かぶ

真実の目覚める時 - 30

 セントラルヒーティングがあるおかげで、夜間に暖房を切っていても凍える事はない。とはいえ、冬の朝はどうしても冷え込む。ブランケットを通して沁みこんでくる寒さにふるりと身を震わせ、マデリーンは隣にあるはずのぬくもりを求めて手を伸ばした。
 大人二人が眠るには広すぎるベッドだけれど、これまで夫が彼女が手を伸ばしても届かない場所で眠った事はなかったはず。それなのに、今、マデリーンの手が触れているのは、ひんやりとぬくもりを持たないシーツのみ。
「……?」
 頭に浮かんだ疑問が、彼女を夢から現へと引き上げる。
 周囲の情報が、まだ大部分を微睡みの中に残す意識へと到達しはじめた頃、離れた位置から低められた夫の声が聞こえてくる事に気づいた。
「――ああ、そう……別に、……だろう? ……ってる。しかしそのミーティングは……」
 どうやらテラス近くにある安楽椅子に腰を下ろして、携帯電話越しに誰かと話しているらしい。肩からナイトガウンを羽織ってはいるが、サッシュベルトは締めていないのが見た目にも明らかだ。それにしても、一体誰と何の話をしているのだろう。分厚いカーテンの隙間から漏れてくる光は夜の色を濃く残した藍色だから、今はまだ、朝のかなり早い時間のはずだ。
「……ああ、うん、いや、だから……馬鹿を言うな。俺はお前を……てるんだ。できるに決まって……そのとおり。これまでどおり……ればいい。――聞いたぞ。二言はないな? よしよし、いい子だ」
 厳しい響きが一気に嬉しげなものに変わる。その親しげな様子から、どうやら彼に近しい人が通話の相手だろうと察する。けれど思考に霧がかかっているせいか、その候補が中々挙がってこない。
「当然だ。お前は俺の……になるんだから。――ジュニア? ジュニアはまだ……だろう? 俺は若い内に……したいん……うるさい、まだ十分……れに、まだ先は……らないしな。とにかく、今日は……から、そのつもりで……るように。……ああ、頼む。それじゃあ、また昼に」
 ぱちん、と軽い音を立ててフリップが閉じられたその音に、思わずぴくりと反応してしまった。あ、と思ってももう遅い。毛の長い絨毯のせいで足音は聞こえないけれど、気配が近づいてくるのはわかる。マットレスが沈んでスプリングが軋みを上げる。ブランケットの下で息を潜めている彼女の髪に、ふわりと唇が落とされた。
「起こしてしまったみたいだな」
「……起きてなんかないわ」
 不機嫌に返された言葉へと満足げに微笑みながら、彼はベッドに片手を突いて身体の重心を移す。マデリーンに覆い被さるまで上半身を傾けると、ほんの少し覗いている金茶の髪にふわりと触れた。軽く頭を撫でた手を頬から肩の方へと滑らせて、ついでのようにブランケットの端を持ち上げて覗き込むが、ようやく見る事のできた妻の顔は実に不機嫌そうで、ランドルフはおやおやと内心で呟いた。
「君がそう言うのなら、そうだろうね。だが、確かに君はもう一度、寝直した方がいいかもしれないな。まだ疲れは取れてないだろう?」
 言われたとおり、確かにまだ、全身に気だるさが残っている。しかも前を閉じていないナイトガウンの下の、何も着けていない夫の逞しい身体が目に入ったせいで、つい昨夜の嬌態を思い出してしまった。同じぐらいの時間しか眠っていないはずなのに、どうして目の前にいるこの男性は、こんなにも溌剌としているのだろう? なんだかとっても不公平だ。
「私がこんなにも疲れてるのは、一体誰のせいなのかしらね?」
 唇を尖らせて反論する妻の様子があまりにも可愛らしくて、ランドルフは笑みが頬に宿るのを抑え切れなかった。この愛らしい人が彼の伴侶で、しかも自分を愛してくれているいうのだ。これを幸せと呼ばずして何を呼べばいいというのか。
 浮き立つ感情に突き動かされるまま、マデリーンの剥き出しになっている肩に唇でそっと触れる。寝起きのせいか、昨夜に比べれば反応ははるかに鈍い。それでもマデリーンの息に微かな甘さが混じるのを感じて、彼は唇を笑みの形に歪めた。
「悪いのは俺だけじゃないだろう? 君だって俺を、ずっと離さなかった」
「そ、れは……」
「反論は聞かない。なんなら、今からでも再現して検証するかい? 君がそんなにも疲れているのは、本当に俺だけのせいなのか」
 ばさりとガウンを脱ぎ捨てて、ランドルフはブランケットの中へと素早く身を滑り込ませる。いともたやすく妻の身体を組み敷いて、反抗を防ぐために指を絡め合わせるようにして手を押さえ込むと、鋭い言葉の棘を隠す唇を自分自身の唇で甘く塞いだ。
「さあ、どうするマディ? 今はまだ六時前だ。ジュニアが起きてくるまで一時間はある。時間を有効に使うのも悪くはないが、たまには怠堕に過ごすのもいいんじゃないかな?」
 唇が触れ合う距離で囁きながら足を絡ませ、全身で全身を愛撫するように身体を動かす。すっかり覚醒してしまった妻の身体に残っているのは、どうやら疲労だけではなかったらしい。官能の残滓がどれほどたやすく再燃するのかを、マデリーンは知っていたのだろうか。その疑問に対する答えをランドルフは知らないが、鼻の奥で甘く上げられた啼き声は、彼女は今、それを身をもって体感しているのだと知らしめるには十分だった。
 二人の間で目に見えないスイッチが入る。密着した身体でランドルフの身体に生じた変化に気づき、マデリーンがだめ、という微かな反論を試みる。しかしそれを深いキスでなかった事にして、本来ならどこまでも忙しないはずの時間を最も甘美で有意義な時間へとすり替えるために、彼は精一杯の奉仕をはじめた。

