かぶ

真実の目覚める時 - 39

「まったく、朝っぱらから人の心臓を止めるような真似はやめて下さい。本当に、一体何事かと真剣に心配したんですからね!」
 午後からの予定に間に合うようにと、ランチタイムの終了十分前にオフィスに到着したランドルフを待ち構えていたのは、果てしなく機嫌の悪い青年秘書だった。
 出会い頭に挨拶さえ交わす間もなく文句を投げつけられたランドルフは、せっかくマデリーンと心地いい時間をすごしてきたというのに、その気分を台無しにされて一気に盛り下がってしまう。
「それについては、電話ですまないと伝えたはずだが?」
「そうですね。ですがその後の件についてはまだ謝罪を受けていません」
「……器の小さい男だな」
「どうぞお好きに仰って下さい。僕はただ、あなたの気まぐれに振り回されるのが気持ちのいい事ではないと言いたいだけですから」
 しれっと毒を吐くケネスに、ランドルフは形のいい眉をはっきりと歪める。
「お前が何をそんなに気に入らないのかは知らないが、俺が私事都合で急に休みを取ったのは今回が初めてのはずなんだがな」
「そう、ですね。確かに個人的な都合で予定をキャンセルされたのは初めてでした。ですが僕が言っているのは……」
 どうやらケネスはまだまだ言い足りないらしいが、ランドルフにはそれにいつまでも付き合ってやるような暇はない。
「ケネス。俺に言いたい事があるなら、後で時間を作ってやる。だがな、仕事を目前にしてグチをぐだぐだ漏らすのはやめろ。モチベーションが一気に下がる。お前も上を目指しているんなら、その程度の配慮ぐらいはできるようになれ」
「――申し訳ありません」
「それでいい。さあ、さっさと今日の予定を読み上げてくれ。昨日から何か大きな変更は出てるのか?」
「いえ、今朝の件で若干スケジュールを調整しましたが、特に大きな変更はありません。まずこれからですが――」
 さっきまでの様子はどこへやら、いつもどおり秘書としての体面を取り繕うケネスに、ランドルフはもう一度内心で苦く息を吐く。
 こういう切り替えの早さはケネスの長所だが、時々納得していない事までも呑み込んでしまうのが難点だ。しかも感情の隠し方が巧妙なため、相手が抱えている不満や鬱憤に中々気づけない。
 こういうところはマデリーンに似ているなと無意識に考えて、改めて顔をしかめる。もしケネスがマデリーンと同じように不満をずっと抱えていたのだとすれば、それは見えないところで膨れ上がっていたのかもしれない。だとすればやはり、無理に時間を作ってでも話を聞くべきだろう。
「……以上になりますが、質問などございますか?」
「いや、特にはないな。――ああ、待て、一つあった。お前、今日は就業後時間あるか?」
「特に予定はありませんが、何か?」
 残業だろうか、とあからさまに顔をしかめるケネスを見て、ランドルフは低く笑いを漏らす。
「この際だからな、一度腹を割って話をしよう。言いたい事があるなら何でも聞いてやるから、暇を見つけて言うべき事をリストアップしておけ。そうだ、それからもう一つ」
「はい?」
「今週末から来週にかけてで招待を受けているパーティの中から、ある程度格式のあるパーティで、今からでも参加表明が可能なものを二、三ピックアップしてもらえないか?」
 思いもよらぬ指示に、ケネスが僅かに戸惑いを浮かべる。
 基本的に、ビジネス上の兼ね合いや付き合いなどからどうしても参加しなければならないもの以外には、よほどの事でもない限り参加しないランドルフだ。一体どんな心境の変化なのだろうかといぶかしんでいるのがその表情からありありとうかがえる。
「ええと、……パーティ、ですか?」
「ああ。詳しくは覚えていないが、いくつかあったはずだ。選別の基準はお前に任せるが、いろいろ都合もあるから、できれば今日の三時までにはリストがほしい」
「それは構いませんが……選んだものに対して、参加の連絡を私からしておきましょうか?」
「いや、一度確認してからになるから、そうだな……遅くても明日の朝にはどれに参加するか伝えるよ」
「かしこまりました」
 スケジュールの空白部分に下された指示の内容を一通り書き込み、もう一度雇い主に視線を向ける。
「他には何かございますか?」
「特にはないな。お前は?」
「私は……ああ、そうでした。こちらを」
 うっかりと忘れていた書類と郵送物の束を差し出すと、上司はありがとうと短く返しながらそれらを受け取る。その様子に妙な違和感を覚え、ケネスはランドルフをじっと見つめた。
「……どうかしたか?」
「すみません、特に……」
 言いかけたところで違和感の正体に気づき、言葉を切る。
