かぶ

真実の目覚める時 - 23

 ランドルフが帰宅したのは、十時を少し過ぎた頃だった。
 アマデオを寝かしつけて廊下へと出たところで、玄関から入ってきた夫とばったり出くわしたマデリーンは、思わず小さく悲鳴を上げた。
「酷いな。俺は押し込み強盗か?」
「ごめんなさい、そういうつもりじゃなくて……」
「わかってる。タイミングが悪かったって話だろう?」
 コートを脱ぎながら鼻先で笑うランドルフの傍へと急ぎ、マデリーンは厚い防寒具を受け取る。どうやら外は冷え込みが更に厳しくなっているらしく、クローゼットにかけたコートだけでなく、その様子をじっと見つめているランドルフの身体からも冷気が伝わってきた。
「外は寒かったみたいね。コートもあなたも冷え切ってるわ」
「雪は降ってないが、昼晴れていたせいかな。夕方になってから一気に冷え込んだらしい。下でドアマンのジョージと少し話したんだが、それだけで凍えてしまったよ」
「そう……」
 言葉を返しかけたところで唇を塞がれる。冷たい唇から冷たい吐息が漏れ、マデリーンはそっと身体を震わせた。
「ああ、すまない。自分がどんなに冷えてるのか、つい失念していたよ」
「気にしないで。これくらい大丈夫だから」
 気遣う夫に微笑みかけ、言葉を裏付けるように冷え切った夫の身体を抱きしめる。
「まだ言ってなかったわね。おかえりなさい」
「ただいま」
 ためらいがちにハグを返し、ランドルフはマデリーンをリビングへといざなった。しっとりとした髪から、シャワーを浴びたらしい事はわかった。けれど起きて待っていてくれと彼が言ったからだろう、マデリーンはシルクのラウンドネックセーターに、くつろいだ雰囲気のストレッチパンツといういでたちだった。どちらもやんわりと彼女の体型を隠してはいるが、女性らしいふくらみを持つ部分にはぴたりと沿っていて、身体の深いところでじわりと熱が熾りつつある事に、ランドルフは気づいていた。
「何か食べます? それともお酒がいいかしら」
「そうだな。腹は減ってないが、軽くつまめるものがあればほしい。もちろん酒もね」
「用意するわ。その間に、あなたは着替えてらして」
「ああ」
 あっさり頷いたランドルフは、リビングを後にするとマデリーンと共用している寝室に入っていった。いつもならまず、書斎に鞄を置いてメールやニュースをチェックするのだが、今夜はそのルーチーンを辿るつもりはなかった。クローゼットを開き、棚の中から適当に服を選ぶ。どうせ出かけるわけでもないし、見るのはマデリーンだけなのだ。格好をつける必要はないはずだ。そうは思うのだけれど、無意識に以前彼女が似合うと言ってくれたセーターを手にしている自分に気づき、そっと苦笑した。
 着替えて戻ったリビングでは、ローテーブルに酒とつまみがすでに用意されていた。
 けれど肝心要である妻の姿がない事に戸惑い、ランドルフは視線を巡らせる。果たして彼女は、テラスに続くガラス扉の傍らに立ち、わずかに開いたカーテンの隙間から広がる夜景を見つめていた。その背中がどことなく寂しげに見えて、抱きしめたい衝動に駆られる。だけどぎりぎりで堪えて、ランドルフはその場からそっと言葉をかけた。
「そんなところで寒くないのか?」
「少し。でも、これくらいの寒さなら好きだわ」
 振り返った彼女は、ふわりと微笑んで言った。その笑顔に、ふと既視感を覚える。まるで何かを覚悟しようとしているような――ああ、そうだ。これは彼女が、ランドルフのプロポーズに答えた時に見せたと同じ表情なのだ。
 もしも昨夜アマデオが言った言葉が真実だったとすれば。あの時、イエスと答えながら浮かべた笑顔は、眩しく輝く将来を諦めた笑顔だった事になる。だとしたら今度は、一体何を考えているのだろうか。彼女は何を、諦めるつもりなんだろうか。
 脳裏に浮かんだ『諦める』という言葉に、胃の中で無数の蝶が羽ばたいているようなざわつきを覚える。
「そんなところにいては話もできない。こちらにおいで」
 手を差し伸べてじっと待つ。驚いたように、マデリーンは自分に向けて伸ばされた手と夫の顔を見比べ、迷いを見せながらゆっくりとした足取りでやってくる。けれどあとほんの少し指先を伸ばせば触れられる距離で立ち止まってしまう。
「マディ」
 囁いて指先で彼女の肘の辺りをそっと擽る。それが引き金となったのだろう、引き寄せられるようにふわりと身を任せてきた妻をしっかり抱きしめ、ランドルフは窓際で彼女を見つけて以来、初めてまともに呼吸ができたような気がしていた。
 抱きしめる腕の力を少しだけ緩め、滑らかな頬に触れる。寝室以外でこんな風に触れる事が珍しいからだろう。どう反応すればいいのかと困ったような視線を向けてくる妻の唇を、ランドルフはそっと啄ばんだ。
「あなた……?」
「うん?」
「……お酒はまだ、飲んでないわよね?」
「ああ、まだだ」
 マデリーンの戸惑いがやけにおかしく思えて、ランドルフは喉の奥で笑い声を立てる。怪訝な顔の妻をソファへと促し、ほとんど抱きしめたままの状態で腰を下ろした。このまま酒を飲まずに話すのもいいかもしれない。そう思いかけるが、テーブルに用意されているグラスが一つではない事に気づいて、彼は妻の顔を覗きこんだ。
「君も飲むのかい?」
