かぶ

真実の目覚める時 - 05

「父さん、お帰りなさい!」
「ジュニア!?」
 エレベーターのドアが完全に開くと同時にペントハウスの玄関から快活な声を上げて飛び出してきた息子の姿を見つけ、ランドルフは満面に笑みを浮かべて広いホールへと踏み出す。左手に持っていたボストンバッグを足元に落とし、目の前で元気よく跳び上がった息子をしっかりと受け止めて力強く抱き上げた。
 その年齢にしては背の高いアマデオだが、父親と比べればまだまだ小さい。少年の足はあっさりと床から離れ、本来よりはるかに高い視界へと持ち上げられる。久しぶりに父親に会えた嬉しさと豪快なハグに喜んで声を上げるアマデオの顔には、これ以上はない程の明るい笑みが浮かんでいる。
 瞳の色を除けば幼かった頃のランドルフに生き写しの息子は、当時の自身よりも明るく表情豊かで感情表現が素直だ。アマデオがこんな風に育ったのは、きっとマデリーンがその愛情をたっぷりと注いでくれているからだろう。
「ランドルフ・アマデオ・モーガンヒル・ジュニア、びっくりしたじゃないか!」
「サプライズ・グリーティングだもん。びっくりして当然だよ!」
 澄ました顔で澄ました言葉を返してくる息子の額に自分の額を軽くぶつけ、ランドルフも低い笑い声を上げる。
「ただいま、ジュニア」
「おかえりなさい」
 最後にもう一度強く抱きしめてから息子を床に下ろしてから足元の荷物を取り上げ、息子の肩に腕を回して開きっぱなしの玄関までの短い距離を並んで歩く。しかし玄関の扉まであと数歩となったところでふとした疑問が浮かび、ランドルフはそれをそのまま口にした。
「それにしてもお前、いいタイミングで出てきたな」
「でしょう?」
 自慢げに父親を見上げてくるその顔に企みめいたものを見出し、ランドルフは片眉を跳ね上げる。
「ジュニア、一体何を隠してるんだ? 正直に吐かなければ、お土産は週明けまでお預けにするぞ?」
 本気でない事など丸分かりの脅し文句をランドルフが口にすれば、アマデオは大げさなまでに顔を引きつらせてノー! と絶望に満ちた叫びを上げた。
「嫌なら吐くんだな」
「吐くよ、吐く! だからお土産ちょうだい!」
「いいだろう。ただし大きな荷物は後から届けられるから、夕食の後まで待つんだぞ」
「イエッサー!」
 キレのいい返事を敬礼と共に返し、アマデオはきらきらとした目で父親を見上げた。
「父さん、早く帰ってくるって電話くれたでしょう? だからあの後、父さんが戻ってきたら教えてってドアマンのジョージにお願いしたんだ。ジョージは父さんがエレベーターに乗るのを見てから連絡くれたから、玄関のドアに耳をつけて到着のチャイムが聞こえるのを待ったの」
「……なるほど、よく考えたな」
 アマデオがした事は、大人の視点で考えてみれば子供の遊びに過ぎない。けれど普通の少年であれば、ドアマンの協力を得る、などといった策を弄するような真似はしない。こんな風に手を回して自分の望みを叶えるのは、子供と言うよりは大人の考え方に近い。
 息子の、年齢に似合わぬ知恵の回しように誇らしさと満足感を覚え、ランドルフはくしゃくしゃと息子の髪を掻き混ぜる。乱暴な賞賛に高らかな笑い声を上げながら父親の腕にアマデオはぶら下がり、ランドルフは息子を腕からぶら下げたまま、数日振りの我が家へと足を踏み入れた。
「そうだ、知ってる? 今日の晩ご飯、またチキンのトマトソース煮込みなんだって」
 玄関の扉を閉じて鍵を閉めるランドルフを振り返り、アマデオはどこか不満げに唇を尖らせる。それはどう見ても好物が供される事を喜ぶ顔ではない。
「またとはなんだ。父さんは久しぶりに食べるんだぞ。それに、母さんがあれをよく作るのは、お前の好物だからだろうが」
「僕の好物だって? それ、母さんが言ったの?」
 驚いたような顔でアマデオが問い、ランドルフはきっぱりと頷きを返す。そんな父親の反応にを見て眉間に皺を寄せた少年は、少しの間考えるように首を傾げ、それからはっと何か思いついたように目をきらめかせた。
「――ああ、そっか。そういう事か」
「ジュニア?」
 一人で納得する息子に視線と声音で説明を求める。苦笑を浮かべたアマデオは、けれどどこか楽しげに口を開いた。
「母さんの料理って、そこらのレストランにも負けないレベルだと思うし、母さんのチキンのトマトソース煮込みは他じゃ食べられないくらい美味しいよ。だけど僕は、例えば牛ミンチとマッシュポテトの重ね焼きとか、スペアリブのハーブソース焼きとかなら毎週食べてもいいと思うけど、チキンのトマトソース煮込みはそこまで好きじゃないよ。ていうかさ、あれが好物なのは父さんの方でしょ?」
