かぶ

真実の目覚める時 - 12

 夕食の時間は穏やかに、ゆったりと過ぎた。到着したのが遅かった事もあり、気がつけば時刻は九時を過ぎていた。
 使った食器を軽くすすいで洗浄器に入れるという『片付け』の手伝いをした後、食事も終わった事だしと時間を理由に暇を請うたケネスを、しかしアマデオが引き止めた。
 ここまではある程度予想していたのだが、いつもなら息子をたしなめるはずのマデリーンが少年の言葉を引き取って残るよう薦めた時には、正直驚きよりも戸惑いが勝った。
「ですがマデリーン、ランドルフが帰ってきたらどうするんです? きっといい顔しませんよ?」
「ケネスったら本当に心配性ね。だけどさっきも言ったでしょう? 私達は姉弟みたいなものなのだから、気にする必要はないって」
 気まずく繰り返すケネスとは対照的に、マデリーンは実に楽観的だ。けれどケネスにはそこまで楽観視できない。いくら家族同然の付き合いをしているとはいえ、ケネスは所詮他人なのだ。夫の不在時に妻が他所の男を夕食に、それも夫には伝えぬまま誘うというのは、世間的に考えても、また一人の男として考えても、あまりいいものだとは思えない。
 ランドルフに今夜の食事について伝えなかったのは偏にケネス個人の判断によるものだが、この状況ではどう考えても失敗だ。マデリーンの言葉からも態度からも、ケネスから夫へと今夜の事が伝わっているのだろうと思っているらしい事が感じられる。
 だが、だからと言って、今更真実を告げるわけにもいかない。告げてしまえば彼女はきっとたちまちに冷静さを取り戻し、アマデオやケネスが願ったところで彼を帰すだろう。それだけじゃなく、今後は夫に確認をしてからでなくてはケネスを誘おうとはしなくなってしまうかもしれない。
 そんな状況に陥るのだけは、絶対に嫌だった。
 ――それにどうせランドルフもランドルフで今頃はアリシアと楽しい時間を過ごしているのだ。どうして自分だけが遠慮しなければならない?
 そんな囁きが、左の耳から吹き込まれ、それがケネスに決心を促した。
 限りなく危険な綱渡りだと知りつつも、常識的な考えよりも自らの望みを優先する。
「……マデリーンがそう言うのなら、もうしばらくゆっくりさせてもらおうかな」
「そうこなくっちゃ!」
 椅子から躍り上がって喜ぶ少年の向こうで、マデリーンも嬉しそうに笑みを浮かべる。
「でも、遅くならないうちに帰りますよ?」
「わかってるわ。明日も朝が早いのでしょう? 寝不足をあの人に叱られないような時間帯にはちゃんと帰してあげる」
 くすくすと笑う彼女の言葉は、まるで家に帰りたくないと駄々を捏ねる子供に対するものみたいで、やっぱりマデリーンにとっての自分は『弟』でしかないのだと思い知る。
「どうせなら泊まっていけば? で、明日の朝は父さんと一緒に仕事に行けばいいじゃない」
「さすがにそれは……君やマデリーンとずっと一緒ってのは確かに魅力だけど、朝からランドと一緒ってのはちょっと」
 大げさに顔をしかめると、アマデオは不満げに唇を尖らせる。
「どうして? だってケネスと父さんは友達でしょう? 僕は友達の所に行ったら、次の日までずっと一緒にいたいって思うけど」
「友達は友達だけど、僕からすればランドはむしろ先生に近いんだ。ランディは学校の先生の家に泊まって、朝から一緒に学校に行きたいかい?」
「あー……うん、ごめん。なんかすごくケネスの気持ちがわかったかも」
 拗ねた表情から一転渋い顔になって、少年は溜め息を吐く。そんな二人を和やかな目で見つめながら、マデリーンが左の手を息子の頬に伸ばす。
「納得できたならその顔をなんとかしてちょうだい。せっかくのハンサムさんが台無しだわ」
「ふーんだ。母さんが僕の顔を好きなのは、父さんの顔に似てるからでしょう?」
「もちろんそうに決まってるわ。でも、だからこそあなたのお父さんがいない時でも、あなたが傍にいてくれるだけで二人分の存在を感じていられるのよ」
 アマデオの柔らかな頬をマデリーンの指先が愛しげに撫でる。その指を甘んじて受ける少年は、大人びた笑みを浮かべて母親を見つめる。
