かぶ

天邪鬼な想いの行方 - 03

「なっ……なんでだよ!? お前も俺の事好きだろ!?」
 ぎり、と、杜樹に掴まれている腕が痛みを覚える。さっきまでの甘ったれた表情は、あたしの言葉で驚きと戸惑いと怒りがない交ぜになったものへと変わっていた。
「たとえそうでもちゃんと付き合うなんて駄目! あ――あたし、浮気相手でいいよ? 本命別に作って? で、気が向いた時に誘って? その方がきっと、あたしたち上手くいくよ?」
 頭の中がぐるぐるしてる。なんかもう、何も考えられない。ほとんど脊椎反射で言葉を返してる感じ。
 そんなあたしに、杜樹が戸惑ったように口を開く。
「いや、だから俺の本命は……」
「お願いだから、杜樹。あたしはきっと、堪えられない。だってあたし、これまでの杜樹を知ってるんだもん。いつか杜樹の前カノリストに入る日が来るって知りながら付き合うなんてできない。今のスタンスだから嫉妬もせずにいられてる。他の子の話してても笑ってられる。あたしは、時々こうして抱かれるだけでいいの。それで十分なの。ほら、今までもあたし、ちゃんと束縛とかしないでいたでしょ? 重荷にならないようにしてるでしょ? その方が杜樹も楽でしょう?」
 それは、あたしの杜樹への思いを抑制するための枷。杜樹と関係を持ってしまってから四年近い間、ずっと自分に言い聞かせてきた言葉。
 何があっても絶対表に出さないって決めていたそれが、とうとう全部表に出ていた。
「――逆だよ、馬鹿」
 唸るように呟かれた言葉に、あたしははっとして杜樹を振り返った。
「好きでもない奴から嫉妬されるのははっきりきっぱり重荷だけど、好きな奴からならむしろ嬉しいと思う。だからお前に変なカマかけてたんだろ。俺の事で少しでも揺れるお前が見たくて」
 いま、なにか妙な言葉がきこえたようなきがする。
「……何、呆けた顔してんだよ」
「だって……今、杜樹、変な事、言ったような気がして……」
「はぁ? 別に何も言ってねえだろ。俺はただ、『好きな奴になら嫉妬される方が嬉しい』って言っただけで……」
 また聞こえた。って事はコレ、もしかしてあたしの心の奥底の願望による幻聴とかじゃないって事!?
「ん、なの……うそ、だ」
 ああ、だめだ。もう、本気で限界……
 ぐらぐらする頭を支える事ができなくなって、あたしは力なくベッドのマットレスに頭を預けた。
「チャコ? どうした? 大丈夫か?」
「……ごめん。なんかもう、本気でいっぱいいっぱい……」
 くったりしてしまったあたしに驚いて、杜樹があたしの顔を覗き込む。気遣わしげな顔をして、そっとあたしの髪を撫でてくれる、その優しい手の温もりにじんわりといっぱいいっぱいの心が癒される。混乱して熱くなっていた頭が、ゆっくりと冷めていく。
 あたしが落ち着いたのを感じてか、杜樹は穏やかに口を開いた。
「お前が誤解したのって、多分……つーか、どう考えても俺のせいだよな。……なんていうかさ、決定的な言葉を口にする事で、居心地のいい関係が万が一壊れたらって思うとどうしても言えなかったんだ。そんな言葉なしでもお前は俺と一緒にいてくれたし、俺が誘えば抱かれてくれた。だからなんか、勝手に自己完結してた」
 ぽつりぽつりと語られる言葉が、さっきまでとは違って、しんしんとあたしの中に染みこんでくる。
「お前を初めて抱いた後、付き合ってた女と別れてお前のとこ行っただろ? あの日から、俺はお前と付き合いはじめたつもりでいたんだ。だけどお前、付き合いはじめたにしては全然それっぽい変化なくて。お前は俺の事、そんなに想ってないのかってヤケ起こして、当てつけるために浮気してた」
 片頬だけで自嘲の笑みを浮かべながらも、杜樹は穏やかに言葉を続ける。
