かぶ

真実の目覚める時 - 37

 止めてしまった息を覚悟とともにそっと吐き出して、呼気の力を借りるように僅かに身体を離す。真正面にある濃い茶色の瞳の奥では、瞳孔が緊張のため小さく絞られている。心なしか伝わってくる体温がほんの少し下がったように感じられる。
「ドルフ……?」
「もちろん、嫌ならはっきりそう言ってくれて構わない。何しろこれは本当に俺の身勝手な願望だからね」
 ナーバスな笑いを漏らし、ランドルフは緊張を解すためにゆっくりと呼吸を繰り返す。鼓動が少し落ち着きを取り戻すのを待って表情を改めると、まるで事業提携を切り出すような平坦な調子で、彼に出しうる条件を提示する。
「君が懸念するすべての事項には必ず解決策を用意する。君をパーティに連れ出す夜は、臨時にシッターを雇うか、信頼の置ける人間にジュニアを預けるし、会場で長くすごすのが苦痛なのなら、俺としては君とダンスの一つや二つ踊りたいところだが、最低限の義務を果たし次第すぐに帰るようにしよう。ビジネスや政治的な会話に混じるのが苦手なら、君は俺の背中に隠れていてくれたらいい」
 淡々と出される提案を聞きながら、マデリーンは浮かんでくる笑みを押し殺すのに苦心する。
 まったく、なんという事だろう。彼は自分の願いを口にする事で妻の気分を損ねるのではないかと、もっと酷ければ嫌われてしまうのではないかと恐れているのだ。
 彼を臆病にさせた責任の一端は確かに自分にある。けれど、ああ、自分がランドルフにとっての弱点なのであるのだという実感が、奇妙な満足感をマデリーンの胸に湧き上がらせる。
「どうしてって、訊いてもいいかしら?」
「理由が必要かい?」
「ええ。知りたいわ」
 戸惑う夫へきっぱりと頷けば、やれやれと息を吐いてランドルフは指折り数えはじめる。
「まず第一に、これ以上君に心痛を与えたくないからだ。俺としては、君に嫉妬してもらえるというのはむしろ嬉しい限りなんだが、それが原因で君に距離を置かれてしまうのは本意ではない。第二に、俺に対する世間の間違った認識を正したいんだ」
「あら、気にしてないって言ってなかったかしら?」
「それは君が俺の風評をどうでもいいと思っているのだと誤解していたからさ。主体性がないと思われるかもしれないけどね、俺の価値観ってのは多大に君に左右されてるんだ。だから君が気にしないなら俺も気にしないし、君が気にするなら俺も気にする。それだけの事さ」
「それだけって……」
「今回の事で、実は君が気にしていたとわかったからね。さすがにクリーンなイメージを取り戻すのは難しいだろうが、可能な限りあの不名誉な風評を拭い去ってみせる」
 真摯な瞳を向けてくる夫に、マデリーンは純粋な微笑を向ける。その意味するところを正確に読み取ったランドルフは、少しばかり復調した様子で言葉を続けた。
「第三に、君を見せびらかしたいからだ。俺の妻が如何に美しく聡明で、母として、妻として、他の誰も比肩できないほどに素晴らしい女性なのだという事を、世間に知らしめたいんだ」
「……思うのだけれど、あなた、私に対して過剰評価が過ぎるんじゃないかしら」
「まさか! 君が見た目のみならず心も美しい女性である事は確かな事実なのだし、学術的な方面でも実際的な方面でもとても賢いという事も嘘じゃない。家事能力だって完璧と言って差し支えないし、何より家族に対する思いやりや愛情の深さを思うにつけ、君以上の女性が存在しうるとは思えない」
 こんな風に賞賛される事には慣れていないせいで、嬉しさよりも羞恥が先に立つ。恥ずかしさに熱くなった頬に手を当てながら、嬉々として言葉を綴る夫に向かって、これ以上の言葉には堪えられないとばかりにマデリーンはきっぱりと告げた。
「そんな風に華美な装飾をつけて紹介されるというのなら、断固として同行を拒否します!」
「それは困る」
 拒否の言葉がマデリーンの唇から零れ落ちた次の瞬間、ランドルフは緩んでいた表情を一気に引き締める。
「正直なところ、この程度じゃまだまだ君を表すには足りないぐらいだが、できるだけ抑えた表現にするよう心がけるよ」
「……別に、何も形容してくれなくていいのだけれど」
 なんだかどっと疲れてしまった。深々と息を吐いて、すぐ目の前にある広い肩へと頭を乗せる。ふ、と空気で彼が微笑んだのが感じられ、落ち着かせるように背中を撫でる大きな手に安らぎを覚えた。
「最後に、これが実は一番の理由なんだが、やはり俺自身が君をエスコートしたくてたまらないんだ。他の人間なんて正直どうだっていい。付き合いや仕事の兼ね合いなんてものも二の次だ。ただ着飾った君をあちこちに連れまわして、軽妙な会話と共に上質な食事に舌鼓を打って、足がくたくたになるまで二人で踊りたい。それだけなんだ」
「なんだかそれってデートみたいじゃない」
 聞けば聞くほどそう思えてきて、マデリーンはくすくすと笑いながら率直な感想を漏らす。それに対するランドルフの反応は、実に明快な言葉だった。