 なぜだろうか。以前からマデリーンとアマデオを繋ぐ絆の強さには羨ましく思っていたのだけれど、それが更に強く確かなものになっている気がする。母親と子供だからというだけではない、なにか特別なものが、彼らから感じられる。
 同じ部屋に、同じテーブルに着いているはずなのに、ケネスは自分一人が別の部屋からガラス越しに二人を眺めているような錯覚に陥る。さっきまで感じていた輪の一部だという感覚は、もはやない。
 けれどその疎外感は、しかし次の瞬間にはまったく異なる感情へと変化を遂げさせられた。
「――すでに家族ぐるみの付き合いがある相手だったのなら、そう言ってくれればよかったんじゃないか?」
 その声を耳にした瞬間の感情を例えるなら、ペイルブルーの水中から晴天の空を見ていたはずが、一気に漆黒の海底へと続く渦に引きずり込まれる感覚、とでも言うべきか。
 全身から一瞬で血の気が引いていく音を、ケネスは確かに耳にした。
「父さんお帰り!」
「ただいま、ジュニア。マデリーンも」
 嬉しげに父親の元へ飛んでいったアマデオは、力強い腕の中で声を上げて笑う。そしてランドルフの腕から防寒具を受け取ると、かけてくるね、と一言残して薄暗い廊下へと駆けていく。その軽快な足音が遠くなるのを待たず、ランドルフは驚いて立ち上がった自分の妻の背中へと、抱きしめるように腕を回す。
「……ランドルフ? あなた、今夜は遅くなるはずじゃなかったの?」
「おや、それはおかしいな。俺は、夕食はいらないが早く帰るつもりだ、と、そこにいる秘書に伝言を依頼したはずなんだが」
 外の寒さだけでない冷気を纏う雇い主が、鋭い視線を当の秘書へと投げかける。元々眼力のある相手なだけに、意図を込めて睨まれると反射的に背筋が伸びる。
「それよりマデリーン、挨拶がまだだ」
 意図的に甘さを増した声で囁き、ランドルフがマデリーンの唇を奪う。傍から見ても丹念な、どう見ても挨拶とは違う種類のそのキスシーンを見ている事ができず、ケネスはふいと視線を逸らす。口の中に溜まる唾液が、やけに苦い。
 マデリーンが抵抗したのか、それともランドルフが自ら解放したのか、長い沈黙の後、マデリーンの艶めいた吐息が大きく耳に届いた。
「もう、お客様がいるっていうのに……」
「客がいる時はお帰りのキスをしてはならないと?」
「そういう問題じゃなくて……」
 気まずげな彼女の声に、ランドルフが低く笑う。
「困らせたのならすまない。それにしても、なぜケネスがここにいるんだ?」
 マデリーンを彼女の席に座らせてから、ランドルフも上座へと腰を下ろす。視線は妻に向けたままだが、彼の意識が自分へと向けられている事ははっきりと感じられる。
「仕方ないじゃない。あなたの分の夕食が突然余る事になってしまったんだもの。その分がもったいないから、誘ったんだけれど……聞いていなかったの?」
「いや、夕食の誘いを受けたとは聞いたが、誰からとまでは知らされてなくてね。けれど夕食だけにしてはやけにのんびりしてるんじゃないか?」
「まだ、そんなに遅い時間じゃないと思うよ。それに、ケネスが来るの遅かったし。僕ももっとケネスといたかったから、もう少しいてよってお願いしていたところなんだよ」
 リビングの入り口から届いた声に、テーブルに着いていた三人が揃って顔を上げる。どことなく不満げな顔をした少年は足早に自分の定位置へと戻り、不機嫌さも露わに勢いよく椅子に座った。
「父さんこそどうしたの? いつもなら、パーティの日は僕が寝る時間になっても帰ってこないのに」
「――顔を出す必要はあったが、最後までいる必要はなかったからね。主催者と知り合いに挨拶だけしてさっさと帰ってくる事にしたんだ。今夜の予定を伝え忘れていた事がすまなくもあったし」
「あら、私はそれも、いつもの事だと思ってたのだけれど?」
「これはこれは、一本取られたな」
 低く笑って妻の手を取り、その甲に唇を寄せる。驚いて目を瞠らせながらもマデリーンの表情は明るく、その瞳には夫に対する愛情が溢れている。そんな両親を見るアマデオの横顔も、実に幸せそうだ。
