かぶ

真実の目覚める時 - 10

 ブロードウェイ沿いにあるホテルの車寄せ前に数え切れないほどのカメラマンと、物見高い観光客が群れを成しているのが一ブロック先からでもはっきりと見えた。
 信号待ちの車の中でランドルフが忌々しげに舌打ちするのを耳にして、ケネスは短く問う。
「地下に回しますか?」
「そうしてくれ」
 了承の合図に頷きを返したケネスは、運転席と後部座席を遮るスクリーンを下ろし、運転手にホテルの正面ではなく地下の車庫へと車を回すよう伝える。手元のコントローラーでスクリーンを戻しながら自分の方へと向き直るケネスをじっと見つめていたランドルフは、ふと思い出したように訊ねた。
「お前は参加しないでいいのか?」
「参加って、パーティにですか?」
「ああ。俺の付き添い扱いになるからパートナーはいらないし、立食形式だから飯もたらふく食える」
 からかう上司の言葉に、ケネスはそっと苦笑いを浮かべる。
 新入社員としてランドルフの元で働き出した頃、何度か支払い日の計算を失敗してまともに食事をする金すら手元に残らず、ランドルフに付き従って参加したパーティで、その日の飢えをしのいだ事があった。今ではもうそんな事はなくなったが、意地の悪い上司は、事ある毎にこうしてからかってくるのだ。
「それは魅力的なお誘いですが、今夜はお断りします。実はすでに、他からのディナーのお誘いを受けているんですよ」
「ははぁ、お前がそう言うからには女だな?」
 知った風な表情を浮かべるランドルフに、ケネスは軽く肩を竦めて見せる。
「僕のディナーの相手が誰であったとしても、あなたには関係ないでしょう?」
「さて、どうかな。将来的に、家族ぐるみの付き合いをする事になるかもしれないだろう?」
「……残念ながら、今夜の相手はそういう人じゃないんです」
 頭を振りながらケネスがそっと溜め息を吐いた時、タイミングを見計らっていたかのようにエンジンが沈黙した。ほとんど待つ事なく後部座席の扉が開かれ、いつもの癖で先に出ようとしたケネスを、ランドルフが押しとどめた。
「このまま待ち合わせ場所まで乗っていけばいい」
「このまま……って、じゃあ、あなたはどうやって帰るんですか?」
「帰りはタクシーでも拾うさ。終わりがいつになるかはわからないパーティにつき合わせるのも悪いからな」
 すでに自分の場所に戻っている運転手を視線で示しながら鷹揚な態度で告げるランドルフに、ケネスはあいまいに頷く。
「そういう事でしたら、お言葉に甘え――」
「ああ、やっぱりランドルフだったのね。あなたの事だから、きっとこっちに来ると思っていたの」
 ケネスの声を遮って、甘いアルトの声が地下駐車場に響いた。唐突な言葉に二人して視線を巡らせれば、見覚えのある女性が、開かれたドアの向こうからこちらを見つめていた。
 薄暗い照明の中でも鮮やかに写るブロンドの髪は夜会巻きにまとめられており、その細い首筋とシャープな顎のラインが露わになっている。緑の瞳には強い意志を示す光が宿っており、彼女の向上心の強さがはっきりと現れている。四肢が長くて腰の位置が高いため、平均的な身長であるにも関わらず本来の身長よりも背が高く見える。定期的にエクササイズでもしているのだろうほっそりとした身体は、今日は深いワインレッドのイブニングドレスに包まれており、その腕には黒い毛皮のコートがかけられている。
 声の主が誰なのかを知り、ランドルフはすっと警戒を解いた。
「アリシア・ブルネイ。君も来ていたのか」
「あなたが今夜のパーティに参加すると聞いたから、私も予定を変える事にしたの」
 魅力的な笑顔を浮かべる彼女、アリシア・ブルネイは、一年ほど前からランドルフの経営するレストランの内装を担当しているインテリア・デザイナーだ。
 彼女は数年前にモーガンヒル・グループの所有するレストランの設計を担当していた建築会社に入社したのだが、斬新なアイディアと女性的なセンスを融合させた絶妙なデザイニングを認められており、大学で建築学とインテリア・デザインを学んでいた頃からいくつも賞を取っていた。そういった経緯もあって、会社から与えられたいくつかの小さな仕事をこなした後、モーガンヒル・グループの物件を扱うようになった。
 アリシアが手がけた店の内装は各種メディアでも取り上げられるようになり、その功績はついにランドルフの元まで届くようになった。
 元々才能を見出す事にもそれを扱う事にも定評のあるランドルフが彼女を見逃すはずはなく、若干二十五歳のアリシアを、彼はモーガンヒル・グループのインテリア・デザイナーチームのチーフの一人へと大抜擢したのだ。