「まあな」
「ならさ、考えてみてよ。どうして母さんは父さんの好物をそんなにも頻繁に作ってるのかな?」
 意味ありげな視線を投げてよこすアマデオいぶかしげに見下ろし、ランドルフは片眉を僅かに上げる。それはあくまで答えを求めるものであって、自分で考えるつもりがないという表情なのだと経験から悟った少年は、呆れたような、諦めたような、そんな息をそっと吐き出した。
「ちょっと考えればわかる事だよ。母さんがあれを作るのは、母さんが父さんに――」
「――まあ、アマデオ。なんだか楽しそうなお話だけど、私も混ぜてもらっていいかしら?」
 冷やりとした声が正面の突き当たり、リビングの入り口から聞こえてくる。やばっ、と小さく叫んで首を竦めたアマデオは、ごまかすような笑顔を浮かべて声の主へと視線を向けた。
「えーと、うん、別に大した話じゃないよ。――そうだ! 僕、ロビンにメール打ってる途中だったんだ! 早く戻って続き書かなくちゃ! 晩ご飯の準備ができたら呼んでね」
 わざとらしい理由を口にして、少年は両親に手をひらめかせて自分の部屋へと駆けていく。勢いよく閉ざされた扉の向こうに小さな背中が消えるのを見送ってから、マデリーンは夫へと向き直った。
「お帰りなさい、あなた。フランスでのお仕事はどうでした?」
「驚くほど順調に進んだよ。何よりストに一度も遭遇しなかった」
「一番ストライキの多いこの時期に? それはすごい幸運だったわね」
 先程のアマデオに対する冷ややかな態度が嘘のように、マデリーンは穏やかな笑みを浮かべていた。その身体を荷物を持っていない腕で抱きしめ、柔らかな頬に口付けを落とす。ふわりと鼻をくすぐるマデリーンの香りは、いつだってランドルフに、家に帰ってきたのだ、という実感を強く覚えさせる。それは今回も同様だった。
「正直、あなたのお帰りはもう少し遅くなると思っていたの。だからジョージからあなたが戻ってらしたと連絡が来た時は、正直驚いたのよ」
 彼女の語調からも声からも、そこに皮肉は含まれていないと知れる。
 確かに、すでに薄暗くなりつつあるものの、時計の針はまだ六時前を指している。空港から会社に向かう車中から電話をした時点で四時近かった事からも、ミーティングがどれだけ短く切り上げられたのかがわかる。
 ミーティングを短い時間で終わらせたのが功を奏して、渋滞が常であるこのマンハッタンでは珍しいほど、帰路はスムーズだった。ほんの数十分ずれていれば、帰宅ラッシュに巻き込まれてほんの十数マイルの距離を馬鹿馬鹿しいほど長い時間車の中で過ごす羽目になっていた。
「そうだな。やはり仕事に忙殺されるより、家でゆっくり寛ぐ方がはるかに楽しそうだと思ったから、早めに仕事を切り上げたんだ」
「まあ……」
 驚いたように声を上げた彼女は、しかしすぐに夫の言葉が先程の電話での会話に引っ掛けたものであると気づく。
「あなたの判断が正しければいいのだけれど」
 そっけない言葉を口にするマデリーンの表情には、喜びの光が確かに灯っていた。それを隠そうとしてか、視線を逸らして肩を竦める妻へと腕を伸ばし、もう一度しっかりと抱きしめる。
「もちろん正しいさ。家族と過ごす時間が楽しくないはずがない。違うか?」
「そう、ね。――ところであなた、すぐ夕食にします?」
「それもいいが、先にシャワーを浴びてリフレッシュしたいな。期間は短かったし、比較的近場だとはいえ、やはり大西洋を渡っているから妙な感じに時差があるだろう? 疲れもあってか、さっきから感覚が妙な事になってるんだ」
「あら、そうなの? あなたはそんな事ないかと思っていたけれど。でも、そうなら確かにシャワーを浴びた方がいいかもしれないわね」
 くすくす笑いながら返す妻へと、わざとらしく疲れ切ったような息を吐いてみせ、ランドルフは寝室へと足を向けた。けれど数歩進んだところで足を止め、マデリーンへと振り返った。
「君も一緒に来るか?」
「一緒にって……荷物の整理のために?」
 戸惑いも露わに訊き返してくる妻に、ランドルフはニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「いや、そうじゃない。一緒にシャワーを浴びるか、という意味だ」
 夫が口にした言葉の意味をマデリーンが理解するまでに、数秒のタイムラグがあった。はっと息を呑み、信じられないとでも言わんばかりに目を見開いた彼女の顔は、一瞬で真っ赤に染まっていた。
「お断りします!」
 予想どおりの、しかし予想以上にきっぱりとした断りの言葉を背中で受け止めたランドルフは、低く笑い声を上げながら、寝室へと姿を消した。