かぶ

真実の目覚める時 - 03

 ストライキが日常的に起きているフランスへ出張したというのに、予期していた不便はほとんどゼロで、あえて余裕を持ったスケジュールを立てていたランドルフはどこか拍子抜けした面持ちでJFK国際空港へと降り立った。
 それに、どうやら天が味方したのはストライキに関する問題だけでなかったらしい。ランドルフが渡仏した最大の目的であるいくつかの契約事項についても、もちろん事前に丹念な根回しや交渉を重ねていた効果もあるのだろうけれど、彼が想定していたよりはるかに好条件で締結できた。あまりにも全てが好調に進んだおかげで、うっかり車にはねられやしないかと、緩みがちな心を意図的に引き締めなければならないほどだった。
 冬の最中という事もあり、まだ午後半ばというのに日はすでに傾き始めている。一度オフィスに戻らなければならないから、帰宅する頃にはもう日は暮れているだろう。それでも今から車の中で必要な指示を出しておけば、なんとか夕食時には間に合いそうだ。
 そんな事を考えながら、空港の正面に回されている社用のリムジンへと乗り込む。快適な振動と共にマンハッタンへと車が走り始めたところで、運転手の隣に座している秘書のケネス・ヒルストンが、後部座席との仕切りを下ろして声をかけてきた。
「社長、これからどうなされますか?」
「予定どおり、本社へ戻ってくれ。契約内容が事前予想とは変わったおかげで、関係者と確認しておかなければならない事が増えたからな。まあ、メールで内容の詳細は伝えているから、すでに対応されていると信じたいよ」
 ランドルフがわざとらしく嘆息すれば、二十八という年齢にしてはどこか幼さの残る笑顔を浮かべ、ケネスが力強く請け負う。
「大丈夫ですよ。あなたの部下達は、みんなとても優秀ですから」
「だといいが」
 ケネスの言葉を欠片ほども疑っていないくせにあいまいな答えを返す上司に、秘書の青年はやれやれと肩を竦める。
 この捻くれた社長との付き合いは、ケネスがコロンビア大学に在籍していた頃から換算すれば、すでに十年近い。きっかけは、同校の卒業生という事で講演に来たランドルフに、まだ青臭い学生だったケネスが捨て身の覚悟で自分の将来を売り込みに行った事だ。ケネスのその勢いが気に入ったのか、ランドルフはケネスを友人の一人と数えるようになり、若く優秀な青年を育てる事に力を注いだ。そのためケネスのバケーションは遊びや息抜きのために使われる事はなくなり、ランドルフの会社におけるインターンシップで現実のビジネス界で身を磨くためにのみ費やされた。
 周囲は楽しめる唯一の時期を仕事に費やすとはと、こぞってケネスを批判したが、ケネス自身はいまだにこれっぽっちも後悔していない。学生時代の間に本物のビジネスに触れられたおかげで講義の内容はただのややこしい単語の羅列ではなくなったし、教授達の語る言葉全てがはっきりした意味と実感を持った訓戒となった。覚えた疑問や矛盾は、問いかけさえすればランドルフが忙しい時間の合間を縫って、メールや電話でケネスが納得できるまで説明してくれた。主席こそ取れなかったものの、十分すぎるほど優秀な成績で大学院を卒業したケネスを、ランドルフは将来的な自分の右腕候補として鍛えるべく秘書として拾い上げ、ビジネスマンとしての真髄を、彼に最も近い場所で見せてくれている。
 そんな長い付き合いがあるからこそ、部下達を信頼しているにも関わらず、不信を持っているように振舞うランドルフに対して不満を感じずにいられる。
「――ケネス、社に戻ればすぐにでもミーティングを開くつもりだ。休みたいなら今のうちに休んでおけ」
「わかりました」
 軽く頷く秘書へと最後に視線を向け、ランドルフは手元のコンソールを操作して運転席との間仕切りを上げる。半透明の仕切り越しにケネスが正面へと顔を戻すのを確認し、ブリーフケースからラップトップと携帯電話を取り出した。本来であれば、こういった作業は秘書に任せるべきだと頭ではわかっている。しかし出張中は身の回りのこまごまとした処理でケネスにいらない負担をかけてしまっていると知っているから、少しでも休ませたいという感情が働くのだ。ランドルフは自分自身がワーカーホリックの範疇に入る人間だと自覚しているし、ケネスも自ら望んでその範疇に身を投げ入れている。しかしそうだからと彼に身体を壊させるつもりはまったくない。
 電話に所要した時間は予想以上に短かった。
 何しろケネスが請け負ったとおり、ランドルフに仕える部下達は実に優秀で、付け加えるなら彼らの雇い主の性質をよく知っていた。彼が戻ればすぐにミーティングを開くだろうと予測していた彼らは、予定どおり帰国すると報告が入ってすぐ、必要な全ての段取りを終わらせていたのだ。
 苦笑混じりに通話を打ち切ったランドルフは、唐突にもたらされた空き時間に僅かばかりの戸惑いを覚える。
 広げた書類やラップトップを片付け、柔らかな革張りの背もたれに全身を預ける。この調子で行けば、本当に家で夕食を摂れるかもしれない。そういえばこの出張のため、帰るのは午前様、出かけるのも夜明け直後という状態だったから、このところ息子の寝顔しか見ていない。早めに戻れると知ればあの子はきっと喜んでくれる。週末を丸々家で過ごせると伝えれば、躍り上がるかもしれない。もしもアマデオが望むなら、フットボールかバスケットボールの試合チケットでも手に入れて、一緒に観戦しに行くのもいい。
