かぶ

真実の目覚める時 - 40

 今日中に決裁が必要な書類すべてに目を通し、然るべき指示を出し終えた時には日は暮れていた。壁にかけてある世界時計はニューヨークが午後七時半を回っていると示している。
「……これでは夕食は望めないか」
 苦々しく息を吐き、手元のインターコムに指を伸ばす。
『はい』
「ケネスか。そっちの仕事はあとどれくらいで終わる?」
『そうですね……十分程度いただければ』
「わかった。終わったらこっちに来い」
『了解しました』
 短い言葉のやり取りを終えるや否や、ランドルフは胸元から携帯電話を取り出す。ショートメッセージを送ろうとして考え直し、唯一登録されている番号へとダイヤルする。四時過ぎに電話をかけさせたから、三時間ぶりに声を聞く事になる。これまでは一日の初めと終わりに彼女の姿を見るだけでも満足できていたというのに、文明の利器で繋がる事ができるようになったとたん、ほんの短い時間でもいいから声を聞きたいと望んでしまう。まったく、人間とはどこまでわがままにできているのだろうか。
 そんな事を考えながら予想より多くの発信音を聞いた後、慌てる妻の声が耳に届いた。
『ランドルフ? あなたなの?』
「ああ、俺だ。三時間ぶりだね。何も変わった事はないかい?」
『もう……たった三時間で、一体何が変わるというの?』
 これは苦笑だろうか。困ったような声に笑みが重なっている。
『それで、どうしたの? もう帰ってこれるのかしら?』
「……できればすぐにでも帰りたいのだけれど、残念ながらもう少し帰れそうにないんだ」
『え……』
 ぴりっと、何か不快な電流めいたものを感じる。それを感じるのは初めてではない。これまでにも、急に予定が変わったり、予定とは違った行動をするとマデリーンに告げた時、しばしば感じていた。ランドルフはずっとそれを、罪悪感から来るものだと思っていたが……
「マディ?」
『あ、いえ、別に大した事じゃないの。ただ、てっきり今日は早く帰ってくるものだと思っていたから、あなたの分も作ってしまっていて……』
 これは嘘だと、直感的に思った。言っている言葉に偽りはないかもしれない。けれどどこか取り繕ったようなよそよそしさを感じる。ああ、そうだ。あれはいつも、マデリーンが不自然に戸惑いを見せた時に感じていた予兆だ。あの感覚の後に続けられた言葉はどれもこれも取って付けたように感じたものだ。これまでも気にはなっていたが、大した事じゃないというのならそうなのだろうと無理やり自分を納得させていた。けれど本当に、それでよかったのだろうか?
 ほんの少し考えて、ランドルフは慎重に言葉を返す。
「――それはすまない事をしたな。参考までに訊きたいんだが、今日のメニューは何だったんだ?」
『ええと、その……あなたの好物よ』
「俺の? もしかして、チキンのトマトソース煮込みかい?」
『大正解。それも大いに作りすぎてしまって、アマデオには今、すっごく嫌な顔をされているの』
「ジュニアが?」
『ええ。何しろあの子、最近じゃすっかり飽きてしまったみたいで、時々チキンとホールトマトの缶詰が並んでるのを見るだけでも身震いしてるわ』
「……だけどマデリーン。あれはあいつの好物でもあったんじゃないのか?」
『え? いいえ、あれは――あ、いえ、そうね。そうだったわね』
 実に不自然にマデリーンが黙り込む。後に続く沈黙の中、不意に過去の会話がランドルフの脳裏に蘇った。その記憶とマデリーンの今の反応をあわせて考えれば、導き出される答えは一つ。
「マディ、今からちょっとしたゲームをしよう。君は俺の出す問いかけに、真か偽かで答えるんだ。いいね?」
『え? あの、ランドルフ?』
「いいね?」
 半ば強要する形で承諾の言葉を受け取って、ランドルフは早速最初の問いかけを口にした。
「第一問。チキンのトマト煮込みはジュニアの好物ではない。真か偽か」
『真、よ』
「では第二問。君はジュニアが、チキンとホールトマトの缶詰が並んでいるだけでも身震いするぐらいの頻度で、その料理を作っていた。真か偽か」
『……真よ』
「第三問。君がその料理を作っていたのは、ジュニアのためでなく俺のためだった。真か偽か」
『……………………真』
