かぶ

真実の目覚める時 - 33

 さっきまでと打って変わった息子の子供っぽい行動にマデリーンは笑みを零しながら、あやすように頬や耳のあたりに触れてくる夫へと向き直った。
「ねえ、あなた。私、さっきのあれは空耳だった事にするわ」
「――君がそういうなら、俺もそういう事にするよ」
「ありがとう」
 不満げながらも無理やり納得してみせるランドルフへと、マデリーンは素直にお礼の言葉を口にする。その顔を見て、ランドルフは深々と息を吐いた。
「まったく、君はジュニアに大してはどこまでも甘いんだな」
「そう……かしら。あまり自覚はないのだけれど」
「君に自覚はなくても、俺の目には十分すぎるほど甘い。……どうせ甘やかすなら、俺の方を甘やかしてくれ」
 声音を意識的に変えて囁き、ランドルフはアフターシェイブの香る頬を、妻のなめらかな頬にすり、と触れさせる。期待とからかいが等分に混じった瞳でとても近い距離からサファイアの相貌を覗き込めば、案の定、戸惑いに濡れた宝石が揺れていた。
「……甘やかしてほしいの?」
「そりゃあもう、盛大に」
 にっこりと満面に笑みを浮かべて頷けば、指先の触れる頬は鮮やかなバラ色に染まり、熱を篭らせる。返してくれる反応が一々愛しくて、うっかり暴走しかける衝動を押さえ込みながらゆっくりと立ち上がる。
「さて、そこの不機嫌な悪がき小僧。食事は終わったようだが、出かける用意はいいのか?」
「準備はできてるから、部屋に取りに行けば……あ、ランチボックス! 父さん、お昼ご飯は用意してくれてる?」
「当然だ。マイクロウェーブの隣に置いてあるから自分で取って来い。――ああ、先に言っておくが、中身は普通のベーグルサンドだ。マディがいつも作っているものほど上等でも見栄えがいいわけでもないから、妙な期待はするなよ」
「はぁい」
 ぴょんと椅子から飛び降りた少年は、テーブルの上から空になった皿とグラスを取ってキッチンへと向かう。シンクの下の食器洗浄器へと使った食器を放り込むと、マイクロウェーブの方へと視線を巡らせた。別に疑っていたわけではないが、そこに父親の言葉どおり、少し大きめな茶色の紙袋を見つけてほっと息を吐く。
 手に取った感触からして、中に入っているベーグルサンドは二つ。恐る恐る袋の口を開けて中身を確かめれば、どうやらそれは典型的なBLTスタイルのベーグルサンドのようだった。
「ワオ。ちゃんと美味しそうだ」
「……お前、そんなに俺の料理が不安なのか……?」
 背後からかけられた不穏な声で、一連の行動をしっかり見られていたのだと気づく。意味もなく昼食の袋を背中に隠して振り返ると、ほんの少しだけ申し訳ない気持ちを抱きながら、少年はたははと空虚な笑いを漏らす。
「やだな、念のためだよ、念のため。父さんが、母さんほどじゃなくても料理自慢だってのはちゃんと知ってるし。今日の朝ごはんだってちゃんと美味しかったしさ!」
「ほう? その割には、これっぽっちも美味しそうには見えなかったが?」
「……んなの、自分のせいだろ」
 考えた事がそのまま言葉になっている事に気づいたのは、それが口から飛び出した後だった。しまった、と思いながら父親へと引きつった顔を向けると、端整な口元に獰猛な笑みが浮かんでいた。
「それは、中々に興味深い意見だな。ちょうどいい。時間は短いが、車の中でなら邪魔も入らないし、たまにはじっくりと腹を割って話し合おうじゃないか」
「あー……結構です。すみません。僕の失言でした。認めますので追求はどうかなしの方向でお願いします」
 じっとりと冷や汗が背中を濡らす。急いで謝罪の文言を口にするが、肉食獣がそう易々と目の前の獲物を逃がすはずがない。
「その嘆願は却下する。時間は無限にあるわけじゃないんだ。車の中でゆっくり話すためにも急ぐんだな」
「~~横暴だ!」
「横暴で結構。そうでもなけりゃ、大企業の社長なんて商売はやってられないさ。いいかげん、腹を空かせた子犬みたいにキャンキャン喚いてないで、とっとと鞄を取ってこい!」
 さっさと出て行けとでも言うように廊下に繋がる扉をまっすぐに指差され、アマデオは盛大にブーイングしながらリビングを去って行く。その様子を満足げに眺める夫を見ながら、マデリーンは眉をしかめる。
「からかうのも程々にしておかないと、いずれ手厳しい反撃を受けるわよ」
