かぶ

真実の目覚める時 - 41

 痛む耳を押さえながら携帯電話を卓上に戻し、マデリーンは胡乱な視線を息子へと投げる。
「アマデオ……」
「大きな声を出しちゃったのはあれだけど、でも、僕が悪いんじゃないよ!」
 とっさに自己弁護をする息子に苦笑して、マデリーンはゆっくりと首を振る。
「ええ、そうね。確かにあなたは悪くないわ。だけどその過剰な反応はできれば抑えてほしいの」
 アマデオが叫んだ理由があまりにも明白なせいで、責めるに責めれない。半ば以上諦めの気持ちで息を吐き、マデリーンは食卓へと戻った。
 彼女が夫に伝えた言葉はかなり正確なもので、食べ物に対して感謝の気持ちを持ちなさいと躾けたはずの息子の皿は、ほとんど片付いていなかった。
 まあ、これは予想の範囲内といえば範囲内なのだ。日常の会話として夕食の内容を息子に問われ、深く考える事もなく答えを返した時の反応を思えば、こうなる事はわかっていた。
 正直なところ、マデリーン自身もまだあまり慣れていない。慣れてはいないけれど、こんな風だったらと胸の中で密やかに憧れていた情景が現実に起きているのだから、どうせだったら目一杯満喫したい。そんな一種開き直りめいたものがあって、彼女はこの非日常に溶け込む事にしたのだ。
「今朝も言ったけれど、あの人と私の間にあった誤解は解けたの。それが嬉しくて、ほんの少しばかり箍が外れちゃっているけれど、できればあなたにも、早く慣れてほしいわ」
「あー……うん、まあ、母さんが幸せなら僕はそれでいいんだけどさ……」
 はぁ、と苦い息を吐き、行儀悪く皿の上のチキンをフォークで突付きながら彼は短く問うた。
「だけど、本当に?」
 じっと見つめてくる息子が何を言わんとしているのか、その真意はわかる。マデリーンはまだ、夫に全てを伝えてはいない。夫から、全てを聞いてはいない。解決したのは一部の問題だけであって、彼女の心に重く圧し掛かっている懸念に対しては、少しばかり希望が見えたものの、はっきりとした結論は出ていない。
 そう。希望が、見えてきたのだ。
 まだランドルフ本人とは、この事について話をしてはいない。けれど今日の彼のイレギュラーな行動のおかげで、もしかしてという淡い期待が、そうかもしれないという可能性に変わりつつあった。
 ランドルフを送り出して二時間ほどした頃――ちょうど彼から届いた二通目のメッセージに返信をしたその直後に、昨日までは悪魔が鳴らす鐘の音のようにしか思えなかった電子音がアパートメントの中に響き渡った。一昨日に息子と交わした約束を忘れたわけではなかった。けれど昨夜からの幸せの余韻がマデリーンを少しばかり強くしていた。
『あの人が今朝、どこにいたのかご存知かしら』
 受話器を取り上げた相手を確認する事もなく、いつもの倣岸な声は急いた様子で言葉を投げてきた。
『まあ、あなたはご存知ないでしょうね。言っておくけれど、会社でも、商談先でもないわ。だってあの人、午前中はお休みを取ったんだもの』
 そんな事、言われずとも知っている。そう返しかけたものの、マデリーンはすぐに口を閉ざした。
『こんな事をお伝えするのは心苦しいのだけれど、あの人、数時間前まで私のところにいたの。私が今電話をしているのは、さっき起きたからよ。わかるでしょう? とてもね、すごかったの。おかげで私、あの人を満足に見送る事もできなかったわ』
 これを、たとえば昨日に聞かされていたりしたら、きっと先日のように体調に影響が出るほどまでに動揺していただろう。だが、まさかこんな事が起きるなんて! 全てが全てとは限らない。だけど今日に限っては、この電話を受けた事は、むしろ僥倖だとすら思えた。
「残念だけれど、何の事を言っているのかわからないわ。電話番号を間違えているのではなくて?」
『何ですって?』
「私の夫は、確かに今朝、午前中の全ての予定をキャンセルしたわ」
『え……』
 静かに事実を口にする。どうやらこんな反論は想定外だったらしく、これまでで初めて、彼女の――アリシア・ブルネイの声に、戸惑いが混じる。
「キャンセルしたけれど、あなたとは過ごしていないわ。だって夫は彼と私の息子を学校に送り届けた後、ここに戻ってきて、午後からの予定に間に合うぎりぎりの時間まで、私と一緒にいたのだから」
 告げる言葉には、微かなれどはっきりと勝利の響きが滲んでいた。
 まったく、どうしてこんな簡単な事に気づけなかったのだろうか。
 アリシアがこの悪意に満ちた電話をかけて来るようになったのは、マデリーンの記憶では十ヶ月ほど前。ケネスのアイディアを基に、ランドルフが肝煎りでプロデュースした、ジャパニーズ・フレンチレストランの落成パーティが行われた翌日だった。
 そのレストランの内装を担当したのが、モーガンヒルの仕事をはじめて請け負ったアリシアで、ランドルフは彼女の才能を素直に賞賛していた。だからきっと、一緒に仕事をしている間にも、そしてその落成パーティでも彼は彼女のセンスや手並みを褒めたのだろう。その言葉を自分に都合よく曲解し、本来ならば褒められるべき上昇志向が歪に育ち、彼女はマデリーンを実に遠まわしな方法で排除しようと画策しはじめた。
