かぶ

真実の目覚める時 - 25

「それは……どうして?」
「……君はもしかして、存外鈍いのか?」
 震える声で問いかけると、ランドルフはこれ以上にないほど渋い顔になった。
 返された言葉の意味さえ上手く捉えられず、マデリーンはじっと夫の言葉を待った。戸惑いがブラウンの瞳の中でゆれ、逡巡と葛藤が男性的な顔に浮かびあがる。最後に諦めとも決意ともつかない息を吐いて、ランドルフは伏せかけた視線を妻へと戻し、穏やかな笑みさえ浮かべて告げた。
「君を妻にしたのは、俺が君を妻として望んでいたからだ。君に結婚を申し込んだ時もその後も、俺はいくつもの言い訳や理由を口にしていた。だけど俺は……ああ、そうだ。初めて少女の君と出会った頃から、君を妻にしたいと思っていたんだ」
 きっとそんな言葉などこれっぽっちも予想していなかったのだろう。マデリーンの目が限界まで開かれる。その頬にそっと指先で触れ、ランドルフは続ける。
「あの頃、君と出会ったばかりの頃の俺は、それを認めようとしなかった。俺はまだ学生だったし、青春ってやつを謳歌していたかったんだ。それに君は、大学に行くために並ならぬ努力をしていた。教師たちでさえ渋い顔をしていた大学進学のために、俺が父に連れられて君の家を訪れるたび、君は家族の誰かしらと喧々諤々の議論をしていた。そんな最中に、いずれ君を俺の妻にほしいなんて――いや、そうでなくても、俺が君にそういう関心を持っているのだと見せた時点で、賭けてもいい、俺たちはその次の週には結婚させられていた」
「それは……そうね、正しいと思うわ」
「思う、じゃなくて本当に、だ。何しろ俺は、まだ学生の身だったってのに、時にそれとなく、時に直接的に、君をどう思うかと、繰り返し君のご両親や親族から問われていたんだ」
「……まったく、あの人たちときたら……」
 衝撃が抜け切らないのだろう。声にも言葉にも力がない。どうにも反応の鈍いそっと妻の肩を抱き寄せ、その身体の柔らかさと芳しさに心が満たされるのを感じながら更に言葉を紡ぐ。
「君にコロンビアに来るよう勧めたのは、同じ大学にいれば君と一緒に過ごす時間が持てるかもしれないと思ったからだ。ご両親には、君に悪い虫がつかないように見張って何かと世話をするから、なんて言って説得したが、実は誰よりも俺が君を狙っていたんだ」
 これはさすがに聞き捨てならなかった。ぐいと夫の胸を押して身体を離す。そうして呆れ返っている内心をこれっぽっちも隠さずに、マデリーンは鋭く言った。
「ランドルフ、あなた、私がそれを信じると思ってるの?」
「当時の素行を振り返る限り、そう簡単に信じてもらえるとは思ってないよ」
「そうじゃなくて……」
 何かを言いかけて逡巡し、それから諦めたように息を吐く。
「そうね、確かにあなたにはたくさんのガールフレンドがいたわ。あなたの行くところには女の子たちが群れを成していたし、あなたとデートしたがっている子達があなたの後ろに延々と列を作っていたもの。だけどそうじゃなくて――いえ、それもあるけれど、だけど、そう。あなたは私を、完全に子供か妹みたいに扱っていたわ」
「ああ、それは当然だよ。いや、もしそれで君を傷つけていたのなら謝るよ。だが、そんな風にして自制しなければ、俺たちは本当に学生結婚しなければならない羽目になっていた」
 そうなれば俺は喜んで君を妻にしていたけれど。続けられた言葉に不穏なものを感じる。
「それは、その――つまり、仮に私たちが当時恋愛関係を結んでいたとして、の話だけれど――それが両家の家族に知られて、って理由で、よね?」
 面白いくらいうろたえる妻に、ランドルフはわざとらしい笑みを浮かべる。意識して低めた声で、髪に隠れた小さな耳へと囁いた。
