かぶ

真実の目覚める時 - 24

「あの子はどうも、君が俺と自分のために家に縛り付けられているのだと思っているんだ。そうして君がそうなったのは、俺がそう仕向けたからだと――ああ、反論は最後まで聞いてからにしてくれ」
 とっさに口を開きかけたマデリーンを制し、言葉を続ける。
「どうもジュニアは、俺たちの結婚のきっかけというか、俺たちが結婚する事になった経緯に対して憤りを感じているらしい。本当なら君には家庭に縛られる以外の道があったはずなのに、と。だけど周囲がそれを君に許さず、更には俺が君に妻として家庭を守る事を強制したのだと。君は周りの期待に応えるためだけに俺と結婚した。それによって、本来なら手に入れられたはずの輝かしい未来を捨てた。だから今も家庭の外に目を向けず、家庭以外で楽しみを見つけようともしない。なぜなら君は家庭に関する以外のすべてを諦めてしまったのだから」
 感情を交えず淡々と語られた言葉を、マデリーンはただただ呆然と受け止めるしかできなかった。
 そんな風に考えた事はなかった。そんな事はないと、それはアマデオのただの思い込みなのだと言ってあげたかった。
 けれどなぜか、そうする事ができなかった。
「そして俺は、その状況を当然のものとして受け入れていた。君は家にいて、ジュニアの面倒を見て、俺の身の回りの世話をする。こんな現状が本当に君の望んだものなのか、確認しようともしなかった。あの子に言われるまで、本当にこれっぽっちも疑問に思わなかったんだ」
「ランドルフ……」
「俺は、正しい事をしたのだと思っていた。二人とも周囲から結婚しろとせっつかれていたし、君は妹のヘスターが結婚した事で、ノイローゼになりかねないくらい色々と言われていた。だから俺たち二人が結婚すれば、俺も君もあの苦境から逃れる事ができる。ただそれしか考えてなかった。実際婚約を発表した時、君のご家族は諸手を挙げて賛成したし、あれだけ否定的だった君の大学生活について苦言を呈する事もなくなった。だから俺は、君にとって最適な道を示したのだと、本気でそう思っていたんだ」
 苦く息を吐く夫の顔には暗い翳が落ちている。こんな事を戯れで口にする人ではないと知っていたけれど、こんなにも深く自分の事を考えてくれているとも思っていなかった。
「だから俺の中で、俺たちの結婚生活は完璧なものだった。そりゃあ少しばかりの失敗はあったけれど、君はいつだって完璧で、俺の妻としても、ジュニアの母としても、一般に求められる基準をはるかに超える働きをしてくれていた。まあ、企業人の妻としては、パーティなどに参加したがらないというのはマイナスポイントだが、君の支えは実に的確だったから、俺が君に対して不満に思う事なんて本当になかったんだ。何しろ君が俺に逆らったのは、パーティの件を除けば記憶を辿るのも困難なほどになかったのだからね」
 大げさなまでに肩を竦め、ランドルフは大きく息を吐く。そうして肩を落とすと、力なく続けた。
「だが、君はどうだったんだろう。君にとって俺は、どんな夫なんだ? 俺と結婚した事で、君は何を失った? 強く意見を口にする事はほとんどなかったけれど、本当は抱えていたんじゃないのか? 君は――俺と結婚して、少しでも幸せだと思ってくれているのか?」


 やけに長く感じられるほどの間、マデリーンは苦しげな色に染まった夫の瞳を呆然と見返していた。ようやく思考が現実に追いつき、告げられた言葉の意味を理解してはじめて混乱が襲ってきた。
 彼は何を――彼は彼女から何を、どんな言葉を引き出そうとしているのだろう?
