かぶ

真実の目覚める時 - 27

 苦々しく息を吐くその横顔には、心底からうんざりした色がある。
 それでは彼は、よく写真で見かける美しい女性との一時を楽しんではいないというの? それに、エスコートしたい相手というのは――いいえ、まさかそんなはず、あるわけない。彼は「エスコートすべき相手」と言おうとして間違えただけなのよ。ええ、きっとそうだわ。
 再び混乱が頭をもたげるが、マデリーンは無理やりそう結論づける。期待なんて、してもどうせ裏切られるのだから。
「それにしても、君はすっかり忘れているようだな。あの手の写真がタブロイドや雑誌を飾り始めた当初、俺は繰り返し君に訊ねた記憶があるんだ。あんなものを見るのは気分が悪いだろうから、何らかの手を打った方がいいんじゃないか、とね。だが君は、まったく気にしていないと言ったんだ。自分はあのような低俗な記事は読まないし、見たところでなんとも思わないと。そんな答えを毎度のように返されたものだから、自棄も手伝って、俺は彼らを放置するようになった」
 自嘲と諦めを声に滲ませる夫に戸惑いが募る。それは罪悪感を伴っておもりのように圧し掛かり、とうとう耐え切れなくなったマデリーンは、切り付けるように口を開いた。
「だってあなた、あの頃から十分すぎるほど忙しかったじゃない! そこで私がああいったものを何とかして欲しいなんて言っていたら、きっともっと忙しくなっていたわ」
「だから? だから何も言わなかったと?」
「そうよ」
「マデリーン……君はとても聡明なはずなのに、こういう方面では頭が働かなくなるようだ。いくらなんでも俺が自らああいった連中と直接話をつけるわけがないだろう? モーガンヒルの傘下には、にはマスコミ対応を専門とする人間が何人もいるんだ。俺が彼らへ電話なりメールなりで指示を出せば、翌日からはよほどネタに困っている出版社でもない限り、俺が女性をとっかえひっかえしている事を示唆するような写真も記事も扱われる事はなくなる」
「そ、う……だったの」
 とっさの反論は、冷静極まりない切り返しによってあっさりと打ち砕かれた。いよいよ形勢は、マデリーンにとって不利な方向へと傾いてきている。これまでずっと彼女は夫の不実さを心の中で責めてきていたが、もしかすると間違っていたのかもしれない。そんな考えさえ浮かんでくる。
「確かに俺は、一般的な見解からすると、少しばかり働きすぎているかもしれない。もちろんそこには親から受け継いだ会社を維持し、大きくしたいという思いもあるが、一番の理由は君やジュニアが望む生活を、可能な限り叶えるためだ。さすがに何億もする豪邸をぽんぽん買う事はできないが、ジュニアがどんな進路を選んだとしても、それを実現する手助けができるぐらいの蓄えはあるし、君がある日突然、アマゾンの伐採を食い止めるために広大な土地を買ってくれと言い出したなら、チェーンのいくつかを売り払ってでもそのための資金を作るだろう。俺にとって、君たちが心安らかで満ち足りた生活を送るという事は、何より重要なのだから」
 揺るぎない口調から、彼がそれらの言葉を本心から口にしているのだと、マデリーンにもすんなりと信じられた。どう言葉を返そうかと、混乱の落ち着きはじめた頭で考えるが、答えが出るより先にランドルフの口から深いため息が零れ落ちた。
「……だけど、どうやら俺は一人で空回りをしていたようだ。まさか俺の忙しさが原因で、君が不快な思いを呑み込んでいたとは……本当に、どこまでも馬鹿な男だ」
「そんな風に言わないで。あなただけが悪いんじゃないもの。ただ私は……」
「ただ……?」
 言いかけて、言おうとした言葉に戸惑う。更には間髪入れず先を促されてしまい、彼女は居心地わるく身じろぎした。
 続けるべき言葉はいくらでもある。けれどそれらを口にしたところで、何がどうなるというのだろう。状況は好転するかもしれないけれど、今のランドルフの様子からすると、むしろ悪い方向へと転がっていきそうだ。
 だけど、黙秘権は先ほど使ったばかりだ。連続してだんまりを貫くのは、いくらなんでも不自然だし不公平だろう。それにきっと、彼は納得してくれない。さっきは譲ってくれたが、きっと今回はそうならないだろう。なにしろこういう時のランドルフは、妥協なんて甘い事は許してくれないのだ。
 もし彼が望んでいたならば、きっと腕のいい検事になれただろう。マデリーンは常々そう思っていたが、いざ自分が追及される立場になると、ビジネスマンでいてくれてよかったと思ってしまう。万が一にも検事なんて職についていたりしたら、どんな隠し事もとっくに見抜かれていただろうし、全ての真実が白日の下に晒されていたはずだ。
 千々に乱れそうになる思考をなんとか掻き集め、考えに考えて真実の欠片をそっと口にする。
「……私はただ、あなたを煩わせる存在にだけはなりたくなかったの」
 それは紛れもないマデリーンの本心だった。しかし言葉の選び方を決定的に間違えてしまったらしい。ランドルフは不機嫌さを一気に募らせると、苛立たしげに注ぎなおした酒を一気に呷った。
