かぶ

真実の目覚める時 - 52

 一般にシルクロードと言えば、ローマ帝国と古代中国の間で交易を行うために商人たちが辿った陸路をイメージしがちだが、広義を問うならば大航海時代までにユーラシア大陸全域で行われた国際交易を指し、その際に使用されたのは陸路と海路の両者を含む。
 今回の展示では、最も一般的と思われる中国-ローマ間で行われた陸路・海路の交易を中心と据えているらしく、当時のキャラバンで使用されていた道具や実際に売り買いされていたであろう美術品、また当時の様子を記した古書などが整然と並べられていた。中でも欧州の貴族や商人がこぞって求めたという中国原産の絹やボーン・チャイナと呼ばれた陶磁器の美しさ、ペルシア陶器でも特に名高いホラズム・ブルーのタイルは訪れた人々の目を、心を奪った。会場のそこここでうっとりとした溜息がもらされ、薀蓄を語る声がさざなみのように聞こえてくる。
 西と東の文化がそれぞれに影響しあい新たな芸術を生み出したその過程も歴史の時系列に沿って見ていけばなるほどと得心行くものばかりで、大して歴史に興味を持たぬ者であっても、悠久の時間と人々の交流が培ってきた文化の流れに心を打たれてしまう。
 それら展示の間を巡る間にも、ランドルフの顔を見知った人は儀礼に若干の好奇を滲ませて声をかけてくる。中には顔見知りもいれば、深い付き合いの相手もおり、それらの人々に、ランドルフは実に如才なく妻と自らの後継となる青年を紹介していく。
 結婚してからも短い間しかこういった場に姿を見せなかったマデリーンと違って、ある程度耐性があるつもりだったケネスも、紹介される相手が衆議院議員だったり大企業の創設者だったりと予想以上に格が上だったせいで久しぶりに手に汗を握っていた。しかも憧れの女性の前なのだ。うかつに失敗などできるはずもない。せいぜい虚勢を張る事にした。
 そして話題の中心となっているマデリーンだが、常に誰よりも頼りになる夫が寄り添ってくれているせいか、長年のブランクを感じさせないほど堂々としていた。元々頭もいいから受け答えに引けを取る事もなく、少しばかり過剰に褒めたりスキンシップを図ろうとするランドルフを巧みに抑えてもいる。けれどそうされるたびにほんのりと頬を染める彼女は誰の目にも明らかに確かな愛に包まれており、ゴシップネタを求めて近づいてきた卑小な人間たちは事実をまざまざと見せ付けられてすごすごと引き下がった。何よりランドルフのプレイボーイぶりを憂えていた人々は彼の真実がどこにあるのかをようやく確かめる事ができて、心底から胸を撫で下ろしているようだった。
 もちろん、こんな二人の様子を見せ付けられて心穏やかでいられない人々もその場にはいくらでもいた。
 著名人のスキャンダルを追いかける事に心血を注いでいるパパラッチやモーガンヒル・グループのトップの女癖を肴にしていた同業者たち、そして根も葉もありそうに見えた噂を真に受けて何とか上手く取り入れないかと画策していた野心に溢れた女性たちは、まさしく憎悪に満ちた目を向けていたのだ。
「……大丈夫ですか?」
「ええ。気にしてないわ」
 すれ違いざま物騒な視線を投げられたマデリーンへケネスが気遣いの声をかけるが、彼女はほんの少し顔を青ざめさせながらも気丈に微笑む。きっとこういった状況を前もって覚悟していたのだろうが、事あるごとに夫へ視線を向け、しっかりと腰に回されている腕を、強く握られた手を確かめる様子からも、まったく気にしていないのではないとわかる。当然その事にはランドルフも気づいており、そのたびに妻へと視線を向け、時には甘い言葉を囁いたり、もっと直接的に愛情の篭った小さな触れ合いを繰り返す。そして彼女を不安にさせた相手へは、はっきりとしたメッセージを込めて斬りつけるようにどこまでも怜悧な視線を向ける。