「けど、そんな事をすればするほどお前がどんどん頑なになるのがわかったから、結構早い時点で浮気するのは止めたんだ。その後も他の女の事を話したり、浮気の振りをしてたのは、純粋にチャコの反応が見たかったから。……お前とは全然違うタイプの女に気を引かれた振りするたびに、お前、気にしないような事言いながらも辛そうな顔見せてくれたからさ。そんなお前を見るたびに、やっぱりチャコは俺の事が好きなんだって、一方的に再確認して安心してた」
 けど、そこまで傷つけていたとは思ってなかった。
 溜め息混じりに呟いて、杜樹はまた、やんわりとあたしの髪をかき混ぜる。
「お前をここまで追い込んでるって、気づかなくてごめん。だけど俺は……」
「……いつから?」
 意識するより先に、言葉が零れ落ちていた。
「あ?」
「いつから、気づいてたの。あたしが、杜樹を好きだって事」
 あたしの問いかけに、杜樹はほんの少し考えたようだった。
「関係持つ前から薄々気づいてた。チャコは真面目だから講義とかバイト関連の事は最優先だったけど、無理しない程度なら俺のわがままにいつでも付き合ってくれてたろ。休みの日とか講義の後に誘っても、それ以外の理由で断られた事ほとんどなかったし。そのくせ他の男と約束してても、俺が強引に割り込んだらあっさり向こうを反故ってくれてたし」
 あー……うん、それは確かに。だってあの頃から杜樹ってば女の子に人気ありすぎて、誘われるだけで嬉しかったんだもん。だから声をかけられたら、よっぽどの事でもない限りは杜樹を優先してた。
 まさかそれでバレてたなんて……。や、少し考えたら誰にでもすぐにわかる結論なんだけどさ。
「けど、それだけじゃさすがに確信持てなかったし、何よりお前は『あくまで友人です』ってスタンスから離れようとしなかっただろ? だからもしかしたらとは思っても、踏み出す事ができなかったんだ。俺が確信を持てたのは、お前を初めて抱いた時だ。お前は酔っててうろ覚えかも知れないけど、あん時お前、俺の腕の中で『嬉しい』って泣いてたんだぜ。俺に抱かれてるなんて夢みたいだって。――それ聞いて、絶対お前を手放さないって決めたんだ」
「あたし……そんな事、言ってたんだ……」
 まったく記憶になかった。
 あの夜の事で覚えてるのは、ただただ嬉しいって気持ちと、驚くほど丹念にあたしを抱いてくれた杜樹の腕だけ。自分が何を言ったのかなんて事は、綺麗さっぱり覚えてなかった。
「チャコのその言葉で、俺は腹を決めたんだ。だから女と別れてその足で報告しにチャコんとこ行った。なのにお前、『杜樹ならすぐにまた新しい彼女見つけられる』なんて言うもんだから、あれは酒による俺の妄想か幻聴だったのかって落ち込んで自棄酒煽って。だけど酒が入るとカマかけられてるだけかもしれないなんて都合のいい考えが浮かんできて、一か八かで押し倒したんだ。したらお前、すんなり俺の事受け入れるから、やっぱり気持ちは通じてるんだって勝手に安心して。他の奴と飯食ったとか聞くと気ぃ狂いそうになって、そのたびにわざとお前に俺とそいつらを天秤にかけるように仕向けてた。結局は毎回俺の一人勝ちだったけど、それがはっきりするまでは情けないくらいうろたえてて、でもお前の前ではなんでもない振りしてて」
 本当に馬鹿だよな、俺、と、杜樹が自嘲混じりに零す。
「俺、一人で勝手に浮かれたり落ち込んだりしてお前の事振り回しまくってたよな。でも、お前への事は本気なんだ。今更簡単には信じてもらえないだろうけど……」
 ゆっくりと、杜樹の手があたしの髪から首筋へと移って、肩を撫でて腕の下へと動く。なんだろう、と思う暇もなくぐいっとベッドの上に引っ張り上げられたあたしは、気が付けば裸のままの杜樹の肩に頭を預けるような形で杜樹の腕の中に閉じ込められていた。
「お前が俺の事、信じられるようになるまでなんだってするし、今度は俺がいくらでも待つ。だから、浮気相手でいいなんて言うな」
 杜樹がどれくらい真剣で切実なのかは、あたしを抱きしめる腕に篭められた力がはっきりと伝えてくる。
 だけど……あたしは本当に、この腕に全てを預けてしまってもいいのだろうか?
