かぶ

真実の目覚める時 - 48

 一週間とは一見長いように思えるが、実のところ意外と短いものだ。これが平凡な仕事以外何の予定もない人間ならば無為に時間が過ぎるばかりで短いとは思えまい。だが、予定が目白押しだったり、何らかのイベントが待ち構えていたりすれば、時はまさしくことわざどおり、矢どころか光の速さで過ぎ去っていく。
 常よりそれなり以上に忙しいケネスだが、モーガンヒル家に泊まった夜以来、寝る間すらないほどに忙殺されている。なにしろ目前には参加する予定のなかったパーティが迫っているし、その後には、自分の後継となる人間の選定や引継ぎのための前準備に取り掛かりはじめているのだ。
 諸悪の根源とでも呼ぶべきランドルフはもう始めるのかと無邪気に驚きの表情を浮かべているが、ケネスに言わせれば遅すぎるくらいだ。
 彼の上司は、確かにビジネス界で生きる上で必要なものを惜しみなく見せてくれるが、同時に自分の傍で働く人間に対する要求が並ではない。始めは素人でもいいかもしれない。だが、数ヶ月の内で一流の仕事をこなせるようになるだけの器量を持ち得ない人間では、ランドルフについていく事はできない。使えないと見なされれば、その時はきっぱりと切り捨てられるだろう。しかし逆に、何があってもついていくのだと一度覚悟を決めれば、そしてそれを体現しさえすれば、彼はどこまでも引っ張りあげようとしてくれる。それゆえに生半可な人間を後に据えようとは思えないし、迷惑をかけるわけにはいかないとも思う。
「本当に、あの人はこういった苦労を知らないからなぁ……」
 すでに内密にいくつかのビジネススクールや、転職を考えている知り合いなどに声をかけており、彼の元には何通ものレジュメが届いている。ここでもやっぱりランドルフ・モーガンヒルと言う名前の効果は絶大で、電話で打診した二時間後にバイク便でレジュメが届けられたりもした。
 さすがにどのレジュメも、それに添付されている推薦状もまさに珠玉で、うっかりすると自分自身が霞んでしまいそうに思える。アメリカのビジネス界では転職こそがステータスだという認識が一般的で、ケネスのように五年以上一人の下で働き続けるというのは、上を目指す人間としては珍しい。しかしいくら経歴が素晴らしかろうと、その人間性や実際の能力も素晴らしいとは限らない。まずはメールや電話のやり取りで軽く探りを入れて篩いにかけ、それから実際に会って話をするべきだろう。唯一の問題は、そのための時間が十分に取れるかというところだが……
「ええと、その……す、すみません、ミスター・ヒルストン。外線にお電話が……」
 控えめな声に顔を上げると、事務アシスタントの派遣社員がこちらを窺うようにしている。彼は一ヶ月前に入ってきたのだが、仕事がきちんとできる割に態度がどうもぎこちなくていけない。聞いた話では、以前の職場にて、彼のおどおどした態度が気に入らない、などという子供じみた理由で酷い扱いを受けた事から、一時は酷い対人恐怖症に陥ってしまったという。一年半にわたるカウンセリングを経た今ではこうして働いてもいるのだが、どうしても他人の顔色を窺う癖は抜けないらしい。
 邪魔をした、と思わせてしまっては一層萎縮してしまうと経験上知っているから、手にしていた書類をいったんデスク上に戻し、軽く姿勢を正して問いかけた。
「ありがとう。誰からかかってきたものかな?」
「あの、女の方なんですが、名前は名乗られなくて」
 これは、あまりいい傾向ではない。静かに判断を下しながら、表面上は穏やかさを保つ。
「……それは、私宛かい? それともミスター・モーガンヒルかな?」
「あなた宛です。ケネスさんを、と仰っておられましたから」
「取ろう。何番だ?」
「七番です」
 ありがとう、ともう一度告げて、ケネスは卓上電話から受話器を持ち上げ、深い呼吸を繰り返しながら、保留状態で点滅しているボタンを押した。
「ケネス・ヒルストンです」
『お仕事中ごめんなさい。今、大丈夫かしら』
 機械越しに聞こえてきた声に、一瞬で悪い意味での緊張が掻き消え、同時にいい意味での緊張が全身を満たす。大きく吐き出した息と共に、率直な心情が唇から零れ落ちる。
「驚いたな。あなたでしたか、マデリーン」
『もしかして、他の誰かの方がよかったかしら?』
 耳朶を、鼓膜をくすぐるような笑い声を上げる彼女は、いつもの気安さでからかいの言葉を投げてくる。
「まさか! 実のところ、電話が鳴るたびこれがあなたからなら、なんて思っているんですから」
『あらあら、ケネスってば、本当に口が上手くなったわね。これもあの人の悪い影響かしら?』
「やめて下さい。僕にはランドの真似は逆立ちしたってできません。先日の一件で、しみじみ思い知らされましたよ……」
 わざとらしくため息を吐けば、マデリーンも便乗して困った風な声を作る。
『このところ、顔をあわせるたび甘い囁き攻撃を受けているのだけれど、実のところ私もまだあまり慣れていないの。――だけどドルフったら、あんなセリフどこで覚えてきたのかしら?』
「あ、それ知ってますよ」
『え?』