 ランドルフはいつも、大粒のダイヤがはめ込まれたシンプルな金のネクタイピンを付けているのだが、今日は銀色の――これは多分プラチナだろうプレートに、小粒ながらもスターの入ったサファイアのネクタイピンを付けていた。
「珍しいですね、いつものネクタイピンはどうされたんですか?」
「ん? ああ、これか。似合わないかな?」
 どこか照れたような顔で問い返してくる上司に、ケネスはお世辞ではなく首を振る。
「いいえ、とてもお似合いですよ。新しいものなのですか?」
「新しい、というか……まあ、そうだな。人からの貰い物なんだが、相応しくないような気がして中々付けられずにいたんだ」
「相応しくないって、何か曰く付きのものなんですか?」
「これに曰くがあるんじゃなく、俺の心情の方に曰くがあったんでね」
 どこか苦い口調でそう返し、ランドルフはケネスを振り返る。
「だが、似合っていると言われて安心したよ。お前はこういうところでは見え透いた世辞は言わないからな」
「女性相手ならともかく、あなたに大してお世辞を言ったところで何も得しませんから」
 ひょいと肩を竦めてフランクに返す秘書に、ランドルフは明るい声を上げる。
「ったく、お前はどこまでも正直な奴だな。――だが、それでいい。自分の心を偽ってまで世辞を言って人にへつらう必要はない。必ずしも人の上位に立てとは言わないが、せめて対等であれ。相手がどう考えても目上か、もしくはこちらに百パーセントの落ち度がある時以外は、下げたくもない頭を下げる必要はない。多少のおだては必要だが、無駄に増長させてもいい事なんてめったにないからな」
「――はい」
 不意打ちのようなそれらの言葉を、ケネスは手帳ではなく記憶と心に深く刻み込む。こんな風にして唐突に伝えられるランドルフ自身のビジネスマンとしての心得は、他では決して得る事などできない、まさしく千金の価値ある言葉だった。友人たちの中にはケネスと似た立場にある者や、独立して自らの力を試している者、いまだ企業の歯車としてあくせく働きながらもじりじりと、しかし着実に地位を上げている者、また、すでに有名企業のジュニアパートナーの座を手に入れた者さえいる。
 だがその中の誰一人として、ビジネスを円滑に進めるための手段や方策を教えられたり人脈を分け与えられはしても、「あり方」という、最も根源的な部分については暗中模索でいる事が多い。せいぜい著名人の自伝などを読んで、知識として学ぶ程度だ。
 そんな彼らと比べても、自画自賛するわけではないが、ケネスは自分の方が、より多くを学んでいると思っている。この人こそはと信じる相手に、まさしく手塩をかけて育てられているのだ。
 だからこそ、多少の不満や反感ぐらいなら呑み込む事ができていた。
「俺からは以上だ。二時にバーナードが来る予定だから、到着したら呼んでくれ。それまでこの書類の山を片付けておくよ」
「了解しました。では、失礼いたします」
 ぱたりとシステム手帳を閉じ一礼をする。毎日繰り返しているおかげですっかり身についてしまった作法で踵を返すその目の端で、ランドルフが見慣れない携帯電話を取り出すのに気づき、そうと意識せず動きを止めた。
 いつもならこのまま出て行くはずのケネスが立ち止まって自分を凝視している事に気づき、ランドルフも視線を上げる。
「どうかしたか?」
「そちらは、昨日購入された新しい携帯電話ですか?」
「ああ」
「番号をお伺いしていなかったように思うのですが」
 ランドルフの連絡先を把握しておくのはケネスにとっては責務の一つだ。だからこれも当然の事として訊ねたのだが、返された言葉は意外なものだった。
「これはプライベート用だ。誰にも番号を知らせるつもりはない」
「は……」
 確かに昨日、カタログをもってこいと命じられた時に、用途は私用だと聞いていた。しかしだからといって、ここまで徹底して個人用途にのみ使うとは思っていなかった。
「それではもう一台の携帯電話は……?」
「あれは初めから俺用じゃないし、すでに俺の手元にはない。――ああ、誰に渡したとか番号だとかは訊くなよ? 答えるつもりはないからな」
「そう、ですか」
 こんな風にきっぱりと蚊帳の外に放り出されるのはあまりに珍しい事で、なぜか一人だけぽつんと取り残されたような気分になる。けれどすぐに気を取り直し、秘書としての立場に戻る。
「煩わせてしまってすみません。それでは改めて、失礼いたします」
 もう一度礼をして今度こそランドルフの部屋を出る。さほど離れていない自分の席に戻り、座り心地のいい椅子に腰を下ろすと、混沌とした情報を整理するべく、彼は大きく呼吸をして目を閉じた。