かぶ

ラストクリスマス

「梨尾さんさ、クリスマス・イブって何か予定ある?」
 一仕事を終え、休憩ブースの自販機でドリンクを買おうとしていた比佐子にそんな風に声をかけてきたのは、彼女の使っているパソコンでトラブルが発生した時に、何度か手を貸してもらっていたIT部門の人だった。
 唐突に何だろう、と戸惑いながら、愛想笑いを浮かべて比佐子は正直に返す。
「ええと……今のところは、特に」
「ならさ、俺、予約してもいい?」
「予約、ですか?」
 きょとんとして首を傾げると、僅かに顔を赤くして、彼は視線を少し逸らした。
「だからさ、その……俺とクリスマス、一緒に過ごしてくれませんか?」
 そこまで言われて、ようやく自分がデートのお誘い、ひいては遠回しな告白を受けているのだと気づく。気づいたとたん、一気に顔が熱くなった。
「う、え……えと、え? えええ、あの、ああああたしですか?」
「他に人いないし。それで……どう、かな?」
「あ……ええ、と」
 照れたようにはにかみながら訊いてくる彼に、比佐子は一瞬言葉を詰まらせた。
 予定は、まだない。
 ただ、入るかもしれないという期待は、ある。
 もしかしたら、という可能性だけだから確実じゃないけど、期待するだけの余地が、ある。
「――友達に、予定を確認してからでも、いいですか?」
 ずるい心が、働いた。
 もし予定が入らなかったらその時は、なんて、好きじゃない考え方なのに。
「あー、まあ、当然だよね。うん、わかった。じゃあもし予定が何も入らなければ、って事で」
 残念そうに微笑んで、彼は返事待ってるね、と去っていった。
 その後姿に、比佐子は小さく、ごめんなさいと呟いた。


 食器を洗っている後ろから包み込むように抱きしめてくる手に邪魔されて、比佐子は夕食の後片付けを諦めた。
「ん……や、ダメだってば、杜樹……」
「へぇ? でもチャコのココはそんな事言ってないけど?」
「そ、んな事、言わないで! するなら、ちゃんとした場所でしてよ! こんなとこでするの、あたしは嫌」
 羞恥をベースに掻き立てた怒りを振りかざし、身体を引き離す。楽しみを途中で遮られた杜樹は、不満げに唇を尖らせた。
「ったく、たまにはいいじゃん。チャコってこういうとこ、ちょっとばかし硬すぎじゃね?」
「あたしは普通です。嫌だってんなら他のコ誘えば!」
「他のヤツなんていねぇよ。チャコだからどこでもそこでもヤりたくなるんだろ?」
 にやりと笑いながらそんな事を言う杜樹に、比佐子はちろりと冷たい視線を向ける。
「またそんな事言って。こないだだって、会社のアルバイトの子とデートしたんでしょ? クリスマスもその子と過ごすかもって言ってたじゃない」
「あぁ? ンな話したっけか?」
「あんた、本当に最低ね……。って、じゃぁ、クリスマスはどうするの?」
「――お前は?」
 唐突に目を細めて鋭く見つめてくる杜樹に、比佐子は一瞬息を呑む。ほんの少しばかり逡巡して、正直に告げる。
「……まだ、返事はしてないけど、会社の人に誘われてるの」
「はぁ? なんで?」
「知らないわよ。今日の帰り際に声かけられたの」
「つまり俺と会う前にって事?」
 ずい、と距離を縮められて、心臓が二重の意味で苦しくなる。
「そ、そうなるけど」
「ふーん……? で、どうするつもりだ?」
「別に。どうって……まだ決めてない」
「それは、どうしてかな?」
 にぃ、と笑って、杜樹の手が比佐子の頬を包む。ゆっくり近づいてくる顔から視線を逸らし、苦しいくらい高鳴る心臓を気にしない振りでなるべく自然に答える。
「だって、よく知らない人だし……」
「知らない人じゃなかったら断らないんだ?」
「そ、れは……まあ、そう、かも」
「なら、俺の誘いも断らないよな?」
 実に楽しげににんまりと笑った杜樹が頬にキスを落とす。その感触と言われた言葉に、比佐子は一瞬何が起きたのか理解できず目をぱちくりとさせた。
「へ……?」
「へ、じゃねぇって。そういう事だから、明日朝イチで断っておけよ。昼に確認の電話するから」
「ちょ、ちょっと待ってよ! あたし、いいとも悪いとも言ってないわよ!」
「俺の誘いを断るのか? 断って、その男とクリスマス過ごすって?」
 あまりの横暴に反論するものの、間髪いれず返された問いかけに口篭る。そんな比佐子の背中と腰に腕を回し、彼女の身体を引き寄せ、その首筋に唇を這わせる。
「けどさ、俺とコンナコトする仲だってのに、他の男とデートの約束するなんてマネ、お堅いチャコにできるのか?」
「や……だ、言わな、いで……!」
「言われたくないなら、俺と過ごすって言えよ。てか今すぐ断れ」
「何よそれ、あんた横暴すぎ! それにあたし、あの人の番号なんて知らないし!」
「そっか、それはよかった」
 にんまりと笑う杜樹を、比佐子は思わずまじまじと見返した。
「よかったって……なんで?」
「別に。まあとにかく、クリスマスはイブも当日も俺が貰うから、他の予定は入れるなよ?」
 少しばかり剣呑な光を宿す瞳を見ながら、比佐子は胸に暖かなものが広がるのを感じる。
 杜樹が今年も、他の女の子と過ごすのではなく、自分と過ごす事を選んでくれたという事実が嬉しくて、気がつけば微笑が頬に浮かんでいた。
「……チャコ……?」
「ううん、なんでもない」
 訝しげに見下ろしてくる杜樹に首を振って、比佐子はそっと目を伏せる。
「明日ちゃんと断る。それでいいんでしょ?」
「ああ、その時には、俺と過ごすって事も言っとけよ」
「な、んでそんな事……」
「断るからには当然だろ。それにどうせ振るならきっぱり振ってやれって。それが優しさってもんだろ?」
「……そう、だね……」
 だったら自分の事もきっぱり振ってくれたらいいのに。
 自嘲気味に胸の中で呟いて、一度強くまぶたを閉じると比佐子は作った笑みを浮かべた。
「じゃあ、ちゃんとそっちの方も断る……けど、杜樹もわかんないね。クリスマスって彼女と過ごすイベントなのに、どうしてあたしを誘ったりするの?」
「――だから、だろ。俺には、比佐子以外でクリスマスとか一緒に過ごす相手いないんだよ」
 いい加減わかれよ。そう囁いて、杜樹は比佐子の唇に、甘い口付けを落とした。


