かぶ

真実の目覚める時 - 50

 世界経済の中心地とも呼ばれるアメリカニューヨーク州マンハッタン島。規模的には小さな島でありながら、そこには多種多様な人間が成功へのビッグチャンスを求め、無数に集う。環太平洋火山帯である西海岸とは異なって、断層やプレートの少ない東海岸の中でも、強固な一枚のプレート上に位置するこの島は気候について語る時、巨大な鉄板のようだと評される事がある。その意味するところは、夏は灼熱の太陽に焼かれ、冬は冷気に晒され氷のごとく凍える。本来であれば気温を巧みに調整してくれるはずの海流は頼りにならないどころか、むしろ寒暖の差を広げる手伝いをしているようだ。
 それでもこの地に憧れを、希望を抱いてやってくる人間は引きもきらず、成功者と敗残者が同じメトロの車両に乗り合わせ、同じカートで売られているプレッツェルを口にする。全てにおいて平等であり、同時に不平等である。それがこの街だ。
「まったく、不思議なものだな」
 正装に身を包んでゆったりとした革のシートにもたれたランドルフは、信号待ちの間、ぼろきれのような服に包んだ身を震わせながら歩くバッグレディが車窓の向こうへと消えていくのを眺め、小さく呟く。
 彼ら彼女らが本当に見た目どおりの存在とは限らないと、彼は知っている。物乞いのプロフェッショナルともなると、一日に数百ドルから千ドル近くを稼ぐ者もいるらしい。本当に食うに困っている者からすればとんでもない話だが、これも一種の路上パフォーマンスなのだと考えればある意味妥当な報酬かもしれないと思う。
 キリスト教徒が人口の大多数を占めるこの国では、貧しきものに与えるのは当然の事とされている。彼自身、道を歩いている際にカップや手を差し出されれば小額の紙幣を差し出す事はあるし、感謝祭やクリスマス、新年などの祝いの日にはモーガンヒル・グループを挙げて、恵まれない人々へあたたかな食事を届けるボランティアを行ってもいる。口さがのない人間はただの宣伝行為だと言うが、それは違う。教会に行く機会こそ少ないものの、敬虔なクリスチャンを自負する男にとって、富の一部を分け与える事はどこまでも普通の行いだ。
「不思議、ですか?」
 上司の言葉を鸚鵡返しに口にしながら、その視線の先を辿る。しかしその先には誰もおらず、一体何について評したのだろうかとケネスは内心で首を傾げた。
 通常であれば助手席に座るケネスだが、今日はお前もパーティの参加者なのだからと押し切られて後部座席に座っている。隣に座る男より幾分慣れない感じはあるものの、数年前に強く言われて作ったテイラーコートは彼の身体にしっくりと馴染んでいた。ただ、首元を飾るボウタイがどうにも気になるようで、先ほどから何度も手をやっては整えていた。その様子を見て、ランドルフは小さく笑いを漏らす。
「ただの独り言だ。それよりケネス。いい加減タイを触るのはよせ。緊張しているのか?」
「……まあ、若干。何しろあなたのお付き以外での参加は初めてですからね」
「ふん、別にそう気を張らねばならないものでもないさ。結局、こういうものは慣れが物を言うからな。内心はどうあれ、外面だけは自信たっぷりにしておけ。そうすれば侮られる事だけはない」
「あなたはそう言いますけどね。――精々努力しますよ」
 諦め混じりに肩を竦め、ケネスは首元に持っていっていた手を下ろす。隣に座る男性の咽元を飾るのは、正装には少しばかり型破りなアスコットタイだ。しかしその中心を止める黒真珠のピンが不思議な光沢を放つ濃いグレーのタイと実にしっくり合っており、下手に口出しをすると、逆に彼のセンスの良さを思い知らされそうでただ口を噤んでいた。
 特に交わすべき会話もないせいで、車の中には沈黙が満ちていた。とはいえ、それはけっして気まずいものではない。緩やかなエンジンの振動と響き、そして行き交う車の立てる音だけが聞こえてくる。ダウンタウンからイーストサイドへと北上すれば、ビル群はネオンへ、ネオンは閑静な住宅へと移り変わる。暗がりの中、それでも目を凝らせばセントラルパークの木の陰が、コンクリートの隙間から見える。
 メトロポリタン美術館は、世界中よりありとあらゆる芸術品を集めており、いかなる地域のいかなる時代に興味を持つ人であっても、決して退屈する事はないとされる。一つの展示品を一分ずつ眺めて回ったとしてもゆうに十三年かけなければ全ての展示を見る事ができない質量を誇り、更には各種文化展や特別展を間断なく企画しているため、本当の意味で完全に満喫する事は不可能とさえ言われている。
 今回のシルクロード特別展示もその一つで、事前に送られてきたリーフレットによれば、悠久の歴史と乾燥した大地に埋もれていた美術品をユーラシア大陸中の美術館や博物館からかき集め、歴史的な側面と純粋な芸術探訪を交えた種類の展示を行うらしい。美しいものに目がない女性客のために、精巧緻密なレプリカの販売も企画していると小さく書かれていたあたり、ちゃっかりしている。
「――ところで、一度ご自宅に戻るんですか?」
 ハンターカレッジを通り過ぎたあたりでふと思い出したように問いかけてきた青年秘書に、ランドルフはいや、と首を振る。
「このまま直接メトロポリタンに向かう」
「は? だけど今日は、マデリーンをエスコートするんでしょう?」
「そうだったか? てっきり俺は、お前をエスコートしてやる日かと思っていたんだが」
「……本気でゴシップ誌に電話しますよ」