* * *

 いつもどおりの時間に起き出し、身支度を済ませてリビングへとやってきたアマデオは、そこに異様な光景を見出して思わず固まった。
 リビングのテーブルの上には朝食の準備が、完璧ではないけれどもされている。それはいい。いつもの事だ。
 いつもと違うのは、キッチンに立っているのが母親ではなく父親であるという事。
 ランドルフが意外と料理上手だという事を、アマデオは知っていた。普段の彼は、キッチンはマデリーンの領域であるからとあまり進んで立ち入ろうとはしないのだが、物心がついてから重ねてきたの記憶の中には、父親が作った色々な手料理を食べた思い出が、両手に余るほどある。一番近い例を挙げるなら、父子揃って作った先日のサンドイッチがそれに当たる。
 だから父親がキッチンにいる、という事については、すんなり納得できるわけではないが、全否定しなければならない状況でもない。
 ないのだけれど、平日の朝のこの時間に、ついさっきシャワーを浴びましたとでも言わんばかりの濡れた髪を下ろしたまま、アンダーシャツとボクサーショーツの上からバスローブを着けているだけという、実に気張らない格好をしているというのは、どう考えてもおかしい。本来ならば、ぴしっと髪を整えた上、スーツにネクタイを締めた格好で新聞など読んでいるはずなのに。
 まあ百歩譲って、何らかの理由で今日は出勤時間が思いっきり遅くなったと仮定すれば、一応理解、できないわけじゃない。……もっとも休みだからといって、ここまでラフな格好をしている父親を見るのは、アマデオにとって、本気で生まれて初めてだったけど。
 だからここまではいい。もしかしたら全然よくないかもしれないけど、無理やりにでもよしとする。
 問題は、だ。

    でも、ママが言ったの
    恋に焦りは禁物だって
    そう、待つ必要があるの
    恋ってのは、簡単なものじゃないって言ってたわ
    与えては奪うゲームなんだから
    恋に焦っちゃだめ
    そうよ、待たなきゃだめなの。
    どんなに長くかかっても、
    その時が来るのを、信じてただ待つの


 その歌を、アマデオは知っていた。というより逆に、十年以上生きてきて、この歌を一度も聴いた事がないという人間を探す方が難しいだろう。
 聴き覚えのあるフレーズからすると、彼の父親が歌っているのは十中八九、フィル・コリンズのユー・キャント・ハリー・ラブ。ただしそれがそうだとわかったのは、あくまで父親が口にした歌詞からの推察であって、メロディからではない。
 そう、そこなのだ。彼にとって何より最も納得できないのは、
 ランドルフと話した事のある人間の十人中最低でも八人は、彼の声を深みのある男性的ないい声だと判断するだろう。アマデオ自身、大人になったら父親のような声を持てたらと望んでいた。
 その声が、美声といっても差し支えのないその声が、ここまで調子っぱずれな音階を奏でていいものだろうか。
 その上、どうやらランドルフ・A・モーガンヒル・シニアはとてつもなく上機嫌らしい。あまりにもうきうきとしている空気のせいかが、恋に浮かれたハイ・ティーンの少女めいた口調にさえ聴こえてくる。
 ここまで不釣合いな曲を聴かされるぐらいなら、いっそ先日の音楽の時間に鑑賞した、シューベルトの魔王あたりを完璧に歌い上げられた方がよっぽどいい。何がどういいのかはわからないけれど、少年の精神状況や心臓への負荷を鑑みるに、絶対そっちの方がいい。
 ずきずきと痛むこめかみを押さえながら深く深く息を吐き、アマデオは意を決して父親へと声をかけた。