* * *

「……そっか、やっぱりダメか……」
 傷ついた表情で笑う彼に、比佐子は深々と頭を下げる。
「せっかく誘ってくれたのに、本当にごめんなさい……」
「いや、最初からダメ元で誘ってたわけだから、ある程度覚悟してたんだ。でも梨尾さんは彼氏いないって噂がガセだったってのは正直びっくりした」
「え……あ、あの、彼氏なんて……」
「隠さなくていいよ。首の後ろ、彼氏に付けられたんだろ?」
「首の、後ろ……?」
 無意識に手を当てた瞬間、前夜、杜樹がその部分へと、やけに執拗にキスしていた事を思い出した。まさか、と呟いて顔を染める彼女を見て、彼は本当に気づいてなかったんだ、と目を丸くする。
「どうやら嫉妬深い彼みたいだな。こんなあからさまに牽制されるとは思わなかった」
「ご、ごめんなさい! まさかこんな事されてたなんて全然気づかなくて……ああもうあの馬鹿、一体なんて事してくれるのよ……!」
「はは、いいよ、もう謝らないで。まあ、彼氏と別れたら、その時は俺を次の候補に挙げてもらえると嬉しいかも」
「え、と……」
 どこまでも前向きな彼に少しばかり戸惑いを覚える。好きだからって理由で、杜樹の浮気相手に甘んじている自分を、どうしてこんなに想ってくれるのだろう?
 つきんと痛んだ胸を押さえて、比佐子は深く息を吸った。
「できれば他の人、見つけてください。あたし、あの人の事、多分ずっと好きですから」
「……そう、なんだ。じゃあ仕方ない、かな」
 また、寂しそうな笑顔。申し訳ないと想うけれど、自分の心を偽る事はできない。
「でも、誘っていただけたのは、そりゃびっくりしたけど嬉しかったのは本当なんです。だから、ありがとうございました」
 最後にもう一度、深く頭を下げた比佐子に驚いた顔をした彼は、少し寂しげな笑顔を浮かべてこちらこそ、と返した。
 遠ざかっていく背中を見送り、小さく息を吐くいた。なんだかすごく、疲れた気がする。
 告白すらできない勇気なしの比佐子にとって、彼は本当に尊敬すべき存在だ。けれど人の好意を拒否するというのは、こんなにも気力を使う事だったなんて。
「だから杜樹は、来る者拒まずなのかな……」
 無意識に漏れた言葉は、突然鳴り出した携帯電話の着信メロディにかき消された。
「この、曲……。もしもし、杜樹?」
『よ。どうだった? ちゃんと断れたか?』
「それは……――て、いうか、杜樹、キスマーク付けたでしょ! 見られて恥ずかしい思いしたんだからね!」
『見られた……って、例の男に?』
「そうよ! 今日は髪を下ろしっぱなしにしてたからいいものの、アップにしてたら――」
『だーから、いつも下げていろって言ってるだろ。それに、これでその男ももうお前にちょっかい出してこなくなるだろ』
 どこか得意げなその声に、比佐子は小さく息を吐く。
『……って、こら、チャコ。何溜め息なんか吐いてるんだよ。これで憂いはなくなった事だし、クリスマスの事を考えろ。今年もさ、前からレストランとホテル、予約してたんだ。楽しみにしてろよ』
 杜樹の言葉が、ツキンと胸に突き刺さる。
 前から、っていうのは、一体いつからの事だろう。杜樹がコンパで会った子と、まだ付き合っていた頃だろうか。それとも会社のバイトの子とデートした頃?
 いずれにしても、彼女達と過ごすはずの予定が駄目になったから、杜樹は確実に予定が空いているであろう比佐子を誘っている。ただそれだけだ。
「わかったわよ。だけど、大げさな事は何もしないでいいからね?」
『ったく、なんで嫌がるかなぁ。他の女ならこういうイベントで力入れないとうるさいってのに……』
「そんな事言うなら、他の子誘いなさいよ。杜樹ならいくらでも誘いに乗ってくれる女の子、いるんでしょ」
 自分で自分の首を絞めていると知りながら、素直になれない比佐子の口からはそんな言葉が飛び出してくる。肯定されたらどうしよう。そんな不安が胸を締め付ける中聞こえてきたのは、実に不機嫌な舌打ちだった。
『だから、他に誘う奴なんかいないって言ってるだろ! とにかく、クリスマスは二十二日の夜からお前んとこ泊まりに行くから。いいな』
 それきり比佐子の返事も待たず、杜樹は通話を打ち切ってしまった。
「まったく、横暴なんだから……」
 かちん、とフラップを閉じて、携帯電話をポーチに仕舞う。
 もう一つ、はぁ、と溜め息を吐いて歩き出した比佐子の口元には、どこか幸せそうな笑みが浮かんでいた。