「まったく君は、俺を一体何だと思っているんだ? 俺は君の夫だ。夫というのは、妻や子供を守り、家族の平穏で安定した生活を支える存在のはずだ! どうやら君にそうは思ってもらえていないようだが、俺はこれでも自分の役割を果たすべく努力をしてきたんだ。君がパーティやイベントに夜毎繰り出す日常より、静かで穏やかな生活を営みたいと言ったから、ホームパーティだとかホームディナーでの接待は極力回避し、妻を同伴するのが適当とされる催しにだって、どうしても主催者にこちらの誠意を見せなければならない稀な機会以外は、君に参加を強要しなかった。それが君の望みだったから。それこそ俺は、君を煩わせたくなかったからだ! パパラッチ対策について、しつこいまでに対策をしようかと君に訊いたのも、同じ理由でだった。だけどそれを不要だと判断したのは、他の誰でもない君じゃないか」
「……ええ、そうね」
「まあ、はじめは本当に気にしていなかったとしよう。だけど状況が変わっていたのなら、一人で抱え込んだりせずに一言そう告げてくれればよかったんだ。そうすれば即座に対処していた。だけど君は、俺には何も言わないし、何も求めない。何も望まない。時々――」
 膝の上で両手を強く握り合わせ、苦しい息の下で長く抱え続けていた疑念を吐露する。
「――君は俺の事を、生活の保障のためにだけ必要としているのではないかとさえ思ってしまう」
「まさか! そんな事あるはずないわ!」
 搾り出すようにして告げられた言葉はあまりにも衝撃的だった。頭が正常に働くより先に、否定の言葉が口を突いて飛び出していた。
「本当に? だったらどうして君は、俺から距離を取ろうとするんだ? 他の人間が相手なら、君はとても自然でいるのに、俺の前でだけはまるっきり感情を見せてくれない。ジュニアに対する愛情は母親なのだから当然だろうと思うが、ケネスは俺の秘書だし、友人だ。君にとってあいつは俺を介して知った存在のはずなのに、俺に対してとはまったく違う態度であいつに接する。――仕事上では全幅の信頼を置いている相手だというのに、君とケネスが楽しげに笑いながら会話しているのを見るたびに腹の中が嫉妬で煮えくり返って、時々衝動的に絞め殺してやりたくなる」
 自嘲を浮かべながら物騒な言葉を吐く夫の横顔を、マデリーンは信じられない気持ちで呆然と見つめていた。
 ランドルフが、嫉妬を? それもケネス相手に? 彼女にとってケネスがそんな対象にはなりえないと知っているはずなのに!
「……ああ、ほらまただ。俺がこうして感情を表に出す度に、君は心底から驚いたような顔をする。どうやら君は俺の事を、感情を持たないロボットか何かだと思っているようだが、残念ながら俺は人間で、誰かを愛しく思う心もある。愛する妻にすげなくされて傷つくだけの心さえも、意外かもしれないが持ち合わせているんだ」
 何かと想定外の事ばかり今夜は聞かされているけれど、どうやらこれが極めつけらしい。
 今、確かに聞こえた言葉は、実は聞き間違いだとか、都合のいい妄想だったりするのではないだろうか。
「あいする、つま?」
 完全に呆けた顔で鸚鵡返しに呟く。ぽかんとした妻の表情に低く笑って、ランドルフは皮肉と諦めを頬に浮かべた。
「その反応から察するに、やっぱり君は俺が一人の人を愛する事などできないとでも思っていたようだ。だけど――どうせこの際だ、君にはどうでもいい事かもしれないが、言ってしまおうか」
 酒精の混じる息をそっと吐き出し、強く目を閉じて覚悟を決める。
 これほどの緊張を覚えるのは、必ずマデリーンが絡んだ時だけだ。大学見学を口実に、二人でニューヨークを見て回った時。入学祝いの正式なディナー。プロポーズ。結婚。ハネムーンの夜。妊娠の報告。出産。それ以外でも、大小様々な転機が訪れるたび、他では決して味わった事がないほど強い緊張を味わってきた。
 胎が据わったのを感じて目を開き、深い深い青の瞳を覗き込む。この美しい色をした瞳が息子に受け継がれていると知った時のあの歓喜は、今でもはっきり覚えている。
 これから告げる言葉は、もしかしたら彼にこの双眸を失わしめるかもしれない。だけどそれこそこんな状況にでもならなければ、きっと一生告げる事はできないだろう。
「俺は、君を愛してる。君が俺に対して同じ感情を抱いてはいないと知っていても、この気持ちを捨てる事ができなかった。君と出会ってからの十五年近い年月で、いっそ嫌いになってやろうかと思った事は数え切れないほどにあったけれど、一度として君を嫌えたためしはない。今ではもう、君の愛情を期待しない事にもすっかり慣れてしまって、ただ、法律によって保証されている夫婦という繋がりと、俺の息子を君が生んでくれた事、そして君がジュニアを心から愛し、慈しんでくれているという事実が俺を支えているんだ。なにより君は、俺が触れる事は拒まない。愛情そのものは返してくれないが、抱けば君は情熱的に反応してくれる。それこそが君に嫌われてはいない証拠なのだから、手に入る現状で満足しろと繰り返し自分に言い聞かせている」