「実はランド、ひそかにロマンス小説の大ファンで、新しい本が出るたびに一式僕に買いに行かせるんです。さすがに優秀な秘書の僕でもそれは中々の苦行だから、いつもモデル系美女の変装をしてレジに並ぶんですが、周り中から熱い視線で見られるのが正直困りもので。一度ならず強引なナンパに遭った事もありまして、世の中の女性の苦労を身をもって味わいました……」
 本日二回目の大仰なため息に、絶句していたらしいマデリーンが堪えかねて吹き出した。
『ああもうケネスったら! 一瞬本気にしてしまったじゃないの』
 僅かにも翳りのない笑い声は耳に心地よく、ケネスも穏やかに笑みを漏らす。
 そんな風にひとしきり軽口を叩き合ってからようやく彼女は本題へと入った。
『きっと彼の事だから、抜かりなく計画を立ててはいると思うのだけれど、ほら、もうすぐバレンタインデーでしょう?』
「……ああ、そうですね」
 言われてそういえばそんなものもあったかと思い出す。机上のカレンダーを見れば、それは半月後に迫っていた。
『ほら、これまであまり仲が思わしくなかったから、私ってばあの人にばかりまかせていて、ずっと何もしていなかったの。だけどようやく仲直りもできた事だし、今年は私が何かをしたいって思うのだけれど……』
「それはいい。きっとランドも喜びますよ」
 ちくちくと胸に突き刺さってくる棘を意識的に無視しながら同調する。ありがとう、と照れたように返し、ゆっくりと息を吸うのが聞こえた。
『ここからは質問であり相談なのだけれど、ケネス、秘密は守れる?』
 「大人にはナイショだよ!」と言い交わす子供のような声に、ケネスも精一杯まじめな顔を作る。
「もちろんです。神に誓って、ランドには何一つ漏らしません」
『いい子ね。なら、教えてあげるわ。私、ちょっとしたサプライズをしたいと思っているのだけれど、どの時間にあの人がどこにいるのか、実は全然知らないのよね。――ええ、もちろんあなたに訊けば間違いないとは思うのだけれど、万が一あなたが捕まらない場合は、誰に訊けばいいかしら?』
「そう、ですね……基本的なスケジュールなら、アポイントメント確認の関係もあって、秘書室の人間は大抵理解しているはずです。とはいえ、本当に基本的な事なので、臨機応変な変更には対応できませんが」
 無意識に秘書の顔へと戻り、淡々と事実を述べる。与えられた答えに相槌を返しながら、電話の相手は少し考えるように息を吐く。
『なら、たとえば突然私があの人の出先に姿を見せて、その後の時間を少し裂いてもらうとした場合、どれくらいの範囲に影響が出るのかしら?』
「そういう事なら前もって連絡をくれれば……」
『ごめんなさい。でもね、ケネス。私はこの計画を、どこまでも完璧にしたいの。もしあなたが前もって何時にどこで私が現れるのかを知っていては、その時間に当たり障りのない予定を入れてしまうでしょう? それじゃあ困るの。だって相手はランドルフよ? きっとすぐに見破ってしまうわ』
 どこまでも真剣な口調のマデリーンだが、言っている内容はまるでイタズラを入念に計画する子供のそれだ。彼女にもこんな面があったのかと、いっそ微笑ましく思いながら、ケネスは改めて考え込む。
「だけどそれではその日一日、重要な予定は入れられなくなってしまう」
『ええ、それも考えたの。だからね、前もってこの時間は絶対駄目だ、という事を教えておいてくれたら、それ以外の時間に襲撃するわ』
「襲撃、ですか?」
『そのとおり。それも奇襲(サプライズ・アタック)よ。本当はあなたにも秘密の計画にしようと思ったのだけれど、それじゃあドルフの予定を前もって知るなんて不可能になってしまうでしょう? だから妥協をする事にしたの。で、ついでに私の計画が、どれくらいの範囲にまで影響を及ぼすのかも知っておきたくて……』
 長年連れ添った夫婦は似ると言うが、どうやら本当らしいと考えを新たにする。まったく、どうして彼女はこうも彼の恋心を打ち負かしてくれるのだろう? つい最近まではランドルフの見せ掛けの素行不良に若干救われていたが、その真実を知った今ではこれっぽっちの救いもない。しかも二人の言動は計算ずくのものではなく、完全に無意識なのだから心底タチが悪い。
「わかりました。では、僕がうまく立ち回って影響を最小限に押さえるようにしましょう。で、ランドの行動予定ですが、今のところ、僕以外でもっとも詳細を知っているのは秘書室助手のアレックスですね」
『アレックス?』
 怪訝なその声に、そういえば彼女は秘書室のメンバーについてはあまり明るくないのだと思い出す。
「はい。先ほどあなたからの通話を受けた彼の事です。スケジュール調整に伴う細々とした事も彼に任せているので、どうしても伝える必要があるんですよ」
『そう……』
 何事かを深く思考する沈黙に、ケネスの胸がざわめく。何だろう。何かが引っかかる。考えれば、さっきからずっと、彼女らしくない言動が続いている。たった今まではランドルフとの仲が良好になった影響かと思っていたが、もしそうでなければ……?
「マデリーン。一体何を――」
『ケネス。そのアレックスには、あの人の予定を事細かに伝えているのね?』
 真意を問わんと口を開いたところで遮られ、口の中で不意打ちにわだかまってしまった言葉を何とか呑み込む。正直なところ、違和感は更に強まっているが、訊かれた事に答える方が先だと判断し、ケネスは軽く頷いた。