「あいつからか? ふむ、それは中々に楽しみだ」
「……あなた」
「ああ、マデリーン。頼むからそんな顔をしないでくれ。俺はこれでも、あいつを鍛えているつもりなんだ。ほら、獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすと言うだろう? それを実践しているだけさ」
 いけしゃあしゃあと言ってのける夫へ更なる反論を試みようと口を開きかけるが、すぐにも戻ってくるだろう息子の事を考え、マデリーンは深々と息を吐きながら頭を振った。
「今ここで議論をしたところで、時間の無駄にしかならないわ。あなたが戻ってきたら、この際だし、教育方針についてじっくりと話し合いましょうか」
「そうだな。ジュニアさえ送り届ければ、あとは時間なんていくらでも作れるからね」
 頷きながらのランドルフの言葉にうっかりそうねと返事しかけて、マデリーンは口を噤んだ。
「いくらでも時間を作れるというのは、一体どういう意味なのかしら?」
「言葉どおりの意味さ。まあ、後から詳しく話すつもりでいるから今は簡単に説明するけれど、今後は仕事にかける時間を減らしていくつもりなんだ。どうせ俺じゃなけりゃならない仕事なんてほとんどないんだ。上手く調整すれば、一般的なサラリーマン程度には時間が取れるはずだ。その空いた時間を、俺は君に――君とジュニアのために使おうと思ってる」
「……だ、けど、本当にいいの? そんな事をしてもお仕事は……」
「大丈夫だ。こういう時のために、俺は有能な社員をたくさん雇ってるんだ。俺が少しばかり仕事をサボったところで、彼らがどうにでもしてくれるさ」
 ランドルフがあまりにも自信たっぷりに笑うので、マデリーンは抱いた懸念も忘れて笑い声を上げる。愛しい妻の笑顔に彼自身頬を緩め、その場にしゃがみ込むと身体を伸ばして笑みの残る頬へと口づける。
「――もしかして僕、バスかメトロで学校行った方がいい?」
 冷え冷えとした声が、シャボン玉のようにふわふわとした雰囲気を一気に弾けさせる。がっくりと肩を落としたランドルフが口の中で低くあのクソガキと呟くのが聞こえて、不謹慎ながらもマデリーンは小さく吹き出してしまう。
「ジュニア、お前ね……」
「文句、言いたいのはむしろこっちだから、父さんのは聞かないよ」
 両親へと歩みながら、アマデオは研ぎ澄まされたナイフの鋭さで返す。父親を見る視線に、あたたかみなんてものはあんまり含まれていない。けれど母親へと視線を移した時、少年はいつものように無邪気な笑みを浮かべていた。
「それじゃあ母さん、僕、行ってくるね」
「え、ええ。気をつけてね」
「ありがとう。あと、迎えの時間はいつもどおりでいいから」
「わかったわ」
 短い言葉を交し合い、アマデオは父親を半ば押しのけるようにして椅子に座ったままの母親へと抱きつく。更には最近、恥ずかしがってあまりしてくれなくなったキスを、先ほどランドルフがしたのとは逆の頬に落とされた。そのきっかけがどこにあるとしても、こんな不意打ちのプレゼントは嬉しすぎる。無意識に全開の笑顔を浮かべて、彼女は息子の細い身体を強く抱きしめた。
「……俺がした時より嬉しそうな顔だ」
「それ、きっと愛情の差だよ」
 母親の腕から抜け出した少年は、ぼそりと不満を漏らす父親の腕を捕まえてあっさりと告げる。この反撃はさすがのランドルフも予想しきれていなかったらしく、ぽかんと呆気に取られた顔になった。
「言ったでしょう? 手厳しい反撃を受けるって」
「……だな」
 くすくす笑いながら投げられた言葉に、苦笑を滲ませてランドルフが返す。そんな父親には目もくれず、アマデオは小気味よいほどさわやかに微笑んで、母親に手を振った。
「それじゃあ母さん、また後で!」
 マデリーンへと何か言おうとしている父親にその隙を与えないまま、少年は自分より身体の大きな相手を引きずって行く。
 玄関前のクローゼットでまたなにやらやり合っているのが聞こえてきたけれど、それもすぐに分厚い玄関の扉に阻まれ聞こえなくなる。
「……あの子、もしかして父親より大きな器をもってるんじゃないかしら……」
 ようやくそんな感想がマデリーンの唇から零れ落ちた時、一人残されたリビングはあたたかな静寂に包まれていた。