かぶ

真実の目覚める時 - 29

 一体どちらからはじめたのか、それさえも記憶になかった。服を着たままでただ互いの身体を抱きしめあっているだけでも、穏やかな果てを見る事ができるのではないかと思うくらい、その時の二人は濃密な何かに包まれていた。きっかけは、多分些細な指先の動きや掠めるような口付け、そして愛撫めいた呼び声だろう。
 まさか、感情をこめて名前を呼ばれるだけで、こんなにも高ぶってしまえるだなんて、思ってもみなかった。
 じわじわと身体に溜まる静電気と同じく、ランドルフとマデリーンの間には一種の緊張感が高まっていた。リビングで事に及んではいけないと思い出せたのは幸運だが、それを弾けさせる事なく、また妙に冷静に返る事なく寝室に入れたのは一種の奇跡だ。
 けれど寝室に入っても、二人はすぐに求め合ったりはしなかった。さながら最初の一撃を打ち込むに最も適切なタイミングを計り合う戦士のように、お互いを腕の中に閉じ込めたままで相手を観察し、反応を確かめるように微かな駆け引き――たとえば伏せたまつげの下からそっと投げた視線、身体に篭っている熱を思わせるような甘く熱い吐息、触れるか触れないかの軽すぎる擽り――を繰り返していた。
 はじめに屈服したのはランドルフだった。耐え切れないとでも言うように大きく息を吐き、妻の髪に両手の指を潜らせると、勢いに任せて彼女のふっくらとした唇を奪った。それに呼応して、マデリーンは夫の口付けを受け入れ、彼の広い背中へと手を這わす。そこに、確かな愛撫を含めて。あぁ、と、熱い呼吸が唇の中へと吹き込まれ、ぴたりと密着した身体の間に夫の高ぶりを感じた。次の瞬間、マデリーンは自分でもはしたないと思うほどに身体が準備を整えてしまっている事に気づいた。彼を受け入れる場所だけじゃない。きっと不用意に素肌に触れられてしまったりしたら、それだけで彼女は達してしまうだろう。
 そしてその予感はどこまでも正しかった。もつれ合うようにしながら服を脱がせあっていた間に、マデリーンは何度軽い絶頂を迎えていたかわからない。ランドルフはそこまであからさまな事にはなっていなかったが、それでも心と身体の興奮の度合いが、アンダーショーツを濡らす先走りとして表れていた。
 ベッドへと身を横たえた時に火照った肌を優しく冷やしてくれたシーツはすぐに二人の熱を移され、さらりとしていたリネンは汗と体液でしっとりと濡れた。二つ、別々の存在でいる事が苦しくて、大した前戯を施す間もなく性急に繋がりあった。隙間なく一つに重なり合った時、それだけでマデリーンは全身を震わせて大きな波に浚われた。直後、歓喜による締め付けに堪えかねたのか、ランドルフも荒々しい声を上げると乱暴なまでに妻の身体を突き上げはじめた。
 ただでさえ全身が過敏になっている上、絶頂を迎えた直後のこの刺激だ。落ち着く間もなく再度頂点へと追い上げられたマデリーンは、夫が繰り返し愛称で自分を呼びながら胎内の最奥で果てるのを感じた。
 二人して全身を汗で濡らしながら、浅い呼吸を繰り返す。繋がったまま、余韻に時々身体を震わせながら、ただじっと抱きしめあう。心と身体が更なる高みを希求している事には気づいていたが、それよりも彼女には気になる事があった。
「……私、ピル、飲んでない……」
「うん?」
「昨日は体調が悪かったし、今日はお昼前から出かけてしまったから……二日続けて、飲んでないわ」
 予告なしの爆発を立て続けに味わったせいで、舌が上手く操れない。けれどもなんとか言葉を唇に乗せる。
「君は、もう欲しくないのかい?」
「欲しくないのはあなたでしょう? アマデオが生まれた後、言ってたじゃない。しばらく子供は作らないようにしようって」
