かぶ

真実の目覚める時 - 42

 これは、一体何事なのだろうか。
 もう何度目になるのかわからない問いかけを、ケネスは胸の内で呆然と呟いた。
 帰りの車の中、鼻歌でも歌いそうなほどに上機嫌なランドルフの様子をはっきりと異常だと思っていたのだが、今となってはそれすら大した事じゃなかったような気がしてしまう。
 帰宅した夫とケネスを迎えたマデリーンは、相変わらず美しかった。丁寧に梳られた髪は、パステルイエローのカットソーにパールのネックレスをあしらい、女性らしい曲線を描く腰から下をアイボリーのパンツで包んでいた。マデリーンが選ぶ服装は、ほぼ常に彼女の身体にぴたりとフィットしており、身体の線を極端に強調する事も逆に隠す事もなく、そのままの自分を表現している。まるで誰かに見られることが必要だなどとはこれっぽっちも思っていないかのように。そしてこの考えきっと、正しい答えだろう。
 会うたびに改められる彼女への崇敬にも似た感情にぼうっとしている間に、エレベーターの中で脱いだコートを腕にかけたままのランドルフが、妻の身体を抱きしめた。
「今帰ったよ、ダーリン。待たせてしまってすまないね」
 あまりにもあまりな光景と言葉に、精神が恐慌を起こすかと思ったのだが、続いた会話に全身から力が抜けそうになった。
「そんなに待ってはないわ。夕食を温めなおすにはちょうどいい時間といったところかしら」
「つれない事を言うね。君は俺の帰宅を楽しみにはしてくれてなかったのかい?」
「そんな事、言ってないじゃない。期待してなくて、どうしてあなたの好物なんか作るのよ」
「確かに君の言うとおりだ。つい穿った見方をしてしまったんだ。俺を許してくれるかい?」
「許すも何も、初めから怒ってないわ」
 くすくすと笑うマデリーンは、ケネスがこれまで一度も見た事のない表情をしていた。まるで――そう、まるで、全てに満たされているような、穏やかな表情を。
 どういう事なのだろうかと唖然とするケネスは、そっと袖を引かれる感覚に視線を下ろした。
「気持ち、わかるよ。僕も今朝から、多分ケネスと同じ感想抱きっぱなしだから」
 どこか達観した表情で、一回り以上年下の少年が抑えた声で囁く。どうやらうんざりしながらも、両親の邪魔はしたくないらしい。
「今朝から? ならあの人が今朝、仕事を休んだのは……」
「母さんと一緒にいたかったからって言ってた。おかげで僕は、まるっきり邪魔者扱いで、厄介払いされるペットみたく学校に送還されたんだ」
 深々とため息を吐きながらも、少年の表情は明るい。それも当然だろう。両親の仲が上手く行っているのを目の当たりにして不機嫌でいられるなどめったにない。特にそれが、これまで夫婦間のぎこちない家庭だったならば、だ。
 けれどケネスとしては、あまり素直にこの状況を迎合できそうにはなかった。
「父さん、いい加減にしないとケネスが呆れて帰っちゃうよ。母さんも、せっかく温めたチキンが冷めてもいいの?」
「あ……その、ごめんなさい、ケネス。よく来てくれたわね。ええと、コートを預かるわ」
 息子に声をかけられるまで、完全に夫しか見えていなかったのだと、その気まずい表情から読み取れた。胸を刺す痛みには気づかぬ振りをして、ランドルフと同じく、前もって脱いでいたコートをマデリーンに渡す。
「いえ、気にしないでください。少しびっくりしたのは事実ですが」
「ごめんなさい」
「謝る事はないだろう? これが夫婦の本来の姿なんだから」
 マデリーンにハンガーを手渡しながら、ランドルフは拗ねたように呟く。受け取ったハンガーにケネスのコートをかけたマデリーンは、当然のような態度で手を差し出す夫の手に、客人のコートを預けた。あまりにも自然なその流れに、ケネスはまたしても強い戸惑いを感じた。
 そしてそれは、マデリーンに促されてダイニングテーブルに着いてからも続いた。
 ケネスの知る限りでは、マデリーンが配膳をする間、ランドルフはホストの責務として客をもてなす事に重きを置いていた。けれど今夜のランドルフは腰を落ち着ける事もせず、ケネスに酒を勧めるだけ勧めて、自分はマデリーンの後を追ってキッチンへと入った。そして彼女が運ぼうとした料理で一杯のトレイを巧みに奪い、自ら率先して給仕の役を務めた。挙句、苦笑ぎみに夫を追いかけたマデリーンをテーブルから数歩の距離で止めて、完璧な態度で彼女の席までエスコートした。引いた椅子に座らせる際、さりげない様子で肩から腕に手を滑らせ、頬にキスを落とす事も忘れずに。
