かぶ

真実の目覚める時 - 36

 いつも以上にたっぷりとした朝食を終えたマデリーンは、先ほどまで仮眠を取っていたソファの上で食後のコーヒーを口元へと運びながら、書斎に何かを取りに行ったランドルフを待っていた。
 本当に、これは夢ではないのだろうか。昨日の今頃は、苦しさと哀しさに苛まれて細っていたというのに、今はあまりにも違いすぎる。寂しいなんて感情が浮かんでくるような余裕はないし、苦しさは少しばかり感じているけれど、それは与えられる愛情があまりにも過ぎるから、なんていう、実に贅沢な理由からだ。
 もしもこれが夢なのなら、永遠に見続けていたい……
「……ぼんやりして、一体何を考えているのかな?」
 不意にかけられた声に内心では驚きながらも、表面上は何事もなかったかのようにあっさりと振り返る。
「別に、大した事じゃないわ」
「そう? ならいいが」
 あまり納得してない顔で答えながら、ランドルフはわざとらしく後ろに回していた手を前へと持ってきた。
「本当は昨日のうちにこれを渡そうと思っていたんだが……」
 苦笑がちに差し出されたのは、透明感のあるインディゴブルーと、色の濃い琥珀を思わせる茶色、色の違い以外はまったく同じデザインをした二台の携帯電話だった。折りたたみ式のそれはアクリルのような光沢を持つ材質でできていて、縦の中心に細長くサブディスプレイが黒い筋となっている。透明な光沢の奥へと目を凝らせば、青の方は銀色の、茶の方は金色の箔を思わせるテクスチャが透けている。シンプルだけれど品のあるそのデザインはマデリーンの好みにぴたりと合っていて、しばらくの間、彼女はそれらから目を離す事ができなかった。
「どうやら気に入ってもらえたようだね」
 満足の中に安堵を交えた声でランドルフが囁く。その声にようやくマデリーンは視線を携帯電話から夫へと戻して力強く頷いた。
「ええ、とても素敵だわ」
「それはよかった。君の好みはある程度把握しているつもりだったが、今回ばかりは少し自信がなかったんだ。なにしろこういうものは、ジュエリーとは違ってみんな画一的な見た目をしているしな」
「――これ、あなたが選んだの?」
 自信がなかったと口にしたのは真実で、いつもなら絶対に表には見せない苦労をうっかりと漏らしてしまった。けれど、ランドルフがしまったと口を押さえるより先に、マデリーンがぽかんと見上げてくる。その表情から彼女が考えていた事が読み取れてしまい、彼は深々と息を吐いた。
「マデリーン、頼むからもう少し俺を信頼してくれ。こんな事を自分で言うのも何だが、俺の君に対する独占欲は並じゃない。そんな俺が、君が身に着ける物や日常的に使うものを他の人間に選ばせるような真似をするはずがないだろう。第一、俺でなければ誰が選ぶというんだ?」
「誰って……その、アマデオとか、ケネスとか……?」
「ジュニアは息子だからぎりぎりで許容範囲内に入れてやれるが、ケネスは論外だ」
 訊ねられたからこそはじめに思いついた二人の名前を挙げたのだけれど、どうやらランドルフの神経を逆撫でしてしまったらしい。むっつりと顔をしかめ、不満も露に言葉を続ける。
「元々あいつは君に好意を抱いている。君はあいつをあくまで弟のような存在としてしか見てないかもしれないが、あいつは君を一人の女性として見てる。そんな奴に君のものを選ばせるなんて、敵に塩を送るようなものじゃないか!」
「まさか……」
「正直なところ、この間フランスに行った際、あいつから君へと言付かった土産も突き返してやりたかったぐらいだ。さすがに大人げないと思ったからそうはしなかったが、君が喜ぶ顔を見たとたん、やっぱり引き受けなければと真剣に後悔したんだ」
「――それでも十分大人げないと思うのだけれど?」
「何とでも。君に関してだけは、俺の理性は正常さを失うんだ。自覚はしているし、不治の病だと認めて受け入れているからまったくもって問題はないよ」
 いっそふてぶてしいまでの態度で宣言する夫に、マデリーンは耐え切れず頭を振り振り笑い出す。
「まったくあなたときたら。これまで一体どれだけ猫を被ってたというの?」
「そりゃあ、被れる限りの猫を」
 ジョークにジョークを返し、ランドルフは小さく咳払いをすると話を元に戻した。
「これの使い方はわかるかい?」
「電話をかけるだけならできると思うけど」
「十分だ。あと、これにはショート・メッセージ・サービス(SMS)というものが付いていてね、文字でメッセージを送りあう事もできる。だから確実に何かを伝えたい時は、そちらを利用した方がいい」
「……使い方、覚えられるかしら」
「大丈夫さ。覚えられるまで何度でも教えるし、実際に使っていればいずれは身に付くさ。ああ、そうだ。今更な気もするが、君はどちらを使う?」
 色違い二台の携帯電話を改めて差し出す。再びその意匠にうっとりと視線を落としたマデリーンは、束の間迷いを見せながらも、ほとんど迷いなくセピアを選んだ。