 咎める色が混じった事に気づき、ランドルフは気だるげにマットレスへと腕を突いて上半身を持ち上げた。汗で妻の秀でた額にぴたりと貼り付いている髪を指先で顔から払いながら、ゆっくりと首を振った。
「君が、どんなに大変な思いをしていたのか、俺は全部見ていたからね。軽々しく次の子が欲しいと言えなかったんだ。君が欲しいと思ってくれるのなら、俺は何人だって生んで欲しい。だが、君に負担をかけるのがどうしようもなく心苦しいんだ」
 また一つ、誤解が氷解する。重苦しい塊がなくなった分だけ心が軽くなって、マデリーンは重たく感じる腕を持ち上げると夫の首に巻きつけて引き寄せ、首を少し動かして触れるだけのキスをした。
「馬鹿ね。あなたの子供を産むのなら、いくらでもがんばれるわ、私」
「マディ……君って人は……」
 参るよ。そうため息混じりにランドルフが呟くのと、マデリーンの中で彼自身が勢力を取り戻したのはほとんど同時だった。
「う、そ……っ! 」
「まったく、君はとんでもないね。俺をたったの一言でこんなにしてしまうなんて」
 意地悪く囁きながら、やんわりと腰を押し付けられる。胎内の一番深いところに先端を押し付けられて、頭の芯がくらりと蕩ける。
「ああ、だけど今夜はゆっくりと愛し合いたい気分だ。君を愛したい。俺がどんなに君を愛しているのか、君に刻み込んでやる」
「ええ……ええ、そうしてちょうだい。私もあなたを愛したいの。あなたを愛して、あなたに愛されたい」
「では、そうしよう」
 それから一体何度、キスをしたのだろう。唇が熱く腫れぼったい。ほんの少し、痛みさえ感じる。だけど唇が離れるとまたすぐ欲しくなって、喘ぎの中で酸素を取り込むと、首に回した腕で引き寄せて次をねだってしまう。これまではずっと受身でいたけれど、想いを伝え合った今は何をためらう必要もない。はじめから唇を開いて、舌を延ばして深い接触を求める。長い間、ずっと苦く感じていた口付けは、舌が溶けてしまうのではないかと思うほどに甘く、切ない痛みを覚えていた愛撫はただただ熱く、痺れを伴って電流のように快感を身体の奥へと送り込む。
 互いの身体で一番敏感な部分で交じり合ったまま、身体を二つに分ける事なく手で、唇で、頬で、肌で、言葉で、視線で、これまで秘め続けてきた愛を語り合う。受動から能動に変わったのは口付けだけじゃない。少しでも触れたくて、触れて欲しくて、触れあっていたくて、手を伸ばし、身体を擦り付け、足を絡めあう。二人して刻むリズムはこの世に存在する全ての音楽を集めたよりも多彩で美しく鮮やかだ。与え合う官能はこれまでに体験したいかなるものより深く甘美で、このまま永遠に続けられたらとさえ願う。
 もしかしたら、繋がりあっている必要はないのかもしれない。ただ素肌のままで触れ合ってさえいれば、それで満足できるかもしれない。そう思う瞬間は、一度どころでなくあった。だけどマデリーンもランドルフも、あまりにも長く孤独の中にいたために確実なものを渇望しており、肌を合わせるだけでは足りないと、どこかで完全に繋がっていたいと、そう感じていた。
 マデリーンはランドルフしか知らないが、ランドルフは違う。結婚するまでに幾人もの女性と関係を持ってきた。結婚する前は、純然たる性衝動の赴くに任せての行為だった。マデリーンと結婚してからは、伝えることのできない想いを、返されることのない情熱を一方的にぶつけるための行為だった。その両方に共通するのは、どちらの場合も身体は満足していたが、心が完全に満たされる事はなかったという点だ。