 答えが返ってくるまでの沈黙が段々と長くなるものの、返ってくる答えはどれもランドルフが期待するとおりのものであり、それは喜ばしさと同時に苦いものを彼の胸にこみ上げさせた。
 苦い息をそっと吐き出し、ランドルフは最後の問いを口にした。
「これ最後だ。君があれを作る時は、俺に早く帰ってきてほしい時だった?」
『――ええ、そうよ。そのとおりだわ、ランドルフ』
 観念したようにマデリーンが答えた瞬間、彼は無意識に革張りの肘掛を、みしりと音がなるほどの強さで握り締めていた。自分自身に対する怒りに呑まれぬようぎりぎりで感情を抑え込み、なるべく平坦な調子で告げた。
「……正直に答えてくれてありがとう。お礼と言うのもなんだが、やはり予定を変えようと思う。夕食は有り余っているんだったね? ならばもう一人分用意しておいてくれ。ケネスをつれて帰る」
『ケネス? あなたの用事って、ケネスの事だったの?』
 拍子抜けしたようなその声から、どうやら彼女は違う理由でだと思っていたらしいと想像する。
「ああ。幸か不幸か、俺が出なければならないような仕事は最近少なくてね。今日はケネスと腹を割って話そうかと思っていたんだが、君が俺を心待ちにしていてくれるようだから、家で話す事にするよ」
『でも、いいの? お仕事に関する事なら……』
「別に仕事だけの話じゃないし、ここで話すよりはそっちの方があいつも肩の力が抜けるだろう。いざとなれば泊めてやる事もできるな。うん、やっぱりその方がいい。あいつの事だからきっと自宅に帰ると言い張るだろうが、念のため客間も用意しておいてくれ」
『わかったわ。……帰ってくるの、待ってるわね』
「ああ。可能な限り早く君の元に戻るよ。――愛してる」
 するりと零れ落ちた言葉は、電話の向こうの妻だけではなく、当の本人まで驚かせた。けれど素直な想いなのだから何も恥じる必要もないと思い直す。
 ほんの少し待って、私も愛しているわ、と照れた言葉を幸せな思いで受け止めてから通話を切る。切る瞬間、興奮したようなアマデオの絶叫が聞こえた気がしたが、幻聴だと思い込む事にした。
「……お話は終わりですか?」
 不意にかけられた声にはっと振り返れば、オフィスの入り口付近で、実に気まずい体の秘書がこちらを見つめていた。
「お前、いつからいた?」
「そんなに長くはないですよ。可能な限り早く戻る、あたりですか」
 であれば、彼が入ってきたのは本当についさっきだったようだ。しかし、もしかすると一番聞かれたくない部分を聞かれてしまったのではないだろうか。
「ああ、一応ノックはしてますよ? 返事がないのでどうしたものかと入ってみたら、お電話中だったというだけで」
 先手を打たれ、不満を口にする事もできなくなってしまう。咽まで出掛かっていた言葉を無理やり飲み下し、その残滓をため息として吐き出すと、ランドルフはデスク上の書類をざっとまとめながら立ち上がった。
「それはすまなかったな。それより、もう出られるのか?」
「こちらは問題ありません」
「よし。なら場所を変えよう。荷物をまとめて、ジョージに車を回すよう伝えてくれ」
「わかりました。行き先はどちらです?」
「うちだ。マデリーンが夕食を作りすぎたらしくてな。ジュニアが片付ける手伝いをしてくれそうにないらしいから、その分をお前に回してやる」
 どうやらこれは想定外だったらしい。一瞬ぽかんとした後、慌てたように訊ねてきた。
「ですがランドルフ、あの……ええと、いいんですか?」
「駄目なら招待しない。メニュー自体はそんな大したものじゃないんだが、マデリーンは腕がいいからな。しかも大量に作ったらしいから、きっといい味が出てるだろう」
「マデリーンの料理でしたら、はずれはないと思いますが……ちなみに何なんですか?」
「チキンのトマトソース煮込みだ」
「それはまた平凡な」
 そっと笑いながらの返答に、らしくないと思いながらもランドルフは反応してしまう。
「文句を言うなら食わなくていい。俺が一人で片付ける」
「いえ、きちんといただきますよ。――ああ、なら急がなくてはなりませんね。僕も荷物をまとめますので、少し失礼します」
「ああ。そう時間はかけないつもりだから、お前も、急げよ」
「はい」
 軽い会釈をしてケネスは踵を返す。その顔に微かな焦燥が宿っていた事に、ランドルフは気づかなかった。