と苦い息を吐き出した。
「……やっぱ無理や。オレには物分りがよくてずるい大人の真似なんかしてられへん」
 要を抱く腕はそのままに、秀人が少しだけ背を屈める。更に近くなった視線の距離に要が目をしばたたかせるのを見つめたまま、彼は口を開いた。
「ほんまはもうちょっと先まで待と思てたんやけど、もう無理や。元々オレは感情優先で動く人間やし、仕事とかでやったら多少は忍耐やら我慢やらに縁できてきとるけど、好きなもんに対してはさっぱりやし。まあ、ガキやった頃に比べて成長したんはガタイだけで、頭ン中はほとんど変わっとらんし。多分要ちゃんのが、オレよりよっぽど精神的には大人や思う」
「そんな事……」
「あらへん、なんて言わんでええよ? どうせほんまの事やさかい」
 ずっと見慣れた晴天のような笑顔で言葉の先を遮られ、要は未消化なままに言葉を呑み込む。思わずむずかるような顔になる彼女へと困ったような顔になって、秀人はもう一度深々と息を吐いた。
「今日はな、ほんまはいろいろ計画しとったんや。けど雨のせいで台無しになったっちゅうか、役得になったっちゅうか……まあ、予定が早まったって事かな。どうせ言お思てたんやし」
 なにやらぐちぐちと独り言を続ける秀人に、要は胸に渦巻く戸惑いの中から僅かな希望が滲み出してくるのを感じる。
「刑部さん?」
「うん」
 何に対してなのかわからないが一つ頷いて、秀人はその言葉を口にした。
「……要ちゃんが、好きや」
 十数年生きていて、言われて言葉の意味が理解できなくなる状況は既に何度か経験している。
 けれどこれはその中でも最たるものだった。
「い、今……今、何て……?」
「好きやって、言うたんよ。あ、先言うとくけど、妹みたいやとか友達としてとかちゃうからな? オレは要ちゃんの事、前からずっとちゃんと女の子として見てたし、好きや思うこの気持ちが恋愛のやって事は、はっきり自覚しとるんよ。ただ、自覚してから結構長い間、態度はっきりさせんかっただけで」
 真上を見上げるという実に不自然な体勢のまま、要はじっと秀人を見つめる。乾いた土に慈雨が滲みこむように、秀人の言葉が要の心へじんわりと沁みこむ。けれどその言葉をとっさに信じる事ができなくて、少女は喘ぐように問いかけた。
「いつから、ですか? そんな……だって刑部さん、全然そんな素振り、見せてくれんかったやないですか」
「せやな。ごめん」
 あっさりと自分の非を認め、秀人は要の身体をくるりと反転させる。正面から向き合う形になったとたん、要の帯がビニールシートの保護範囲からはみ出してしまい、ほんの少し考えてからもう一度彼女の身体を抱き寄せる。
「っ……」
「濡れるさかい、しばらく我慢したって?」
 またしても身体をこわばらせる少女にそう囁いて、秀人は改めて口を開く。
「オレは要ちゃんの事、初めから女の子やて認識してたよ。ゆーか、あんな強烈な告白されて堕ちん男はそうおらんで?」
 一年以上前になる出来事を思い出して低く笑えば、要は血の気を失っていた頬を一気に赤く染めた。その頬に触れたい衝動に駆られながらもぎりぎりで何とか自制を保ち、なるべく淡々と言葉を綴る。
「あんな、大人ってのはずるくて弱いイキモンなんや。世間体やとか、年齢やとか、常識やとか、そんなところに理由を見つけては自分に言い訳して、安全地帯におろうとして。けど最近要ちゃん、どんどん綺麗になってきよるし、一緒におればおるほど好きやて気持ちが大きぃなってんのに、自分にも要ちゃんにも嘘吐くんが嫌になってきてな。さっきも言うたけど、好きなもんは好き言うて一直線に突き進むんがオレやから、理性にも限界近づいてて」
「り、理性って……」
 目をぱちくりとさせる要に気づいてへんかったんかと呟き、秀人は自重を頬に浮かべる。
「オレも正常な男なんよ。好きやて思う子目の前にして、何も思わんわけないやろ? 今日かて浴衣姿の要ちゃんを駅で見た時からずっと、どんな理由つけて触るかってな事ばっか考えてた」
「う、そ……」
「ほんまやて。こんな嘘吐いてオレに何の得があんねんな。むしろ要ちゃんに手ぇ出そうとしたってのがバレて、梓さんに思いっきり張り飛ばされた挙句、一晩中膝突合せで説教食らうか腹探られるんがオチやっちゅーに」
「いや、さすがにそれは……」
「ある思うで? だってあの人、要ちゃんの事、ほんま目に入れても痛ないくらい大事にしてるし。……ま、なんとでも説得するつもりはあるけど」
 ビニールシートを支える手が疲れたのだろう、要の背中に回していた腕を持ち上げると、さっきまで上に伸ばしていた手で要の背中を改めて抱く。
「一年近う確かめて、オレはこれがほんまモンやって確認してる。けど、要ちゃんはどない? オレは見てくれだけはええ大人やけど、中身はこれまで思いっきりさらけ出しとったみたいに全然中高生レベルや。ここまで来たら多分もうこれ以上中も外も成長する事ないんちゃうか思う。背はさすがに越されへん思うけど、中身だけやったらすぐ要ちゃんに追いつかれるやろな。けど、それでもええやろか? ええんやったらオレん事、要ちゃんの旦那にしたってくれへんかな」

* * *

