かぶ

真実の目覚める時 - 17

 大きなプラズマテレビの正面にある三人がけの大きなソファに並んで座り、息子の手を包み込む。どういう風に説明しようかとつかの間悩み、諦めたように息を吐くと、ありのままに心をさらけ出す事にした。
「現実から目を逸らしていたのはね、そうしていれば、表向きには幸せな生活ってものが続けられると思っていたからよ。どこにも何も問題がないのだと、そう思い込んでおけば、そうすれば私はともかく、あなたとお父さんは不満のない生活が送れると思っていたの。実際、今の状況を、あなたのお父さんは何も不満には思っていないでしょう?」
「そこなんだよね、僕がわからないのは。どうして父さんは母さんの事に気づかないの? それに、どうして二人とも、まるで知り合ったばかりの人みたいにしているの?」
 大人びた子供だとは思っていたけれど、アマデオがまさかここまで鋭く両親の関係を見抜いていたとは思っていなかった。本人同士にとってはほとんど暗黙の了解のような状態だったのに、当事者以外から見れば、やはり不自然に映っていたのだろうか。
「そんな風に、見えてたの?」
「気づいたのは最近だけど」
 戸惑い交じりの問いかけに、居心地が悪いような様子を見せながら、アマデオが遠まわしに肯定する。
 返された言葉につい疲れたような息を吐いてしまったのは、仕方がない事だと思いたい。
「ええと、……あのね、ロビンも言ってたけど、子供って自分の親の事、意外とよく見てるんだよ。だから、気にしないで」
 慰めるようにそんな事を言われても、今のマデリーンにはあまり嬉しくない。
「そうね。確かに、子供って親の事、意外とよく見てたりするわね……」
 どうしようもなく漏れてしまう溜息は、けれど苦笑交じりだった。
 こうなってはもう、無理に隠していても意味がない。
 正直なところ、こんな事を実の息子に――それもまだたった十歳の相手に――暴露するのはどうだろうとも思ったが、教会の懺悔室に行ったり、心理カウンセラーに通って当たり障りのない、つまるところ大した意味のないアドバイスを受けるくらいなら、たとえどんなに非常識でも、夫を除けば一番傍にいてくれる息子に全てを打ち明ける方がいい。
 何よりランドルフの幼い頃に生き写しのアマデオを前にしていると、ふとした瞬間、ランドルフを相手に話をしているような錯覚に陥る時がある。それならば――まだ、全てを打ち明ける日が来るかどうかはわからないけれど、今からの事は、その予行演習の変わりだと思えばいい。
 そんな風に無理やり自分を納得させて、マデリーンは開き直る事にした。
「前に言ったわね。私は結婚する前からランドルフを愛してたって」
「うん」
「でも、ランドルフは違った。あの人は私を愛していないのに、必要があったから私を選んだの。……そんな人に、愛情を全て向けるなんて、できると思う?」
「できないの?」
「したかったけど、怖くてできなかった。だって考えてもみて。普通なら、誰かと恋に落ちて、その誰かと愛し合って、その末に結婚するっていうのが正しい順序なのよ? なのに私たちの場合は、私だけがあの人に恋して、あの人を愛して、一方通行の片思いのまま結婚してしまった。夫に一生片思いをし続けるなんて、あまりにも苦しすぎるわ」
 寂しげに笑う母親を、少年は何も言わずじっと見つめる。
「あの人があまり誠実な恋人じゃないらしいっていう噂を大学時代にいろいろと聞いていたからよけいにね。馬鹿正直にあなたを愛していますと告げた後に浮気なんかされたら、私はそれこそまともじゃいられないと思ったの」
「昔の父さんって、そんなに酷かったの?」
「まあ、噂だから誇張されてるとは思うけれど、それでもあの人が頻繁にガールフレンドを変えていたのは事実だわ」
 気まずく問いかける息子に、マデリーンはあっさり頷く。
「だからね、プロポーズされて、それが便宜上のものだと告げられた時に決めたの。あの人への思いは一生隠し通して、愛されたいとも願わないようにしようって」
「ちゃんと愛してるって言ったら、父さんも愛してくれるかもしれないとは思わなかったの?」
「……愛してるって言って、俺は君を愛してないと返されるのが、私はどうしようもなく恐ろしいの」
 視線を伏せ、マデリーンは静かに続ける。
「出会った当初から憧れていて、恋をして、そして結婚した相手に今更失恋するなんて、絶対に耐えられない。そんな事になったら私、きっと心が壊れてしまうわ」
「母さん……」
 握られた手はそのままに、アマデオは身体を起こしてマデリーンの肩へと甘えるように頭を乗せる。ふわりと触れる柔らかな髪をそっと撫で、息子の頬へと唇を落とす。
「電話の事を言わないのもね、もしランドルフがそれを大した事じゃないと判断したら、それどころかそんな程度の事で騒ぎ立てるような妻ならいらないと思われたらどうしようって、そんな事ばかりが頭に浮かんでどうしても言えなかったの」
「そんな事――」
「ないと言い切れる? もし電話してくる女性が、ランドルフにとって本当に大切な人だったら? その時あの人は、どんな態度を取るかしら?」
 とっさに身を起こした息子を、マデリーンがじっと見つめる。自分と同じ色をした瞳が恐ろしいほどの哀しみに沈んでいる事に気づき、アマデオは母親がこれまで抱えてきた苦しみの深さを思い知らされた。
「……だけど僕、父さんがあんな事をする人に惹かれるとは思わない」
 そんな事は大して慰めにならないとは知りながらも、率直な思いを口にする。