 もちろん、一度として深い満足感を覚えた事がないわけではない。彼の記憶にある中で最も強く幸せを感じたのは、花嫁が紛れもない無垢であったと知った夜だ。けれどそれが頂点だったとすればその後は――今はもう互いの誤解とすれ違いによるものだとわかってはいるが――ただ緩やかに堕ちていくだけの、空虚な夜の連続だった。
 妻が自分を敬遠していると言うのに、自分だけが愛の言葉を口にするというのはやけに口惜しく感じられ、口にできない言葉の変わりに身体と情熱で愛を伝えていたつもりだった。だけど、ああ、なんという事だろう。真実の想いを口にすると、それだけでマデリーンへの想いは深さと重さを増し、情熱はいや増していく。同時に彼の腕の中で淫らに舞う妻の口元は幸せの笑みに解け、その反応は一層鋭いものとなる。そして何より、彼女の少し腫れた唇がその言葉を囁く時、まるで魔法でもかけられたかのように魂が歓喜に打ち震え、気を抜けば情けなくもあっさりと極めてしまいそうになる。
 たった三つの単語を、音節を並べただけの短いセンテンス。なのにどうして、これだけの威力を持ち得るのだろうか。――きっと、真実の言葉だからだろう。真実の想いを乗せているからだろう。そしてその中核となっているのは、この世で最も強く尊いとされている感情。
「マディ、愛してる……君を、君だけを、俺は……」
 あいしてる、と繰り返し、火照った肌に数え切れない口付けを落とす。きゅ、と彼を包み込んでいる部分がまた締めつけを強くし、愛しい声が甘く喘ぐ。耳に届いた切ない響きが、もう限界を超えているだろうと思うほどの官能を更にかきたて、ランドルフはまた、マデリーンに溺れる。彼女の身体に。彼女の心に。彼女の想いに。彼女への、想いに。唐突にこみ上げてきた愛しさと情熱に身を任せ、腕の中の身体を貪る。長いストロークで繰り返し穿ち、入り込める一番奥のその先に辿り着きたいとばかり、深く貫いたままで何度も揺さぶる。
「あぁ……ん、あっ、ああっ、ドルフ、ドルフっ――!」
 妻のこの、理性を失った時にだけ聞く事のできる舌っ足らずな自分の呼び名を、彼は他のどんな呼称より好んでいた。アマデオが母親にだけミドルネームで呼ぶ事を許すように、ランドルフも彼女にだけその呼び名を許している。――彼女がそれを知っているのかどうかは、彼にはわからないが。
「言ってくれ、マディ、俺を愛してると……」
「あなた……私の愛しい人、愛してるわ、愛してる、愛してる、愛してる……!」
 うっとりと微笑んで、腕の中の女神は求められるがままに愛を囁く。こんな幸せが存在するなんて、思ってもみなかった。こんなにも満たされた境地を、想像した事もなかった。
「ダーリン、俺も君を愛してる。愛しすぎて愛しすぎて、どうにかなってしまいそうだ」
「なって、ちょうだい。だって私は、もう……なって、る……ん、だもの。私だけ、なんて……嫌よ」
 男の耳元に唇を寄せて囁いたその声は、恥ずかしげでありながら、同時に挑発を含んでいた。一瞬で口の中がからからになり、無理やり溜めた唾液を飲み下す。
「――後悔するかもしれないぞ」
「構わないわ。いっそ、後悔させて」
 今度ははっきりと挑発だった。挑む声に、視線に、理性が焼ききれる。
「聞いたからな。前言撤回も考え直しも認めない」
 低く唸り、それまで辛うじて保っていた理性を手放す。取って代わるのは凶暴なまでの熱情と欲望。乱暴なまでの荒々しさで攻め立てる夫に、マデリーンは本能的な悲鳴を上げた。
 全身を重く支配していた悦楽の種を掻き集め、一気に開花させる。無数のフラッシュが焚かれる中で堕ちる事のない絶対の高みへと上り詰めながら、ランドルフは自分の中から何かが解き放たれるのを確かに感じていた。