「そのとおりだ。俺は君とデートがしたいんだ。それなら二人きりでどこぞに行けばいいって思うかもしれないけれど、どうせならその機会を利用して、周囲に対して君が俺のもので、俺が君のものなんだと知らしめたいんだ。それにはパーティが最適だ。なにしろああいった場に集まるのは、他人の事情を探っては噂するのが好きな連中ばかりだからね」
 君はどう思う? なんて訊ねられても、返す言葉なんて元からない。最終的に口にしなければならないのはイエスかノーの二つに一つ。そしてランドルフがこれまでに切々と繰り広げてきた説得が、マデリーンの決意を固めつつある。
 そんな心の動きを敏感に感じ取り、ランドルフが穏やかに、しかし期待を込めた声ではっきりとした結論を促す。
「それで、どうかな。俺に、パーティで君をエスコートするという僥倖を与えてくれるかい?」
 どうせ答えなんて初めから決まっていたようなものだ。ただ決まりきった流れに身を任せるのが少しばかり癪で、マデリーンはほんの少し、夫を試してみようと思いつく。
「答える前に、一つ質問をしてもいいかしら?」
「もちろんさ。何が知りたい?」
 あっさりと夫が頷くのを確認して、マデリーンはゆっくりと上体を持ち上げる。改めてランドルフと向き合ったマデリーンは、ぴたりと視線を合わせて静かな声で問うた。
「もしも私がノーと答えた場合、あなたはまた、他の女性たちを私の代わりにエスコートするのかしら?」
 彼女としては、どこまでも真剣な質問のつもりだった。けれどそれは彼にとって、うっかり笑ってしまうほどに可愛らしい懸念だったらしい。
 くっ、と喉の奥で殺しきれなかった声が上がったのがきっかけとなり、ランドルフは盛大に笑いはじめた。
「ああ、マディ、マディ、マディ! 君は本当に、妙なところで盛大に察しの悪さを披露してくれるね」
「……何もそんなに笑う事ないじゃない」
 あまりにも楽しそうに笑い飛ばしてくれたものだから、むっとしてマデリーンは夫から身体を離そうとする。けれどランドルフの動きの方が早く、あっさりとその腕の中に抱きすくめられてしまった。
「怒らせるつもりじゃなかったんだ。ごめんよ。だけどマディ、君はこれまで何を聞いていたんだい? たとえ君が、公のパーティには一生同行しないと言ったとしても、俺は二度と他の女性を君の代わりにエスコートするなんてしない。周囲になんと言われようが、媚びへつらってくる群れがうるさかろうが、君以外を俺の隣に置くつもりはないと、今度こそきっぱり示すよ」
「本当に?」
「ああ」
 迷いもためらいもないその返答は、マデリーンを満足させるに十分だった。
 所詮ポーズでしかないと自分でもはっきりと気づいていながら、彼女はやれやれと首を振った。
「――なら、仕方ないわね。まさか本当にあなたを一生一人で公の場に出すわけにも行かないから、今後は私も一緒に参加してあげるわ」
 どこまでももったいぶり、上段に構えて結論を口にする。
 もしもこれがマデリーン以外の口から出た言葉なら、ランドルフはきっとそんな言い方をされるのならば結構だ、とこちらから断っていただろう。しかし相手は十年以上も意味のない片思いを続けてきた最愛の妻であり、ようやく念願がかなえられるのだ。彼女がそんなものを願うとは思えないが、夜会へ参加するたびに、最高級のドレスと装飾品を一揃い買い揃える事、なんて条件が付けられていたとしても、ランドルフは喜んで受け入れただろう。今なら天に輝く星を手に入れろと言われても嬉々として実行するかもしれない。
 強烈な喜びが全身を駆け抜け、ランドルフは快哉を叫ぶと感情のままに妻を強く強く抱きしめた。
「ありがとう。その言葉が聞けただけでももう満足だ。本当に……ありがとう」
「これくらいで……本当にあなたってば大げさが過ぎるわよ」
 ぎゅぎゅうと強い力で抱きしめられているため、声が苦しげになってしまうのは仕方がないだろう。だがそれでも、自分の言葉に対してランドルフが見せた感情の発露を嬉しく思っているのがじんわりと滲み出ている。
「だけど本当にいいのかい? 君の意思に反する事は絶対にしたくないんだ」
「馬鹿ね。嫌ならちゃんと嫌だって言うわ。だから何年もの間、私は社交界から離れていたのでしょう?」
「いや、確かにそれはそうだが……」
 今更に懸念を浮かべる夫の気弱な様子に思わず笑いが漏れる。宥めるようにその頬に触れ、マデリーンはそっと微笑んだ。
「それにあなた、私のために尽力してくれるって言ったでしょう? なら、何も問題はないわ。違って?」
「ああ……ああ、そうだな。俺は君のためなら、どんな難敵だって排除してみせる!」
 もう一度、今度は多少の加減をしつつも強く妻の身体を抱きしめる。痛いわ、と腕の中でマデリーンが呟くけれど、その声にも頬にも笑みが宿っているのがばればれでは、解放されるまでには少しばかりの時間が必要そうだった。