「いや、もっと切羽詰った理由でだ。はっきりと言った方がいいかい?」
「――いいえ、いいわ。結構よ。その手の言葉は、アマデオの口から聞いた一度でもう十分!」
 悲鳴じみた声で切りつけるマデリーンに、彼はおや、と片眉を跳ね上げる。
「ジュニアがそんな事を?」
「ええ、そうよ。あの子が私たちの結婚に疑問を抱いていたって事は知っているでしょう? その時に――つまり私に聞いてきた時にね、私たちが結婚したのは、それが原因だったんじゃないかって……ああもう、私ったら、どうしてこんな事を話しているのかしら」
 完全に頭を抱えてしまった妻の背中を宥めるように撫でる。
「すまない。君が、とても先進的な考えを持ちながら、同時に古き良き貞操観念も持ち合わせてる事を忘れていたよ。だけどマデリーン、今言った事は、すべて本当の事だ。あの頃に俺が自分の感情と向かい合って覚悟さえしていれば、俺は間違いなく君を恋人にしていたし、君がどんなに頑なだったとしても、何とかして君を手に入れる術を必ず見つけ出していた」
 うっとりと甘く囁きかければ、マデリーンは深い息を吐き出してランドルフへと身体をもたせかける。珍しく甘えてくる妻を抱きしめ、柔らかな髪に頬を摺り寄せる。
「なんだか変な気分だわ。だってあなたってばまるで……」
「まるで?」
「……いえ、いいの。何でもないから気にしないで」
 口にしかけた言葉に衝撃を受け、彼女ははっと息を呑むと夫から離れた。その変わり身の早さに寂寥感と喪失感を覚えながら、ランドルフは妻が呑み込んだ言葉を追い求める。
「いいって、何がいいんだ?」
「だから、あなたが私を、便宜上の理由だけで妻にしたわけじゃないってわかったって事よ」
 戸惑いを隠すような鋭さに目を細め、後から詳しく訊きだすべき項目として、記憶の中に注釈を書き留める。
「ふむ、それはよかった。これで一歩前進、というところかな。ならばそろそろ本題に戻ってもいいだろうか?」
 本題、という言葉の意味が一瞬わからなかった。うっかりきょとんと夫を見上げ、穏やかながらも鋭い茶色の瞳を数秒見つめて、ようやく思い出した。
「――ああ、そうね。そうだったわ。ごめんなさい。あんまりにも予想外の展開が続きすぎて、すっかり忘れていたわ」
「本当に、君は酷いな」
「酷いのはあなただわ。おかげですっかり混乱して……ああもう、どこから考えはじめればいいのか、それすらわからなくなってしまったじゃない」
 互いに口では文句を言いながらも、浮かんでいる表情は両者ともどこか柔らかい。
「だったら何も考えなくていい。俺が質問していくから、君はそれに答えてくれ。ただし正直に、心のままに、だ」
「私に黙秘権は認められるのかしら?」
「個人的には認めたくないが、どうしてもと君が言うのなら認めざるをえないかもしれないな」
「あら、私は、『どうしても』認めてもらいたいわ」
 挑戦するような目で見つめてくるマデリーンに、ランドルフは小気味よく笑って頷く。
「なら仕方がないな。認めよう。他に何か条件はあるか?」
「そうね……」
 呟いて、深く思考しはじめた横顔をじっと見つめる。
 そっと伏せられた目を縁取る長い睫。優美な曲線を描く頬。ふわりと顔を覆う絹糸のような髪。昔は溌剌として意志の強さを秘めていた彼女は、今では歳を重ねた落ち着きと深遠さを兼ね備えている。
 若かった頃は、彼女が隣にいるだけで触れたくて仕方がなかった。まるで兄のように振舞いながら、肩に回した腕に力が入り過ぎないように、引き寄せすぎないようにとするそれだけで必死だった。近づき過ぎてしまったら、抱きしめてしまったら、触れてしまったら、引き返せなくなると知っていたから。二度と、離せなくなるとわかっていたから。