 天候の影響で本来の開始時間より十分早まった打ち上げは、雨の影響などまるでないかのように美麗な火の華をいくつもいくつも空に咲かせる。ビニールシートの下からとはいえ、堤防の上にいるおかげで視界も広く、会場の端と端で同時に花火が打ち上げられでもしない限りは、すべてが視界に収まるために何一つ見落とす事はない。
 花火の途中、秀人が何度かシートを支える腕を交代させたけれど、その短いインターバルを除けば、秀人の腕が要を抱きしめていない時間はなかった。要も要でぴたりと秀人に寄り添って、天を彩る大輪の華に素直な歓声を上げては大好きな人を振り仰ぎ、視線を合わせて少し面映い微笑みを浮かべる。その度に秀人は眩しそうに目を眇めながら、柔らかな笑みを返してくれる。
 正直なところ、まだ信じられない。ずっと望んではいたけれど、現実になる可能性はとても低いと思っていた。もしくはなるとしても、もっと先の事だろうと。
 一際大きな牡丹が空に咲くのを息を呑んで見上げた要は、ふと目の端に思いがけないものを見つけて目をしばたたかせる。それはあまりにも意外で、意識は花火からそれへと完全に反れてしまう。
「刑部さん、あれ……」
「うん?」
 盛大な花火の余韻が消えたタイミングで、ふいと東の空を指差せば、何事だろうかと秀人が視線を向ける。その指先に見えた光景に、どうやら彼も気づいていなかったらしい。ぽかんとした表情で見入ってるのがわかった。
「……うわ、マジ?」
「マジです。ここ、こんなアホみたいに雨降ってるのに、あっちは全然なんです」
 指の先では、夕方には既に昇っていた月が、若干の雲に纏わりつかれながらも煌々と輝いていた。こちらでは勢い弱くなりはしたものの、止む事なく雨が降り続けているというのに、だ。
「ほんま、自然っておもろいなぁ……」
「ですねぇ……」
 同じものを見て同じ事を感じる。それは当たり前のようでいて、中々難しい事じゃないだろうか。けれど思い返せば、秀人は大抵いつも、要と同じ思いを共有してくれていた。
 どうして彼に惹かれたのか、正直なところ今でもその理由はわからない。だってあれはほとんど一目惚れだったのだから。だけど彼を知れば知るほど、たとえどんな馬鹿馬鹿しい姿を見せられた時でさえ、向かう想いは深まった。きっとこの想いは、どんなに深まったとしても、決して消える事はないだろう。
「な、要ちゃん。今日、送っていった時に、梓さんに挨拶しといてもええかな?」
「挨拶……って、え、ええ!?」
 長身を屈めた秀人が耳元に落とした言葉に対する心構えなど当然あるはずもなくて、要は一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。理解できた瞬間、打ち上げられた花火の破裂音よりも大きく心臓が早鐘を打ちはじめる。対する秀人は余裕綽々の顔をして、短く確認の言葉を投げる。
「あかん?」
「や、あかんって事はありませんけど……でも、ええんですか?」
「当たり前やろ。つか、梓さんにはきちんと筋通しとかなあかんやろ? ……ちゃんと許可もらってからでないと、下手な事もできんしな」
 半ば以上無意識に零れ落ちた不安の言葉に対する答えは、要の予想を遥かに突き抜けたものだった。
「おおお刑部さん?」
 思わず本気で挙動不振に陥る要の姿に、秀人がほんの一瞬だけ、しまった、とでも言うような顔になる。けれどそれは本当に一瞬で、すぐに意地の悪い笑みが取って代わった。
「いろんなあれやこれやは要ちゃんがもっと大人になるまで待つつもりやけど、せめてキスくらいは許してほしいやん?」
 あまりにあまりな言葉が続けざまに聞こえてきて、要は完全に混乱してしまう。まん丸に目を見開いたまま、自分を見下ろしてくる秀人を見つめていると、くしゃりと顔を笑み崩れさせて、彼は少女の身体を抱きしめる腕に力を入れた。え、と思う間もなくその顔が近づいてきて、あまり崩れていない髪に、初めての感触を覚える。
 髪にキスされたのだと気づくまでに、妙に時間がかかった。
「……雨、止んだみたいやな」
「みたいですね」
 嵐の名残を惜しむようにぱらぱらと雨粒を落としていた空も、いい加減晴れてきていた。周囲に視線を走らせればカラフルな光の中、傘やビニールシートを掲げていた人たちも、元の体勢へと戻りつつある。
「シートもういらんかな」
「ええ、大丈夫や思います」
 要の肯定を聞いて、秀人はとりあえず雨宿りに使っていたビニールシートを足元に落とす。それから少し考える様子を見せた後、要に訊ねた。
「どないしよ。腕、放した方がええ? それともこのまま見る?」
 この人は、どうやら想像以上に意地悪だったらしい。そうでなくて、どうしてそんな答えのわかりきった、そして果てしなく答えにくい質問ができるのだろうか。
 正直な気持ちは当然このままがいい、というものだったが、それを口にするのは恥ずかしすぎる。だからといって離してくださいなんて言うのは絶対に嫌だった。
 どうすればこの気持ちを伝えられるだろうかとしばらく悩んだ要は、最後に最大の覚悟を決めると、腰に回されている秀人の太い腕に自分の腕を沿わせ、放さないでほしいと態度で告げた。
「んな、このままおろか」
「……はい」
 顔を上げることもできないまま、ぽつりと返す。ふ、と頭の上で笑う気配がして間もなく、両腕が要の腰にしっかりと巻きつけられた。