かぶ

真実の目覚める時 - 32

 廊下の向こう側で扉の閉まる音がしてようやく、リビングに残った二人は、こわばっていた顔と身体から緊張を解いた。
「……母さん、訊いてもいい?」
「いいわ」
「父さん一体どうしちゃったの?」
 疲れたような声の問いかけへため息混じりに返したとたん、単純かつ根本的な疑問が投げられた。けれどそれをある程度予想していたマデリーンは、苦笑を漏らしながらアマデオの座っているダイニングテーブルへと向かった。
 三人分にしても少し多すぎるような分量のスクランブルエッグが残っているフライパンと、豪快に盛り付けられたサラダが六人掛けの広いテーブルの中央を彩っており、アマデオの手が届く位置にはオレンジジュースがガラスのピッチャーに八分ほど残っている。少年の手元には大きな白い皿があり、その上に食べかけのクロワッサンと、美味しそうな焼け目がついている、マデリーンの実家から送られてきたホームメイドの分厚いベーコンの切れ端が乗っかっていた。
 朝から思いがけず身体を動かしてしまったせいで、身体は空腹を訴えている。けれど自分の場所には朝食は用意されていないし、起きてから何度も「ゆっくりしていればいい」と繰り返していたランドルフの言葉からも、彼がアマデオを学校まで送り届けた後でマデリーンと朝食を共に摂ろうと考えているのは明らかだ。それを知っていて先に食事をしてしまうのはさすがに気が引ける。
 ドリンクぐらいなら構わないだろうと心の中で言い訳をしながら息子と対面になるいつもの席に腰を下ろし、マデリーンはピッチャーからオレンジジュースをトールグラスに注いで一息に半分程を飲み干した。
「どうって……見てのとおり、とても浮かれてる――ん、だと、思うわ」
「だからどうして!? 何があったらあんな――あんな風になっちゃうわけ? これまでもかなり大きな商談が纏まった時とか、フランスに出したレストランが三ツ星評価を受けたって時も、喜んではいたけどもっとマトモだったよ?」
 混乱しながらもここまで達者な口を利けるとは、さすがはランドルフ・モーガンヒル・ジュニアとでも言うべきだろうか。父親譲りの舌鋒を誇る息子に、マデリーンはただただ苦笑する。
「そうねぇ。私が知る限りでも、あの人がこんなに感情を露にした事って、あなたが生まれた時と、お義父さまの手術が成功した時ぐらいかしら」
 そしてもう一つ。彼女が彼のプロポーズを受け入れた時。
 マデリーンの前ではそんな素振りを見せてはくれなかったけれど、イエスと答えた瞬間、一気に顔を輝かせて強く強く彼女の身体を抱きしめたあの腕には、安堵だけでなく純粋な喜びが、確かに含まれていた。
「だからね、私も正直驚いているのよ。あの人が……あんな風になっちゃうだなんて」
「……そのきっかけってさ、やっぱ昨日の晩だよね? さっき父さんは携帯電話はまだ渡してないって言ってたし、それっぽっちの事でああなるとは思えないから……やっぱ、僕が寝た後の話し合いがキーなんでしょう?」
「ええ、そのとおりよ」
 少年の鋭い指摘にマデリーンはあっさりと頷く。それを受けて彼は、少しばかりためらいながらも、更に踏み込んだ問いを投げた。
「やっぱり。父さんの口調から、悪い話じゃないだろうって事はわかってたんだけどさ。……その、結局、何の話だったの?」
「え? ええと……」
 素直に思考を巡らせかけたところで、一気に昨夜の顛末がよみがえってきた。赤くなっているだろう顔がどうにも恥ずかしくて、とっさに息子から視線を外す。
「母さん?」
「……具体的な経緯については訊かないって約束してくれるなら、話してもいいわ」
「それでもいいよ。とにかく父さんの変調の謎が解けなきゃ、きっと今日は一日他の事なんか考えられないよ!」
 心底から嘆息する息子に笑みを誘われつつ、マデリーンは小さく咳払いをしてできるだけ平坦な調子で言葉を口にした。
「昨日の夜、あの人といろいろ話をした結果、私たちはとても長い間お互いに大きな誤解を抱えていて、それが原因でずっとすれ違っていたって事が判明したの」
「誤解? どんな?」
 訊かれて然るべきとはいえ、ここを追求されるのは正直辛い。何しろ言葉にして表そうとすれば、どうしようもなく陳腐にしかならないのだから。けれどここで沈黙しても、逆にいらない詮索を受けそうだ。