「やっぱり、君はこっちを選んだね」
「やだ、予想済みだったの?」
「言っただろう? 俺は君の好みを把握しているって。証拠に、ほら」
 彼女が選んだセピアの端末のフリップを開き、いくつかのキーを指先で押して登録済みの番号を呼び出す。一連の数字の上に表示されているのは、確かにランドルフの名前だった。
「この番号が俺の携帯だ。これを呼び出して通話キーを押せばそのまま俺に繋がるし、こちらのキーを押して『メッセージ送信』を選択すればさっき言ったSMSの画面が表示される」
「――待って。もう一度その番号を呼び出すところからやり直してくれないかしら?」
 早速次の画面を呼び出そうとする夫の腕に触れて注意を引けば、うっかり先走っていた自分に気づき、ランドルフは苦笑を漏らした。
「すまないマディ。じゃあ、もう一度初めからやってみせようか。――いや、そうだな。どうせなら一緒に操作しよう」
 言って、ランドルフは自分が手にしていたセピアの携帯電話をマデリーンに渡し、膝に置いてあった自分用の携帯電話を手に取る。ぱちんとフリップを片手で開くと、興味津々の顔で自分を見上げる妻に、どこかうきうきと指示を出す。
「今の画面が待ち受けだ。この画像なんかは変更する事もできるが、そのあたりはまた後で教えるよ。まずは電話帳の開き方だ。一番左上の見開きにした本のマークのあるボタンを押してごらん? そのままこのカーソルを……」
 あまり慣れない機械にはじめこそ緊張を見せていたマデリーンだが、元々頭の回転が速く、物事の呑み込みも早いため、三十分も経たないうちに基本的な操作については難なくマスターしていた。
「まあ、こんなものだろう。あとは実践するだけだ」
「実践って言っても、そうそう使う機会はないと思うのだけど」
 冷静に指摘する妻に、君ならそう言うだろうと思っていたよ、と苦笑を滲ませながら、ランドルフは口を開く。
「そんなもの、自分たちで作り出せばいい話だろう?」
「作り出す?」
「ああ。仕事中に暇を見て、俺は何度か君にメッセージを送るつもりだ。君はそれを読んで、どんな内容でもいいから返信してくれ。それに、まとまった時間が取れそうなら何時ごろに手が空くとメッセージの中で伝えるから、君が忙しくない限り、その時間に君から俺に電話をかけてほしい」
「でも、そんな事をして大丈夫なの?」
「もちろん。駄目な時は駄目だと伝えるし、よほど重要な商談の真っ最中でもない限り、俺の最優先順位は君だからまったく問題はないよ」
「……なんだか不安だわ」
 能天気にすら聞こえる夫の言葉に、マデリーンは深々と息を吐く。そんな彼女にからりと明るく笑い、ランドルフは続けた。
「いつも思うが、君は頭で考えすぎだ。もう少し心のままに動くのも必要だと思うよ」
「そうできたらいいのだけど」
「そっちの方もいずれ俺がレクチャーしてあげよう。だが、今はこっちが先だ。俺がメッセージを送ったら必ず返信する。よほど都合が悪くない限りは、俺が指定した時間に電話をかけてくる。この二つ、約束してくれるかい?」
 まるっきり子供じみた我が侭でしかないが、こんな要求をされる事さえ嬉しくて、本当にいいのだろうかという懸念を頭から無理やり追い出すと、マデリーンはようやく頷いた。
「わかったわ、約束する」
「マディ、ああ、マディ! 嬉しいよ。これでつまらない仕事中でも楽しく過ごせそうだ」
 感情のままにマデリーンを抱きしめて顔中にキスの雨を降らしながら、ランドルフは鼻先が触れ合う程の距離で愛しい青の双眸をじっと見つめる。
「だけどマディ、君からも自主的にメッセージを送ったり、電話がほしい時はそう連絡してくれていいんだからね? いや、むしろそうしてくれ。俺からばかりメッセージを送ったり電話をねだるのは不公平だろう?」
「そうね……。なるべく努力するわ」
「ぜひそうしてくれ。君からのメッセージなら、本当にどんな些細な事でも構わないよ。待っているからね?」
「はいはい」
 くすくすと笑って夫の肩にそっと頭を乗せる。穏やかに呼吸を繰り返し、寄り添ったまましばらくじっと互いの心音に耳を済ませた。
 テレビもつけていなければ、音楽も流していない。彼らの住まうアパートメントは比較的高層に位置しているから、地上のトラフィックも聞こえてくる事はない。和やかであたたかな沈黙は、ずっとこのままでいたいと心から願ってしまうほどに心地よかった。
「――ところでマデリーン。我が侭ついでにもう一つ、お願いがあるんだが」
「何かしら?」
 少し硬くなった声と不規則に早まる心音から夫の緊張を感じつつ、マデリーンはランドルフに先を促す。
「君がどうしてもと言うのなら無理強いをするつもりはないんだが、できれば今後、パートナーの同伴が必要なパーティには、君に来てほしいんだ」