「あたし、杜樹が思ってるよりもきっとずっと、嫉妬深いし独占欲強いよ? 他の女の子の話なんかされたら、きっとすぐに嫉妬して機嫌悪くなる。これまでの事もあるから、すごく疑い深くなると思うし」
「そりゃ当然だろ。自業自得だから覚悟してる」
 耳からでなく、身体の触れ合ったところから声が伝わってくる。たったそれだけの事で、あたしは不思議なくらい落ち着いてしまう。
「ちょっとした事でもあーだこーだ口出すと思うし、休みの日はずっと一緒にいてとか言うよ。他の約束よりもあたしを優先してとか。仕事が忙しいって言われても、信じきれないかもしれない。馬鹿な女みたいに、仕事とあたしどっちが大事とか言ったらどうする?」
「んー、チャコになら言われたいかもな」
 喉の奥で杜樹が低く笑うのも、身体に直接響いてくる。……ああ、駄目だ。あたしもう、このどうしようもない男を受け入れようとしてる。これまであんなに苦しい思いしてきたんだから、もっともったいぶって焦らしてやりたいのに!
「俺、チャコになら独占も束縛もされたいし、俺もチャコを思いっきり独占して束縛したい。これまでの分を償うってわけじゃないけど、お前の事、めちゃくちゃ大事にして甘やかしたい。――多分、チャコの方が驚くんじゃないか。俺が本当はどれだけ粘着質なのか、身をもって知ったらさ」
「杜樹が粘着質? 悪いけどそれ、真剣に信じらんない」
 ぐいと杜樹の胸を押して身体を離す。顔が不信に思いっきり歪んでるのが自分でもわかる。そんなあたしを見て、杜樹はニヤリと唇を吊り上げた。
「そりゃそうだろうな。だって俺、これまでチャコには見せてねえもん。なんならいっぺん同期仲間に聞いてみるか? 俺がどんだけチャコに近づくヤローを牽制しまくってたのか。ついでに俺がどんだけ情けない奴なのかも暴露してくれると思うけど」
 一瞬、大学時代から杜樹と親しかった連中の顔が頭の中で一気にリストアップされた。なんかちょっとそれ、実行してみたいかも。だってやっぱりあたし、杜樹の事ならなんでも知っていたいと思うし。ああでもそれで本当に杜樹が言ってる通りだってわかっちゃったらどうしよう。逃げ場がなくなっちゃう。って、何から逃げるつもりなんだろう……? ああ、杜樹と付き合うなんて現実離れした状況からか。
 うっかり妙な方向に思考が彷徨いかけて、慌てて現実に立ち返る。なんかもうあたし、本気で色々といっぱいいっぱいだ。
「――そんなに悩むなら、すぐに答え出さなくてもいい。だけど俺は今後……って言うかたった今からお前の事、コイビト待遇で扱うからな」
 ――ぷちんと、思考回路のどこかで何かが切れた音がした。
「はぁ!? ちょっと何よそれ!? あたしの意思は!?」
「お前が結論出せるようになるまで無視する。ま、お前が俺を選ぶって結論以外は受け付けないけど」
「っ――だから、どうしてそうなるのよ!? そんなの、横暴が過ぎるわ!」
「当然、てか、だって仕方ないだろ。俺の将来設計にお前の存在は欠かせないんだから。チャコが望むなら、二年後以降に予定していたイベント、全部前倒ししてもいいんだぜ?」
 なんか今、この人、すごく怖い事、言わなかった……?