 ゆっくりと息を吐き出し、肚を決めるためにオレンジジュースの残りを一気に喉へと流し込む。そしてそのまま勢い任せに告げた。
「――簡単に言うなら、私たちはお互いに、ずっと叶う事のない片思いをしていると思い込んでいたのよ。けれど昨日、そうじゃなかったとわかって……」
「……ちょっと待って」
 唐突に遮られて、マデリーンはぴたりと口を噤んだ。逸らしっぱなしだった視線を息子へと戻すと、少年はなにやら不穏な空気を漂わせながら、肩を震わせていた。
「ア、アマデオ……?」
「つまり、何? 父さんも母さんも、相手の事をずっと好きだったのに、どうしてかは知らないけれど、自分は相手に好かれてないって思ってたわけ? それも、一年や二年どころじゃなく、十年――繰り返すけど、じゅうねん以上もすれ違ってたって言うの!?」
「まあ……そうね、そういう事になるわね」
 あまりにも肩身が狭く感じられて、テーブルに乗せて組んでいる手へと視線を落とした次の瞬間、がちゃん! と盛大な不協和音が鳴り響いた。
 思わず振り返った先では、テーブルに両手を突いたアマデオが椅子の上に立ち上がり、射殺さんばかりの強さで母親を凝視していた。
「だああ、もう、一体何をどうすればそんな馬鹿げた事が起きるってんだよ!? 頼むよもう、本っ気で信じらんねぇ……!」
 力が抜けたように腰を落としたものの、少年は行儀悪く椅子の上で胡坐をかいて髪をかき回している。どうやら言いたい事があまりにも多すぎて、何から口にすればいいのかがわからなくなってしまったらしい。何より今朝は、リビングにやってきてから驚いたり混乱したりと感情があまりに揺さぶられすぎていて、いつもなら使わないような乱暴な言葉を口にしている事に、アマデオは自分で気づいていなかった。
「アマデオ、お願いだから落ち着いてちょうだい。私たちだって、昨日は大変だったんだから……」
「大変って何が!?」
「だから――その、本当の事を知って、よ。二人ともとても驚いたし、どうしようもなく混乱してしまって……」
「まあそりゃ当然だろうね。てかさ、この展開って、どっちかが一度でも言うべき事を言ってれば、あっさり解決されてたってなオチだったりしない?」
 どこまでも鋭く切り込んでくる息子は、これっぽっちも十歳の少年のようには見えない。加えてごまかしは許さないと、母親と同じ色をした瞳が、父親譲りの眼光で明言している。
「……そのとおりよ」
 諦め混じりの息に重ねて渋々と肯定する。とたん、息子の口からは一生聞く事がないだろうとマデリーンが考えていた、限りなく粗暴で野卑な類の言葉が耳に届いた。
 本来の彼女であれば、すぐさまアマデオを厳しく嗜めていただろう。しかし息子にそんな言葉を使わせた原因は自分にある事を、衝撃のさなかにも理解していたし、聞こえてきた言葉があまりにもショッキングなものだったため、一体どんなところでそんな言葉を覚えてきたのかしらと、実にピントのずれた考えしかとっさに浮かんでこなかった。
「――今、子供が口にすべきじゃない類の言葉が聞こえてきた気がするんだが?」
「さあね。僕は知らないよ。空耳なんじゃない?」
「とぼけるなよ、坊主。俺は別に構わないが、マデリーンには刺激が強すぎだ。見てみろ、呆然としてるだろ。ほら、マディ、……マディ、大丈夫か?」
 あたたかな手が髪を梳く感触に誘われるようにして、マデリーンは現実へと立ち返った。目の前には、心配そうな表情を浮かべた夫が、床に膝を突いて彼女の様子を伺っている。
 さっきまで洗いざらしだった髪は、いつもよりはラフだけれど、きちんと整えられている。やっぱりこのまま仕事に行くつもりなのかしらと小さな失望感が彼女の視線を下方へと落としたものの、そこにグレーのセーターとアイボリーのズボンという、どう考えても仕事用ではない服装を見つけて、息子を学校に送り届けた後に戻ってくるという言葉は本当だったのだと、改めて実感した。
「私は……大丈夫、だわ」
「本当に? あんまりそうは見えないが……」
「本当よ。もう、あなたって、こんなに心配性だったかしら」
 ハンサムな顔が情けないほどに眉を落としているランドルフにくすくすと笑いかけてから、正面に座っている息子へと視線を向ける。なんだかどうにもいたたまれない表情でこちらを眺めていたアマデオは、母親の視線が自分を捕らえた事に気づくと、慌てたように皿の上に残っていた食料を口の中へと押し込んだ。