 とはいえ、限定された分野でしか仕事をできないという状況は、彼女の才能を型に押し込めるものだというランドルフの判断により、彼女はモーガンヒル・グループの専属にはなっていない。そしてこの判断は、いずれは独立して自分自身の設計事務所を持ちたいと願うアリシアにモーガンヒル・グループ以外と仕事をする余裕を与え、彼女はそれをフルに利用して様々な仕事を引き受けては、あちこちにコネを作っている。
 だから本来であれば一介のインテリア・デザイナーでしかないはずの彼女が、この日のパーティに招待されているとしても、何の不思議もない。
 笑顔を浮かべるアリシアの言葉に驚いた表情を作り、ランドルフは穏やかに尋ねた。
「それは光栄だ。けれどよかったのかい? 急にデート先を変えられて、君のボーイフレンドは怒っていないかな?」
「あらあら、もしもそんな相手がいるのだとしたら、どうして私はこんな所にいるのかしら?」
 くすくすと笑いながら、アリシアは意味ありげにランドルフを見下ろす。
「あなたも今夜はパートナーがいないようだけれど、どうかしら? 私をエスコートしてくださらない?」
「私などでいいのなら、喜んで引き受けるよ」
 深い声で返し、ランドルフは優雅な動作で車から降りる。大きな体躯を狭い空間から広い空間へと開放する間際、彼は展開に唖然としているケネスを振り返り、「言ったとおりだろう?」とでも言いたげな表情でウインクを投げた。
「……なるほど。だからマデリーンを連れてこない事にしたんですね」
「そういうわけじゃないさ。だが、予想していなかったといえば嘘になる。――それじゃあケネス、また明日」
 皮肉を口にする秘書にあっさりと別れの言葉を告げたランドルフは、返事も待たずに車のドアを閉めた。
 閉ざされた扉越しに若くて美しい女性へと腕を差し出す上司の姿を見ながら、ケネスは苦い思いで息を吐いた。
 いくら尊敬する相手とはいえ――いや、だからこそ、ランドルフのこういう姿は見たくない。
 エレベーターへと向かって歩いていく二人の背中から視線を引き剥がし、ケネスは手元のコントローラーを操作してスクリーンを下ろした。
「社長の自宅へ回してくれ」
「……社長の、ですか?」
 戸惑うような運転手に、ケネスは頷く。
「ああ。不要になった彼の分の夕食を僕がいただく事になっているんだ。秘書なんてのは、何かと細かくて面倒くさいし無駄に精神が磨り減る仕事だけれど、ちょっとした機会にいいものを食べられるから、文字どおり美味しい仕事でもあったりするんだ。パーティに参加したり、社長の奥方の手料理をいただいたり、ってね」
「それはそれは、羨ましいんだかそうでないんだか……」
 軽口を叩きながら、運転手はほとんど振動を感じさせず車を発進させた。
 夕方のブロードウェイは、帰宅する人々を乗せたタクシーで黄色に染まる。ビルの上から降り注ぐネオンサインの光をいくら浴びようと、基本色に変化はない。遅々として進まない車の群れにうんざりと息を吐き、ケネスはまた運転手へと声をかけた。
「このままブロードウェイを上るとなると、到着する頃には餓死してそうだ」
「それは有り得ますね。では、一度ブロードウェイから抜けましょう」
 イギリス出身だという初老の運転手は、雇い主の秘書であり、自分の息子ほどの年のケネスに対しても丁寧な言葉を使う。知り合った当初、ケネスは何度も普通に話してくれと頼んだのだが、年齢の刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべながらそれはできかねますと繰り返すばかりで、結局ケネスの方が根負けしたのだ。
「ああ、どうか頼むよ。僕はマデリーンの美味しい手料理を食べずに死にたくない」
「そんなに美味しいんですか? だったら私も一度は食べてみたいものですね」
「食べた事がないのかい? それはもったいない。そうだ、今夜彼女に伝えておくよ。マデリーンはとても気持ちの優しい女性だから、きっと君のためのランチボックスを用意してくれるよ。明日の朝を楽しみにしてるといい。社長経由でランチが届くはずだ」
 にやりと笑うケネスに、運転手は大げさに身震いをした。
「……それはさすがに恐れ多すぎます。やっぱりオフレコって事でお願いします」
「もったいないなぁ……。だけど君がそう言うのなら、僕は無理強いはしないよ」
 わざとらしく肩を竦めるケネスへ、どうかお願いします、とやけに神妙な声で返す彼の目元には、穏やかな笑いじわが寄せられていた。