 自分は彼の言動を肯定すればいいのだろうか。それとも彼は否定されたがっている? もしくはどちらでもなく、ただ中立の立場を取るべきなのか。
 そもそもなぜこんな事を言い出したのだろう? アマデオがほんの少し何かを言ったからって、別に彼が行動を起こす必要はないのに。ただあの忌まわしい電話から逃れる事ができるなら、マデリーンはそれで十分だったのに。
「……わから、ないわ」
 ぐるぐると回り続ける思考がそのまま声になった。言葉が唇から零れ落ちると同時に、マデリーンの視線も膝の上の手へと落ちる。彼女の手を包み込む夫の手は大きく、少しかさついているけどとてもあたたかい。こんなふれあいなど、誰とでもあり得る。だけど相手がランドルフだと、どうしてこんなにも心が落ち着くのだろう?
 落ちた沈黙は短くして破られた。穏やかなランドルフの声が優しくマデリーンを促す。
「わからないって、何が?」
「あなたが――どんな答えを、求めているのか」
 自分でも驚くほどすんなりと、素直な気持ちが言葉になった。ふ、と、笑いを漏らす気配がする。重ねられた手がそっと動き、あやすような動きで手の甲を撫でられた。
「俺の意向なんか、気にしないでいいんだ。言いたい事があるなら、それをぶつけてくれ」
「そんな、わたし……言いたい事なんて、何も、ないのに……」
「マデリーン……」
 苦しげに俯いたまま視線を上げようとしない妻の姿に、ランドルフは心底から己を呪った。どうして知ろうとしなかった。どうして目を向けようとしなかった。かつての彼女は、こんなじゃなかったのに。変わってしまった事に、変えてしまったことに、なぜ気づかなかったのか。
「……すまない。俺のせいだな」
「ランドルフ?」
 唐突な謝罪に、マデリーンがはっとして視線を上げる。そこには先ほどより更に濃い苦悩を浮かべる夫の瞳があった。
「俺が、君をそうしたんだな。俺や周囲の反応を考えてから自分の行動を決めるようにと、俺が――俺たちが、そう仕向けたんだ」
「あなた、何を言って……」
「昔の君は違っていたはずだ。出会った頃の君は、家族や周囲が何を言おうと、自分が正しいと持った道を貫こうとしていた。覚えているか? あれはちょうど、君が大学に行く、行かないで一番揉めていた時期だった」
 苦しげだった顔にほんのりと笑みが点る。それだけでいつものランドルフが戻ってきたような気がして、マデリーンは安堵を覚えながら頷いた。
「ええ、もちろん覚えているわ。あの頃は……本当に大変だったんだもの。大学受験のための勉強をしながら両親を説得しなければならなかったし、何より隙あらば花婿候補とお見合いさせようとする母や叔母たちに本気で辟易していたから」
「もしかして、ヘスターの結婚が決まった時よりも大変だったんじゃないのか?」
「さあ、どうかしら……。ヘスターの時は、確かにノイローゼになりそうだったわ。だけどあの時はむしろ、本気で家出をしようかって方向に思い詰めていたの。それもあって、いくつかの奨学金制度についてとても詳しく調べていたわ。――今だから言うけれど、実は三つほどの奨学金に応募もしていたの」
「それは、初耳だ」
 これまで知らされていなかった事実を知って、ランドルフが目を瞠る。こんな顔をする夫を見るのは珍しくて、マデリーンは笑い出したくなった。
「だって、その結果が出るより先に、あなたが両親を説得してくれたんだもの。渋々とはいえ、学費や生活費を出してもらえるようになったから、奨学金が不要になったし、他にももっと切実な人がいるだろうからって、辞退したわ。……だけどあんまりにも渋々認めたっていうのが丸わかりだったから、一度だけさりげなく奨学金の事を話してみたのだけれど、それはそれは嫌な顔をされてしまって。あの人たちにとって自分の娘が奨学金を受けるっていうのは、まるで誰かからの施しを受けさせているように思えたらしいわ」