 当時は同じような嫌がらせ電話の他に、脅迫めいた手紙が届いていたりした事もあって、耳に馴染まない声はマデリーンにとって、純然とした新たな脅威にしか思えなかった。だから話の内容があのレストランに関する話題に終始していたという時点で、相手がアリシア以外にありえないのだと気づけなかったのだ。
 こんな簡単な事にも気づけなかったのは、きっとその時のマデリーンが、自分から進んで果てしなく深い暗闇の中に閉じこもっていたからだろう。ほんの少し冷静になって、落ち着いて考えてみれば明白だった事にさえ気づけなかった。そんな自嘲を抱きながら、マデリーンは穏やかに告げた。
「残念だけれど、もうあなたのはったりは通用しないわ。これまであなたに嫌な思いをさせられたのは事実だけれど、お互いにスキャンダルは嫌でしょう? だからこの事は、誰にも言わないでおきます。もちろん夫にも。だからあなたも、これ以上馬鹿な真似は……」
『馬鹿な真似? ふうん、つまりあなた、私の言った事が全部嘘だと思っているの?』
「そうでしょう?」
 冷静を装いながらも、一抹の不安が胸を過ぎる。それが声に表れていたのか、受話器の向こうで嘲りの声が上がる。
『今日の事は、言われたとおりブラフよ。半端じゃないくらい緻密なスケジュールにぽっかりと空白ができたと聞いたから、あなたを揺さぶれるかと思って使ったの。ああ、だけど彼、今夜はちゃんとあなたの元に戻るのかしらね?』
「どういう、意味……」
『彼、今日の就業時間の後、私のところに来る予定になっているの。どれだけの時間すごせるかはまだわからないけれど、仕事が終わったらすぐに来るって言ってくれたのよ。昨日の昼の続きがしたいって。ええ、そうなの。昨日は私たち、レストランでランチを取ったのよ。もちろん個室を取って。だって、ねぇ。周りに人がいては、いらない誤解を受けてしまうじゃない? まあ、どこからどこまでが誤解なのか、明らかにするつもりもないのだけれど』
 くすくすと隠微な笑みを浮かべ、彼女は重ねた。
『ほんの半日、一緒に過ごしたぐらいで舞い上がるだなんて! どれだけ愛されていなかったのか、あなた、自分でばらしたって事に気づいていないのかしら』
 ごきげんよう、愚かで哀れな貴女。そんな嘲弄と共に通話は打ち切られた。全身が凍えたようになっていたマデリーンが現実に立ち返ったのは、十五分後から少し暇があるから電話をしてほしいとねだる、夫からのメッセージを着信したと告げる携帯電話の電子音での事だった。
 彼の要望どおりに電話をかけ、来週にでもパーティに参加しようかと思うんだと、うきうきした声を聞いて、ようやく昨日からの事が夢ではなかったのだと思い直した。ワードローブからドレスを引っ張り出してこなければと告げた彼女に、ならば近々時間を作って一緒に新しいドレスを買いに行こう、もちろん選ぶのは俺だからなと囁くランドルフに、欠乏してしまった幸福感が満たされた。
 そして、今の電話だ。ランドルフが就業後に時間を作ろうとしていたのは、ケネスのためだった。だけどマデリーンがまた、ほんの少しの真実を明らかにしたおかげで、彼は急いで帰ってくるという。おかげでアリシアの嘘がまた一つ明らかになった。
 アリシアの言葉の全てが嘘とは限らない。けれどその大部分を聞き流せる心境になるぐらいには、彼女の発言に対する信憑性は薄れている。
「……ええ、そうね。確かに全部解決したわけじゃないわ。でも……もしかすると、あんな電話の事なんて、大して気にしなくてもいいんじゃないかって思えるようになったの」
「――まさかとは思うけど、また? でもって僕があんなに言ったのに、出たとか?」
 まったく、この子供はどこまで敏いのだろう。ちょっとした仄めかしから、見事に正鵠を射てしまうなんて、いっそマインド・リーディングの才能を持っているのではないだろうか。
 そんな馬鹿げた事を考えてしまうくらい、アマデオの言葉は図星を突いていた。
「ごめんなさい。実は、つい。でもね、おかげで、これまでにもちらほら見えていた綻びが大きくなったの。だから……」
「あ、やっぱり全部嘘だったんだ?」
 あいまいに告げるたびにはっきりとした言葉に直してくる息子に、マデリーンはとうとう諦めの息を吐いた。
「あなたってばきっと、最高の検事になれるわね……」
「検事かぁ……どうせならFBIとかのが面白そうだけど。で、宇宙人とかレクター博士を追いかけるんだ」
「却下します」
 きらきらと目を輝かせる息子に冷静な言葉を返し、マデリーンは立ち上がった。
「さあ、さっさとそのチキンを食べてしまってちょうだい。まさかとは思うけれど、ランドルフとケネスが帰ってくるまで夕食を延ばすつもりじゃないでしょうね?」