「前に母さん言ったよね。僕と父さんはとてもよく似てるって。だから思うんだけど、僕ならそんな事をする人、好きにならないよ。たとえ好きになった相手でも、そんな卑怯な事する人だってわかったら、好きな気持ちはなくなると思う。だって、そんな人、信用できないもん。信用できない人を好きでいるなんて、無理でしょう?」 眉間に皺を寄せて考え込みながら、丁寧に一つ一つ言葉を紡ぐ息子の横顔に、夫の姿が重なって見える。
「同じ理由で、僕は父さんが母さんを裏切ってるとは思えない。ううん、思いたくないって言うのが本音だから本当のところはわからないけど、それでもあんな電話を掛けてくる人を傍に置こうなんて、父さんが考えるとは僕は思わない。だから電話してきてる人は、きっと父さんの恋人とかじゃないよ」
「だったらどうしてあんな電話をしてくるの!?」
 ヒステリックな声は、自分でも意図せず飛び出した。目の前にある夫そっくりな顔が驚いているけれど、一番驚いたのはその声を発したマデリーン自身だろう。
 自分自身の言葉に驚愕して口を押さえたきり動かない母親をじっと見つめながら、思慮深い声で、アマデオは言った。
「それは、僕にはわからない。けど……、その人たちはきっと、母さんがどんなに傷ついてても気にしてないと思う。むしろそれを喜んでるんじゃないかな。そうして……ロビンのママみたいに、母さんが父さんから離れるのを、待ってるのかもしれない」
 あまりにも的確な指摘に、マデリーンは笑い出しそうになる。けれど同時に今朝聞いたばかりの言葉が蘇ってきて、今度は心臓が冷たい手で握られたような感覚に陥った。
 表情に思考が表れたのだろう。心配そうな顔になったアマデオが、じっと母親の顔を見つめる。
「……母さん、どうかした?」
「何でも、ないわ。ただ、あなたの指摘が鋭すぎて驚いたの」
「それって、まさか……?」
 警戒するように抑えられた声へ、ぎこちなく首肯を返す。
「ええ、そのまさかよ。今朝、また電話があってね、その時言われたの。ランドルフが私と離婚したがっているって。だけど自分の子供を生んだ相手に離婚を切り出すのは忍びないと思っているから自分からは言い出せない。だから私からさっさと離婚を切り出してちょうだい。――そんなところかしら」
 さすがに当の息子に向かって、あなたの父親はあなたすら必要としていないらしい、などとはいえなかった。
 けれど電話の相手がそうも直接的な事を切り出してきたという事実に、十分すぎるほど衝撃を受けたらしい。目を見開いて息を呑み、しばらくの間、反応を示せずにいた。
「だから、だったんだ。母さんがあんなに……辛そうだったのは」
 ようやく絞り出せた声は、神経を灼き切りそうなほどの怒りに震えていた。生まれて初めてと言ってもいい程の激情に、アマデオの顔は蒼白で、サファイアの瞳だけが爛々と光っている。
「そこまで言われても、母さんはまだ何もしないつもりだったの?」
「……何も考えられなかったのよ。ショックが強すぎて……動く事さえできなくなってたの」
「なら、今は? 父さんに言うとか何かしようと思ってる?」
「それは……」
 ためらいを見せる母親に、少年は怒りを抑え込んだまま、短く問う。
「どうして?」
「さっきも言ったでしょう? もしも彼女の言葉を肯定されたらって思うと――考えるだけで恐ろしくて、声も出せなく、なっちゃう」
 言葉を実証するように、綴る言葉が途切れ途切れになる。
 あまりにも弱気が過ぎる母親の言葉に呪いの言葉を吐かずにいられたのは、ほとんど奇跡に近かった。いくら親がそういった言葉から子供を遠ざけようとしても、日常がそれを許さない。耳も鋭く頭もいいアマデオだから、それこそマデリーンが衝撃のあまり卒倒しそうな言葉を吐き散らしたい気分だったが、さすがに心痛で弱っている彼女をこれ以上苦しめたくなかった。
「――提案だけどさ、母さん、携帯電話買ったらどう? それなら電話を取る前に誰からかかってきたのかわかるから、安心でしょう? それで家の電話は取らないようにする。そしたらあの忌々しいいたずら電話には出ないで済むでしょう?」
「だけど、突然携帯電話を買ったりしても、あの人は不自然に思わないかしら?」
「それくらい、別にいいじゃない。理由なんて後から何とでも付ければいい。……お願いだから、もう少し自分を守る事に積極的になってよ」
「アマデオ……」
「この提案を呑んでくれないなら、僕は今晩にでも、父さんに洗いざらいぶちまけるよ」
「……私を脅迫するというの?」
 咎めるような視線を向けられ、僅かに心苦しくなる。だけどここで負けるわけにはいかない。ぐらぐら揺れる良心を意思の力で抑え込み、アマデオはきっぱりと返した。
「だってこれが、僕に思いつく精一杯で、譲れるぎりぎりなんだ。母さんが本当に少しでも自分で何とかしたいって思ってるなら、ここは僕に譲ってよ」
 脅迫と言われようが、卑怯だと思われようが、別に構わない。絶対に嫌だといわれているから今はそうしないけれど、本当にそれが必要だと思った時には、母の意志に反してでも、父に全てをぶちまけるつもりだ。
 子供であっても、人を大切に思う気持ちはある。大切な人を守りたいと願う心がある。
 強い意志を篭めて、少年はまっすぐに自分と同じ深い藍色の瞳を見つめる。
 ためらいや戸惑いがマデリーンの瞳の中に去来するのが見て取れた。けれど最後に一つ、諦めたような笑みと共に頷きが返された時、アマデオは年齢相応の少年らしい声を上げて、大好きな母親へと勢いよく抱きついた。