「……その、『二年後以降に予定していたイベント』って何か訊いてもいい……?」
「いいけど、ほぼ確実に後悔すると思うぜ。チャコはそれでもいいのか?」
「ごめん。やっぱ聞きたくない。というかお願いだから聞かせないで」
 咄嗟に口を突いた言葉は防衛本能の賜物だ。だって杜樹、チャラけた軽い男に見えて、その本性は有言実行男だったりするんだもん。下手に聞かされたりしたら、この際だしとか言って、本当に前倒しされかねない。いや、それが何なのかはわからないのだけれど。というかなんとなく想像が付くような気がするから考えたくないというのが本音なんだけど。
「ふうん? ま、チャコがそう言うなら今はいいか」
 あっさり納得してみせた杜樹は、またしても実に楽しげな笑みを頬に浮かべる。
「けど、さっき言ったコイビト待遇は有効だから。この週末、確か予定ないって言ってたよな? 日曜の夜まで離してやらないから、覚悟しろよ」
「――――――――は? って、ちょっと杜樹、何するつもり!?」
 杜樹のとんでもない宣言にあたしが反応を返せたのは、思いっきり強引にベッドに引き倒されて、器用に二人の身体の位置を入れ替えた杜樹にあたしが組み敷かれてからで。
「この状況でわからないようなチャコじゃないだろ? ……つか、さっきも言ったし」
「わ、わかんないし覚えてない! だからチャラって事で!」
「却下。ちなみに今からしようとしているのは『汗かくような事』。ほら、俺言ってただろ? そういうわけだから、服、脱がせてやるよ」
 にんまり、としか形容しようのない顔で笑いながら、杜樹は慣れきった手付きであたしの服を着々と脱がせようとする。その合間に繰り返し落とされるバードキスに酔いそうになる自分を叱咤して、あたしは意味のない抵抗を試みる。……けど、杜樹の指とキスに馴らされすぎているあたしに勝ち目なんかあるはずがない。
 はっと気づけばあたしはせっかく着た服も剥ぎ取られ、杜樹の手で素のままの姿にされていた。あたしの一番奥深いところに火をつけんとばかり、奴の根性悪な指先と唇が縦横無尽にあたしの肌を辿っている。
「やだっ、杜樹……だ、め、だってばぁ!」
「俺を拒否する言葉は全部却下。さっさと諦めて素直になれ」
 急所の耳元に声を吹き込まれて、あたしはふるりと身体を震わせる。反抗の意思が、与えられる熱にあえなく溶かされていくのが嫌というほどはっきり感じられる。
「素直になって、俺を受け入れろよ。そしたら思いっきり、甘やかして愛してやる。お前が俺なしでいられなくなるくらい、可愛がってやる」
「んぁ、う……っく、杜、樹ぃ……」
「そう、その調子だ。……もっと蕩けて俺だけを考えろよ。ほら、腕、俺の背中に回して?」
 その言葉に、溶けかけた理性が戻ってくる。
「だ、けど……」
「爪痕見られて困る相手はいねえって。だから腕、回せ」
 言いながら杜樹は、あたしの手を掴んで自分の背中へと促す。それに甘んじて、あたしは最初に杜樹に抱かれた夜以来、一度も触れた事のない杜樹の背中にそっと触れた。そのとたん、杜樹は無邪気としか言い表せないような全開の笑みを浮かべる。
 快楽にぼうっとなった頭も醒める程に純粋な。
「――そのまま、掴まってろ。絶対に放すなよ?」
 やっぱりあたしは単純だ。あんな笑顔一つで、信じてもいいかもしれないなんて思ってしまうんだもん。
 快感とは違う熱に浮かされた杜樹の声に、あたしは素直に頷いた。
「ん……放さない。絶対、離れない」
 果たしてあたしの決意は杜樹へと伝わって、激しい感情のままに与えられた貪るような口付けに意識を飛ばされそうになる。
 そしてあたしは、抱きしめて、抱きしめられて、杜樹と二人で熱く甘美な悦楽の海にたゆたいながら、天邪鬼な想いが素直な気持ちへと溶け込んでいくのを確かに感じていた。