 夕食の間も、いつもなら仕事に関する話がメインで、マデリーンは一緒の席に着いていながらも、わざわざ会話に入ろうともせず、黙々と食事を摂るというのがパターンだった。だけど今夜は仕事の話など欠片ほども出ず、先日のパリ出張の際に見た風景の話や、食事に対する賞賛、仕事仲間との間に起きた面白おかしい話の披露に終始して、積極的にマデリーンを参加させようとしていた。もちろん、折に触れて彼女を熱く見つめ、その手を取り、時には取り上げた指先に口付けまでした。ケネスの視線を気にして恥ずかしがる彼女はとても愛らしかったけれど、それがランドルフによって引き出されたものだと思うと、やけに複雑な心境になってしまう。
 しかもそれが、真正面で繰り広げられているのだ。
 ケネスはここにランドルフと話をするために来たはずだ。けっして上司夫妻によって繰り広げられるラブロマンスを見に来たわけじゃない。そして、そんなものは、叶うならば一生見たくなかった。
「……本当に、目の毒だよねぇ」
「え?」
 不意に隣からかけられた声に、ケネスは雇い主のミニチュアとしか思えない少年を振り返った。これだけは母親譲りの青い瞳に苦笑を滲ませて、アマデオが小さな声で囁く。
「僕はもう諦めの心境なんだけど、ケネスはまだ慣れないよね?」
「その……聞いてもいいかな? 何があったのか」
「うーん、実は僕も詳しくは知らないんだ。母さんから聞き出したところでは、昨日の夜に話し合いをして、それで誤解が解けたとか」
「誤解?」
「うん。聞いてつい叫んじゃったんだけどさ、父さんも母さんも、お互いに相手から愛されてないって思い込んでたんだってさ」
 笑っちゃうって言うか呆れちゃうよねぇ。そんな感想を口にして、隙あらば二人の世界を作り上げる両親に視線を当てる。
「それはつまり……」
「父さんも母さんも、本当はちゃんと愛し合ってたって事。だから父さんは、すれ違いだった十年を取り戻したがってるみたいだ。まったく、少しは周りの目も気にしてほしいんだけど」
「同感だ」
 しみじみとした二人分の呟きは、如何なる奇跡か、たった今までマデリーンを見つめる事に忙しくしていたランドルフの耳に届いたらしい。
「これまで人の目を憚り続けていたんだ。少しぐらい羽目を外しても構わないだろう」
「いえ、構います」
 きっぱりと返して、ケネスは苦々しく息を吐く。
「正直なところ、さっきからあてられっぱなしで。なんだかすごく居たたまれないんですが、今日はもしかして、早々に帰った方が良くないですか?」
「正直なところ、さっさと追い返したくてたまらないんだが、お前を誘ったのは俺だからな。きちんともてなしてからじゃなきゃ帰せない」
「ですから、今のあなたじゃそんな事無理でしょうと言ってるんですよ。帰ってきてから――いえ、帰る前からずっと、マデリーンしか目に映ってないし、彼女の事しか考えてないでしょう?」
「さすがは敏腕秘書だな。上司の状況をよく把握してる」
「無理やり褒めなくていいですよ。今のあなたを見れば、よほどの間抜けでもない限り、同じ結論を抱くでしょうから」
 呆れも露にずけずけと意見する。それを聞いてランドルフは明るい声を上げるが、彼に肩を抱かれたマデリーンは、恥ずかしげに視線を伏せた。
「なるほど、つまりお前は、自分は間抜けじゃないと主張したいんだな。だが、それについての判断は後で下すよ。食事が終わったのなら場所を移そう」
 カラン、と音を立ててフォークを皿に戻し、ランドルフがケネスにまっすぐ視線を投げる。
 ライスを二度、チキンは一度おかわりする程の旺盛な食欲を見せたランドルフは、食事などそっちのけの勢いでマデリーンに甘く囁いていたはずなのに、いつの間にか料理を綺麗に平らげていた。もちろん客という立場でありながら、途中からホストに放置されていたケネスが食事を終えていたのは言うまでもない。
「そう、ですね。今のあなたは、マデリーンが傍にいては他の事を全て忘れてしまうようですから」
「それは褒めてるのか?」
「褒めてません」
「――ドルフ、お願いだからそういう言動は慎んでって……」
 マデリーンが夫を呼ぶその呼び名に、声に、妙な艶が含まれているのを聞きつけ、どくり、と、妙な感じにケネスの心臓が音を立てた。
「慎もうとは一応、思っているんだよ? だけどマディ、君が傍にいるだけで、俺の理性ってものはまるでアイスのように実に容易く融けてしまうんだ」
「ドルフ……」
 恥じらいを見せながらも、マデリーンはうっとりと夫を見つめる。その視線にも表情にも、これまであった痛みや哀しみは混じっていない。むしろ以前からずっとあった夫への純粋な愛情に、間違いようのない信頼と幸福感が溢れていて、肌の内から輝いているようにさえ思えた。