 こんな視線を受けて何も感じずにいられるのは、愚鈍なまでに鈍い人間か、逆に恐ろしいほど胆の据わった人間だろう。しかしこの会場には、どうやらそのどちらも存在しなかったらしい。ランドルフの視線を受けたとたん、そわそわと近くにいる人に話しかけたり、あからさまに彼の視界から逃れようと展示コーナーへ向かったり室内から出て行ったりと、実にわかりやすい反応を示す。
 今になって、マデリーンが夜会への出席を拒んだ理由を思い知る。婚約中も新婚当時は着飾った美しい妻の姿に目と心を奪われ続けで、知り合いと話をする時には、傍らの彼女にいいところを見せたいと、そればかりを考えていた。だから周囲がどんな思惑を含んだ目を彼女に向けていたのか、愚かしいと自分でも思うが、まったく気づいていなかった。
 訊ねたところではっきりした事は答えてくれないだろうが、彼の目の届かない場所ではもっと直截的な態度を取られる事もあったのではないだろうか。そして当時の彼女は自分の立つべき場所がどこなのかを、はっきりと知ってはいなかったのだ。恋する相手を周囲に見せつけ、その美しさにただ見惚れていた若造の自分に助けを求める事もできず、やんわりと公の場から離れたいと告げるしかできなかった。はじめこそその理由を繰り返し問うたものの、返ってくる答えが同じものばかりでいつしかその真意を探る事さえしなくなってしまった。妊娠してからはつわりや体調不良を理由に彼女の欠席を認め、息子が生まれてからは母親の役割を優先したいと言われて渋々認めたものの、その時にマデリーンが見せた安堵の表情が心に引っかかった。けれどそれも、不慣れな場に出なくてよくなったからだろうと、そう結論付けていたのだ。
「気づかなくて、すまなかった」
 人々から離れ、展示を見る振りをしながらランドルフが囁く。さすがに夫が何を言わんとしているのかを理解しきれず、マデリーンはきょとんとした視線を上げる。
「え……?」
「君が社交界に顔を出したがらなかった理由だ。君をエスコートできる喜びで浮かれていたせいで、周囲が君にどんな目を向けていたのか、本気で気づいてなかった」
「そんな……でも、今はちゃんと守ってくださっているでしょう?」
「今は気づいているからな。だが、昔は気づいていなかった。敵意に満ちた視線ってのがどんなに嫌なものか、俺自身も知っていたのに、君一人にそれを耐えさせていたんだ。本当に、できるものなら当時の自分を思いっきり殴り飛ばしてやりたいよ」
 苦々しく告げれば、一瞬驚いた顔になった妻は、しかし次の瞬間、柔らかな笑みを浮かべた。
「馬鹿ね。私は大丈夫って言ってるじゃない。確かに当時は辛かったけれど、出たくないって駄々をこねたらあなたは許してくれたし、アマデオを産んでからはずっと逃がし続けていてくれたでしょう? それにこれからはちゃんとあなたが気づいて守ってくれるんだから、何も怖い事はないのよ」
「君は……本当に、俺には過ぎた女性だよ」
 心底からの感嘆を込めて告げる。そんな事ないわ、と照れたように微笑む彼女は、欲目を抜きにしても美しかった。



 比較的広い部屋とはいえ、やはり限られた空間であり、また招待された客の人数も規模に見合ったものだったため、入場してから二時間も経った頃には、本来の目的であるケネスの顔繋ぎも一通りは終わっていた。そろそろ疲れただろうからと美術館のそこここに設置されているベンチにマデリーンを座らせたランドルフは、大いに振舞われているシャンパンで咽喉を潤わせながら、さてどうするかと考えていた。
 何しろ時間はまだそう遅くない。展示についてもある程度目立ったものはすでに見たし、オードブルがメインとはいえそれなりに腹も満たされている。まあ、アマデオへの土産を探すためにも物販コーナーへと足を運ぶつもりはあるが、それ以外に大した用事はない。ランドルフとしては、ケネスを帰らせた後、どこか近くのレストランあたりでマデリーンと二人きりの時間を過ごしたいというのが本音だが、久しぶりに不躾な視線を浴び続けた彼女は、目に見えている以上に疲れているかもしれない。もしそうならば、早く帰って疲れを癒してやるべきだろう。そんな事をつらつらと考えていると、不意に柔らかな声がかけられた。