 ああけれど、そうするなら妻も誘わなければ。彼女は息子と一緒に何かする時間をとても大切にしている。それは息子も同じで、ランドルフが誘わなくても息子が誘うだろう。
 マデリーン。
 彼の妻であり、素晴らしい息子を産んでくれた女性。
 彼女は父親の代に提携を始めた大農家の娘で、家族を助けて広大な農場を管理している姉妹のうちでただ一人、家族中の反対を押し切り、自分を磨くために都会へと飛び出して大学に通った向上心に溢れる少女だった。
 茶色がかった控えめな金髪は背中より長く、卵形の輪郭を縁取るように緩やかなウェーブを描くそれは、最高級の絹糸の手触りを持っている。意志の強そうな眉の下には息子と同じ深い藍色の瞳がいつも穏やかな光を灯している。愛らしい丸みを帯びた鼻の下にはふっくらとした唇があり、高すぎない頬骨から顎へのラインは、その背の高さが与えるほっそりとした印象を裏切るように女性らしく柔らかい。
 柔らかいのは頬だけじゃない。その身体もだ。
 背が高い女性は、大抵骨格的に大柄な印象か、それを抑えるための無理なダイエットやエクササイズで骨筋張った印象を持つ事が多いが、マデリーンは違う。確かに背の低い女性と比べれば大柄だと言わざるを得ないが、好んで身に着ける服の印象や、各パーツの意外な小ささから、とても細く見える。けれどモデルやダンサーのような骨と皮だけというわけではなく、きちんと女性らしいふくよかさと柔らかさを備えている。アマデオを産んだ後、以前に比べて太ったのではないかと気にしていた時期があったが、そのままでいいと言い聞かせたのはランドルフだ。
 その気質も、頑固で意志の強いところはあるものの、基本的に穏やかで愛情豊かだ。
 ただしその豊かな愛情は、ランドルフ以外に対してのみ発揮されるという、実に苦々しい条件が付く。
 結婚当初に住んでいたアパートメントも、息子が生まれてから引っ越してきた今のアパートメントも、共に彼女が手をかけたおかげでとても住み心地のいい空間となっている。何より息子に対する態度を見ていれば、彼女がとても優しく愛に溢れた女性なのだとわかる。しかし結婚してからすでに十年以上の歳月が過ぎているというのに、妻はいまだ、夫であるランドルフにだけは一線を引いた、どこかよそよそしい態度を取り続けている。
 彼の記憶が正しければ、結婚前は――もっと正確に言うなら、プロポーズするまでの彼女は、ランドルフへも親しみの感じられる態度で接してくれていたはずだ。それが結婚式が近づくにつれて彼女は少しずつ彼との間に距離を取りはじめ、それは結婚してからも変わらなかった。
 唯一マデリーンがランドルフを拒まないのは、夜の寝室で肌を合わせている間だけだ。その時だけは、彼女はまるで誰よりも恋しい男に抱かれているかのように、情熱的にランドルフを求めてくれる。旧時代的な家庭で育ったにしては都会派のマデリーンだが、貞操観念までは都会に染まっていなかったらしく、結婚初夜に初めて彼女を抱いたランドルフは、想定外の贈り物に狂喜したものだ。その夜から若く不慣れな身体を丹念に拓き、男に愛される喜びを教え込んだ。子供が宿る頃には、寝室以外でも、そっと素肌に触れるだけで期待に身体を震わせるくらいになっていた。
 もちろんそれは今も変わらない。けれど同じくらい、彼女のよそよそしさも残ったままなのだ。
 息子が生まれた時、少しは二人の間に変化が訪れるだろうかと思った。けれどその期待は実にあっけなく裏切られ、ナニーを雇わず自分の手で育てると言い張ったマデリーンの、息子に比類なき愛情を注ぐ様子を苦く見つめるようになった。
 そんな感情を抱くのが嫌で、ランドルフは少しずつマデリーンから距離を置くようになり、そうして気が付けば、自分の妻に対してどのように接すればいいのかすらわからなくなってしまっていた。
 おかげでここ数年、まともにマデリーンと口を利くのは公式の場や最低限の通達事項を伝える時のみとなり、コミュニケーションと呼ばれるものを交わすのは寝室のベッドの上でだけになっている。
 せめてもの救いは、誘いかけるランドルフを、彼女が今も変わらず受け入れてくれる事だろうか。
「……まったく、俺は一体何を考えているんだ?」
 不意に生まれる空白の時間はタチが悪い。いらない事ばかりぐるぐると考えてしまう。加えてこの身体に重くのしかかる疲労感も、精神をおかしくしているのだろう。
 いずれにせよ、今日はさっさと仕事を終わらせて家に帰るのだ。息子と妻の待つ家に。ここしばらく話せなかったから、きっとアマデオは夕食の間もその後もひっきりなしにあった事を話してくれるだろう。風呂の後は自分が寝かしつけてやるのもいい。その後は――
 無意識に口の中に溜まった唾液を飲み下す。
 久しぶりなのは息子の相手だけじゃない。妻を抱く事も、このところずっとなかった。
 腕時計に視線を落とし、まだ夕食の準備は始めてないだろうと考える。今のうちに電話を入れておけば、三人分の料理を用意するだけの余裕はあるはずだ。一度会社に戻ってしまえば、次に連絡を入れられるのは帰宅直前になる。それからでは、ランドルフの皿を用意させるには少しばかり遅すぎる可能性が少なくない。
 一度ポケットに仕舞った携帯電話を取り出して短縮番号の一番を押し、小さな機械を耳に押し当てた。