「あなたなら飲む気もしないぐらい薄めて、だけれどね」
 からかうように返しながら手を伸ばし、マデリーンがテーブルの上に置かれているウィスキーの瓶を手に取る。それぞれのグラスを氷で満たしてから、ふと思い出したように振り返った。
「ロックにします? それとも水割りで?」
「今日はあまり酔いたくないから、少し薄めで頼む」
「どうせ、強いままで飲んでもほとんど酔わないのに」
 夫の言葉にくすくすと笑いながらも、グラスの半ばまでウィスキーを注ぐ。その上からミネラルウォーターを足して軽くステアする。その手つきは新婚当初に比べるとぐんと慣れたもので、ワインのコルクは上手く抜けるのに、水割りの作り方を知らない彼女がとても可愛らしく思えた。
 先ほどの言葉どおり、ほとんど水だろうといいたくなるような薄い水割りを自分用に作って、マデリーンは両方のグラスを手にランドルフの隣に戻る。差し出されたグラスを受け取り、微かに持ち上げる。乾杯の合図と知り、マデリーンも素直に乾杯に同調する素振りを見せる。ただグラスをぶつけるだけでは芸がないと思い、ほんの少し考えてから短く言った。
「二人に」
「……二人に」
 カツン、と硬質な音が部屋に響く。そのままくいと一口煽ると、豊かに薫るアルコールが穏やかに喉を滑り落ちる。
 このままグラスを重ねたいような気持ちになるが、今夜の目的はそれだけじゃない。マデリーンが唇を離すのを待ち、ランドルフは二人のグラスをテーブルへと酒を戻した。
「もう、飲まないの?」
「飲むのは二の次だ。言っていただろう? 話があると」
「ええ」
 その言葉に、マデリーンの背筋がぴんと伸びる。息を潜めるようにして次の言葉を待つ妻を見て、ランドルフは苦笑を漏らした。
「そんなに緊張しないでくれ。別に重大な発表があるとか、そういうわけじゃないんだ」
「そう、なの?」
「ああ」
 きっぱりと頷いて、ランドルフは妻の身体へと腕を回した。
「君も知っているだろうが、昨日、ジュニアといろいろ話したんだ。いや、主に話していたのはあいつなんだが……それで少し、考えてしまってね」
「携帯電話の事で?」
「いや、それについては納得したし、すでに手に入れてもいる。後で渡すよ」
「もう?」
 目をぱちくりとさせて驚きの声を上げる妻へと人の悪い笑みを見せる。
「俺は、こうと決めたら行動は早いんだ。ちょうどいい機種もあったし、今日の昼に二人分の手続きを終えてきた」
「二人分って、まさか……」
 咎めるように見つめる妻に、そうじゃないと首を振る。
「ジュニアにじゃない。君と俺のだ。仕事用じゃなく、プライベート用の携帯電話を持つのもいいかと思ってね」
「――そう」
「これまでは仕事以外で携帯電話を持つなんて事は考えられなかったんだが、君が持つなら俺も持とうかと考えたんだ。これは本当に偶然なんだが、俺の気に入る色とデザインのものがあってね。本来なら君の好みを確かめた上で買うべきなんだろうが、俺から贈りたかったから、俺の好みだけで選んでしまった。気に入ってもらえるといいんだが……」
 首の後ろを指先で引っかきながらの言葉に、マデリーンは小さく笑いを零す。
「まだ見てもないのに、気に入るも何もないじゃない」
「まあね。だけど、それは後だ。先に本題に入りたい」
「はい」
 答えながら、マデリーンは内心で首を傾げる。
 ランドルフの話というのは携帯電話の事だろうと思っていたのだ。そうでないというのなら、一体何なのだろう? 重大発表ではないと言っていたから、最悪の予想は外れているだろう。けれどだとすれば、彼は本当に何を話そうとしているのかしら。
「さっきも言ったように、昨日、ジュニアに色々言われたんだ。話の趣旨は主に、俺は君の事を全然理解していない、というものだった」
「あの子がそんな事を……?」
 思いがけない言葉に、胃がきゅっと絞られる。息子がそんな事を言っていただなんて、これっぽっちも考えていなかった。あの子は、アマデオは、父親にそう告げる事で何がどう動くと考えたのか。それによってランドルフが何を考えると思ったのか。
 そして、彼は一体、どのような結論を導き出したのか。
 自然と膝の上の手に力が入り、無意識に強く握り締めていた。
 その手にあたたかな手が重なる。すぐ目の前に気遣うような夫の瞳を見つけ、マデリーンはそっと息を呑んだ。
「マデリーン、力を抜いてくれ。そんなに緊張されては、話すに話せなくなる」
「ごめんなさい」
「謝る必要もない――どうやら俺は、話の切り出し方を間違えたようだな」
 嘆息する夫へと慌てて頭を振り、そんな事はないのだと伝える。言いたい事が正しく伝わったのだろう。ランドルフは表情を緩めると、言葉を続けた。
「今から言うのは、ジュニアが俺に言った言葉だ。だが、もしあの子が考え違いをしていたとしても怒らないでやってくれ。君のために色々考えた結果出てきた言葉なんだ。だからどうか、この事でジュニアを怒らないと約束してくれるか?」
「ええ、約束するわ」
 息子を想っての言葉に逆らうつもりなどない。素直に頷くと、夫は少し安堵したように息を吐いた。
「なら、話そうか」
 言って、ランドルフは一度硬く目を閉ざした。考えをまとめるように数秒穏やかな深い呼吸を繰り返す。そうして目を開くと、まっすぐに妻を見つめた。