 馬鹿馬鹿しい限りだけど。小さく呟いたマデリーンに、ランドルフは全面的に賛成だった。けれど今はそれについて話し合う時ではない。喉元まで出かかった言葉を押し留め、更に先を促した。
「だから君は、奨学金の申請を取り下げて、何もなかった事にした?」
「そのとおりよ」
「なるほどね……だけどそこまでして大学に行きたがっていたからには、やはりその先に何か、希望があったんだろうね」
 会話の流れはあまりにも自然すぎて、マデリーンは危うく首を縦に振ってしまうところだった。
 まったく、有能なビジネスマンなんて、夫に持つものではない。
 内心の動揺をなんとか包み隠し、何もなかったような素振りで頭を横に振った。
「さあ、どうだったかしら」
「マデリーン、奨学金の事を白状したんだ。この際出し、残りもすべて、話してしまったらどうだ?」
「話したところで何も変わらないわ。過去は過去で、誰にもそれを変える事はできないのよ」
「過去は変えられないが、未来なら変えられるかもしれない」
「そう、ね。だけど、どんな風に変わるというの? あなたはどんな風に変えたいの?」
 ここに来て、マデリーンの中で渦巻いていた困惑や戸惑いは、少しずつ苛立ちへと、その性質を変えはじめた。
 ランドルフが生きているビジネスの世界では、自分の手の内や本当の望みを明らかにしないまま、相手の腹を探り、少しでも多くの情報を引き出すのが常なのかもしれない。だけどそれはランドルフの世界であって、マデリーンの世界ではない。何より今は、ビジネスの談合をしているのではなく、夫婦間での会話の時間のはずだ。――それともやはり、ビジネスライクな取引が目的だったのだろうか。
「それは俺にもわからない。だけどもし、君に希望があるのなら、俺はそれにできるだけ沿いたいと思っている」
 マデリーンの感情の変化を敏感に感じ取ったのだろう。ランドルフは慎重に言葉を紡ぐ。しかしそれは、彼女が望んでいたような答えではなかった。
「だから、どうして? なぜ今になって、そんな事を言い出すの?」
「……わからないのか?」
「わからないから訊いているの。さあ、答えてちょうだい、ランドルフ」
 毅然とした態度でまっすぐに視線を合わせてくる妻のいつにない鋭い語調に、強い視線に、ランドルフは自然と口元が笑みをかたどるのを感じる。
 そうだ、これだ。これこそがマデリーンだ。ずっと忘れていた、忘れられていた、本当のマデリーンだ。
 不意に湧き上がってきた強い感情をぎりぎりで堪え、笑みを真面目な表情の下に隠す。
「今更と言われても、確かに仕方がないと思う。だけどマデリーン、俺は君を取り戻したいんだ」
「取り戻すも何も……私はいつでもここにいるわ」
「君の身体は、ね。だけど君の心は? 以前は――俺が君にプロポーズするまでは、君の心はここに――」
 僅かに言葉を途切れさせ、妻の心臓の上に手を当てる。
「――この場所に、確かにあった。だけど今はない。まだあるのかもしれないけれど、俺には見えない。俺のプロポーズを受けた時から、君がどこかに隠してしまった。――ああ、マデリーン。駄目だ。否定したところで、それは言葉の無駄遣いにしかならない」
 反論しかけた妻をすばやく遮り、ランドルフは静かに続けた。
「昨日からずっと、考えて、考えて、考え続けて、それでようやく認めざるをえなくなった。君が変わってしまったのは、やっぱり俺のせいなんだと。俺が君に、意に染まない結婚を、強要したからだと」
 さすがにこの言葉には黙っていられなかった。今度こそ強く頭を振り、マデリーンはきっぱりと自分の意思を口にする。
「それはちがうわ。私は無理やりあなたと結婚させられたわけじゃない」
「だったらどうして、君は心を隠すようになった? 本当の自分を閉じ込めるようになった? ――ほら、答えられない」
 思わず黙り込んだマデリーンをじっと見つめて、ランドルフは痛ましげに息を吐く。
「今からでも遅くないのなら、もしもそれが可能なのなら、俺は取り戻したいんだ。本来の君を、俺の手の中に」