 そんな中でただ一人、ケネスだけが苦々しい疎外感を覚えていた。
「……どうも僕はお邪魔なようですから、やっぱりそろそろ帰ります」
「あ……ごめんなさい。すっかり置いてけぼりにしちゃってたわね」
 おずおずと声をかけると、はっとしてマデリーンが振り返る。どうやら彼女は夫に夢中でケネスの存在を一瞬忘れていたらしい。
 苦笑を漏らしながら立ち上がると、マデリーンも立ち上がる。けれどその手はランドルフに握られたままで、動くに動けず夫を振り返る。
「ランドルフ、私、ケネスをお見送りしたいんだけど……?」
「ああ、すまない」
 あっさりと返しながら、ランドルフは手を離す代わりに立ち上がった。そのまま空いている左腕を妻の腰に回して寄り添うと、ようやくケネスへと顔を向けた。
「では、行こうか」
 にっこりと笑ってはいるが、その目は「さっさと帰れ」とでも言わんばかりに射抜いてきている。あまりにあまりなその態度に、ケネスは気がつけば口走っていた。
「ところでランド、こんなに早く帰ってきて、彼女、怒ってませんでした?」
「ケネス」
 牽制するように、低い声が名を呼ぶ。これ以上はやめろと理性が叫ぶが、今のケネスには止める事ができなかった。
「わざわざ社長のために装っていたようなのに、こんな早く帰られては彼女の面目も丸潰れでしょう。ああ、それとも彼女に用事でもあったからこんなに早く帰ってきたとか?」
「――ケネス、僕、コート取ってくるね」
 微かに震える少年の硬い声が、一気に理性を呼び覚ます。
 自分が何をやってしまったのか。それは、青褪めたマデリーンの顔を見れば一目瞭然だった。
 重苦しい沈黙の中、深い息を吐いたランドルフがマデリーンの腰に回した腕に力を入れるのが見えた。
「……アリシアは俺に、会場入りの際のエスコート役を求めていただけだ。会場に入ったとたん、彼女は自分の知人の元へと挨拶しに行ったし、俺が早く帰る事は一番初めに伝えていた。だから何もお前が気を回す必要はない」
「そう、ですか」
 それはケネスに対するものではなく、明らかにマデリーンへと向けられた言葉だった。
 無意識に求めていたのは、ランドルフが無様に動揺するシーンだったというのに、こうも如才なく対応されては忌々しさが増すというものだ。とはいえ、今のケネスにとって最も苦いのは、夫の説明を耳にしても明るさを取り戻さないマデリーンの表情で。
 ぎこちなく言葉を返したところで、アマデオがコートを抱えて戻ってくる。受け取ったコートに袖を通し、足元の鞄を取り上げた。
「それでは……美味しい夕食、ありがとうございました。今夜はこれで失礼します」
「……ええ、また来てちょうだい」
 隠しきれない翳を残した笑みを浮かべ、マデリーンがランドルフから取り返した右手をケネスへと伸ばす。その手を軽く握り返し、廊下の方へとケネスは足を向ける。
「僕、お見送りする!」
 明るい声で宣言して、アマデオはケネスの手を引いて玄関へと先導する。その後ろから、ランドルフとマデリーンも着いてくるのが気配と足音でわかった。
「タクシーは呼ばなくていいのか?」
「いえ、メトロがありますから」
「そうか」
 背後からかけられた声に振り返らないまま言葉を返す。
 玄関までの廊下の短さがいつもは寂しかったというのに、今日に限ってはそれが嬉しい。
 ドアノブに手をかけてから、ほんの少し気合を入れて振り返る。
「では、僕はこれで失礼します。お休みなさい」
「またね、ケネス! 待ってるから!」
 アマデオの声に、硬くなっていた頬の筋肉が僅かに緩む。
「気をつけて帰ってね」
「明日また」
「……はい。それでは」
 軽く会釈してドアを開く。セントラルヒーティングである程度は温められているとはいえ、ホールの空気は家の中のそれよりもやはり冷たい。
 ひやりとしたそれに身を浸して重厚な扉を閉め、背後で鍵のかかる音を感じながら、青年は自責と自嘲の入り混じった息を吐き出した。