 にんまりと笑う上司にどこまでも冷ややかな目を向けて、ケネスが低く唸る。それは困るとこれっぽっちも悪びれずに返し、彼は笑いを含んだ声で返した。
「いつもどおり、とでも言えばいいか。相手は向こうで待ってるよ」
「マデリーンが、ですか? それとも……」
「他の女か? ふん。そんな事、わかりきってるだろう? まったく、そうやって何事も一々確認せずにはいられないところは確かにマネージャー向けではあるが、あまり気を回しすぎると精神をすり減らすか、胃壁を削り減らすか、もしくは頭髪を減らすかのどれかに行き着くぞ」
「そうさせているのはあなたでしょうが」
 噛み付くような勢いで言葉を投げつけるのと、スムーズな動きで車が角を曲がるのはほとんど同時だった。
「そろそろ到着のようだな。ボウタイの調整はもういいのか?」
「今更ですし、これ以上どうにもなりませんから。あなたこそ、身だしなみはチェックしないでいいんですか?」
「必要があるか?」
 自信たっぷりに返され、いえ、と小さく笑を漏らす。それこそ慣れなのだろうか。スーツであれ正装であれ、長時間乗り物で移動をした後でも、彼の服にみっともないしわが寄っていた事はほとんどない。
「到着いたしました」
 静かな声でドライバーが告げる。軽いスモークのかかった窓越しにも、幾つものフラッシュが焚かれているのが見える。
「あれは?」
「間もなく到着との事です。――あ、参りました」
「そうか。では、出よう」
 雇い主と運転手の間で交わされた言葉の内容を理解しきれず、青年は無意識に眉根を寄せる。まるでこの会話を聞いていたかのようなタイミングで、ケネス側の扉が開かれた。こんな場で不審な顔をしているわけにはいかない。そうとっさに考えたケネスはポーカーフェイスを貼り付けると、俊敏な動作で車の外に出た。
 快適な温度に保たれていた車内と吹きっ晒しの外では実気温も体感気温もかなりの差がある。一瞬で体熱を奪われる感覚に身を震わせながらも、ケネスは直立の姿勢でランドルフを待つ。しなやかに降り立った人物が誰なのかに気づいたカメラマン達は、口々にランドルフへと視線を求めて声をかける。
 いつもなら自信に満ちた笑みを浮かべ、ほんの少しのサービスをしてやる彼だが、今日は違った。
 彼らが乗ってきた車のすぐ後ろにつけられた白いリムジンへと歩み寄ると、後部座席のドアを開けようとしていた青年を下がらせた。
「え?」
 ランドルフのような立場にある人間が、誰かのために車のドアを開けるなど、あっていいはずはない。明らかに開けた場所でのこの行動に周囲が気づかぬわけがなく、大きなどよめきが寒風に混じる。
 そんなざわめきなどまったく気にも留めずモーガンヒル・グループのCEOは、まるでお手本のような優雅な動きで車のドアを開けると、中にいる人物を外へと誘った。
 瞬間、あたりは真っ白な光で埋め尽くされた。
 そんな表現しか思いつかないまでにフラッシュが焚かれ、あまりの眩しさにケネスは手で目を庇い、光の乱舞が収まるまで強く瞼を閉じていた。
「ケネス」
 低い声の呼びかけに振り返る。見る前から、目に映るだろう光景を予想していた。ずっと見たいと思っていて、同時に絶対見たくないとも思っていた、その光景。
 それが目に飛び込んでくるまでに要したのは、彼の覚悟が決まるより遥かに短い時間だった。
 エスコートのため、というには行き過ぎなほどにぴたりと身体を寄り添わせたランドルフは、腕の中の女性の腰に左腕を回し、空いているはずの右手は黒いレースの手袋に包まれた左手をしっかりと握っている。首から胸にかけて手触りのよさげなボアのついた黒いロングコートはきっとカシミア地だろう。そうでなくてどうして彼女を愛しげに抱きしめる男の身に着けているコートとこんなにもしっくり馴染んで見えるのだろう。
 ここ何年もの間、ランドルフの隣を飾った女性は両手の指では足りないほどにいた。けれどその誰一人として、彼自ら迎えに立った事はないし、こんな丁寧な扱いをしていた事もない。つまり彼はこの短い時間で、最愛のパートナーが誰なのかを最も効果的に世間に知らしめたのだ。
 今夜のために特別な手入れをしたのだろうか。ふんわりとやわらかいラインを見せていた頬は記憶にあるよりすっきりとその高い頬骨を目立たせている。下ろされている事が多い髪も上品な巻貝を思わせる形に結い上げ、大粒の黒真珠が並ぶ髪飾りで止めている。形のいい耳から下がっている小粒の黒真珠を幾筋もの螺旋に連ねている耳飾りはそれだけで一財産になるだろう。
 こんな風に着飾っているマデリーンを見るのはあまりに久しぶりで、ケネスはしばしの間、本気で言葉を発せずにいた。それを知ってか知らずか、夫の腕に抱かれた彼女は輝くばかりの笑顔を青年へと向けた。
「こんばんは、ケネス。あなたの正装を見るのは久しぶりだけれど、とてもよく似合ってるわ」
「いえいえ、あなたのご主人には到底及びませんよ」
「当然だ。お前にそういう服が似合うようになるまで、あと十年は必要だろうな」
「ドルフったら、もう。……ごめんなさいね、ケネス。この人の悪口は気にしないでくれるかしら?」
「いつもの事ですし、どうせあなたが僕を褒めた事に対するやっかみだとわかっていますからね。初めから気にしてません」
 気安く言葉を交わしながら、自分の方へと差し出されたマデリーンの手に恭しく口づける。あからさまに気に入らない顔になったランドルフはあっさり無視して、ケネスは半身を翻す。
「さあ、早く中に入りましょう。どんな極上のコートでも、この寒さを完全には防ぎきれませんから」