 だけど今は。今は何も恐れなくていい。望めば触れられるのだ。求めれば抱きしめる事ができる。彼女はそれを厭ってはいないのだ。だから後は手に入れればいい。ずっと逃し続けていたものを、掴み取るだけだ。万が一、それができないのならば――
 膨れ上がったどす黒い感情をぎりぎりで握り潰す。
「……マデリーン、他に何か、あるのかい?」
「いいえ、何も――あ、待って、一つあったわ」
「それは?」
 彼女は一体どんな事を言い出すつもりなのだろうか。怖気づきそうになる自分を抑えて平坦に問う。ポーカーフェースは成功したらしく、挑むような視線を向けるマデリーンの顔に不審な様子はない。
「あなたの質問に私が一つ答えるたびに、あなたも私の質問に答えてちょうだい」
「君の質問に?」
「ええ。もちろん黙秘権は認めるわ。ただし、回答は誠実に、真実のみ述べてくれなきゃだめよ」
 まったく、こんな事ならこれまでのように一方的な感情で満足しておけばよかったのかもしれない。はじめた事はきちんと終わらせるべきだ。だけど今はやっぱりなかった事にしようと言って打ち切りたいような気がする。
 ざわつく心を少しでも宥めようと、意識して深く呼吸する。
「いいだろう。確かに一方的にあれこれ訊くのは不公平だからね」
「わかってもらえて嬉しいわ。私からの条件はこれだけよ。さあ、はじめて」
 そっけない言葉に、彼女にとってこれはもしかしてあまり意味を持たない時間なのだろうかと考える。しかし思わず落とした視線の先で、真っ白になるほど強く握られている拳が震えている事に気づき、そうじゃないのだと知った。
 もしかしたら、希望はあるのかもしれない。
 落ち込みかけた気分がたったこれだけで一気に浮上する。まったく、なんて単純な男なんだろう。胸中で呆れたように呟きながら、ランドルフははじめの質問をどうしようかと考える。
「あなた? どうしたの?」
「いや、なんでもない。ええと、最初の質問だったね」
 小さく咳払いをして姿勢を正す。いくつもの質問を想定していたはずなのに、いざそれらを問いかけるとなるととっさに出てこない。交渉事の席ではこんな事はありえないのに、やはり相手がマデリーンでは勝手が違う。テーブルの上から薄まりつつある酒を取り上げ、口の中を湿らせた。
「……君は、俺との結婚が決まっていなければ、大学を卒業した後はどうするつもりだったんだ?」
「あら、そこから? 何を訊かれるのかと身構えていたけれど、本当にはじめに戻ったわね」
 くすくすと笑う青い瞳がきらりと光る。
「そういえば私、あなたには進路相談した事なかったっけ」
「残念ながら。俺としては、いつ君がその話題を持ち出すのだろうかと、君がソフォモア(二回生)にあがった頃からずっと楽しみにしていたんだけれどね」
「そうだったの? 私、まったく気づいてなかったわ。それにあの頃ってあなた、一年でグラデュエイト(大学院)を終わらせるんだなんて意気込んで、苛烈極まりないスケジュールをこなしていたじゃない。だから私の些細な問題で邪魔したくなかったの」
「進路相談は些細な問題じゃないと思うし、君には俺に対して、気を遣ってなんかほしくなかったね」
「ごめんなさい」
 素直に謝罪の言葉が唇から滑り出す。しゅんと肩を下げたマデリーンを見て気を良くしたのか、ランドルフはしかめていた顔を僅かに緩めた。
「いや、それこそ今更の話だ。だが、君の専攻が地球環境学だと人伝に知った時は、何を考えてそんなものをと思ったよ。それもあって余計に想像が付かないんだ。君が卒業後に、何をしたいと考えていたのか……」
 改めて環境問題に関する企業や活動について、言葉を繰りながら頭の中でざっと思い返す。その中で一つ、際立って特殊なものがある事を思い出した。まさかそれはないだろうと内心で否定しながらも、念のために確認する事にする。