「もしかして、お疲れかしら?」
 同じくシャンパングラスを唇にあてながら微笑む妻を見下ろしながら、ランドルフは怪訝に首を傾げる。
「うん? そう見えたかい?」
「そういうわけではないのだけれど、なんだか無口になってるから。そうね、正しい質問は、『何を考えてらっしゃるの』かしら?」
 いたずら好きの妖精を思わせる表情でマデリーンが見上げてくる。丁寧にセットされた髪は元の形をしっかり保ってはいるものの、うなじや額の生え際辺りからほつれ毛が僅かばかり影を落としている。人間は、完璧なものを前にするとどうにも怯んでしまいがちだが、同時にそこに若干の綻びを見つけるだけで、一気に親しみを覚えて距離を縮めてしまえる、実に現金な存在だ。彼自身もそんな一人で、あまりに完璧な姿でいられると触れていいものやらとためらいを覚えてしまう。けれど女神はいつだって彼を哀れんで、同じ地表へと舞い降りてくれる。
 汚れる事など気にもせずその場に膝を突くと、グラスを包む手を取り上げてその甲に口付ける。
「慈悲深き夜の女神。俺を哀れに思ってくれるなら、せめて一夜、夢を与えて欲しい」
「私は女神でもなんでもないし、あなたもけっして哀れなんかじゃないけれど、私でいいなら幾夜でも」
「君で、じゃない。君が、いいんだ。君以外が相手など考えたくもないし、それでは夢も最低の悪夢になってしまう。俺に至福の夢を与える事ができるのは、この世に君の他にありえないんだ」
「もう……やめてちょうだい。ほんの少ししか飲んでいないのに、アルコールが回ってしまうわ」
 歯が浮きそうなほどの美辞麗句に、マデリーンは首筋まで赤く染めて頭を振る。そのせいでまたはらりと一片の髪が乱れて額に落ち、ランドルフはその一筋をそっと指先であるべき位置に戻す。
「だがこれが俺の正直な気持ちだ。――ところでマデリーン。俺は今夜、君はいつにもまして美しいと伝えたかな?」
 救いがたいとばかりぐるりと目を回し、苦笑を滲ませながら軽く肩を竦める。
「……そうね、これでもう五十回目くらいかしら」
「たったの? 俺は今夜中にその十倍の数だけ君に愛を囁くと決めているんだが」
「ドルフ、お願いだから私が恥ずかしさのあまり爆発しちゃう前に止めてちょうだい。さもないと私、この場から逃げ出してしまうわよ?」
「それは困る。君に逃げられては、俺は絶望のあまり気が狂ってしまいかねない。だから……」
 囁きながら腕を伸ばして腰を上げる。視線をぴたりと合わせて最愛の女性へと腕を伸ばしかけたところで、ふと誰かが近づいてくるのが聞こえた。
「ランドルフ……お願いですからもう少し周囲の目を気にしてください。先ほどフォルトナー上院議員が、いい加減目に余ると僕に苦情を言いにいらっしゃいましたよ?」
「ジーザス、ケネス。お前、いつから出歯亀が趣味になったんだ?」
 盛大に息を吐き、ランドルフは確固とした足取りで近づいてくる青年を振り返る。目の端でマデリーンがほっと息を吐いているのが見えたが、今はひとまず目の前の邪魔者に文句を言う方が先だ。
「いつからも何も、趣味なんかじゃこれっぽっちもないです。あなたが心のままに愛情表現をしたいと望むのは勝手ですが、これでは逆効果です。僕はこれが素のあなただと知ってますが、他の人はそうは思わない。何か意図があってしていると思うでしょう」
「意図だと?」
「ええ。たとえば本命を隠すために本妻を表に出した、なんてね。――そんな顔しないでください。僕はただ、いつものように現実をお伝えしているだけなんですから!」
 険しい視線を向けられて、ケネスは諦め混じりに声を上げる。いつものように、という言葉に置かれた妙なアクセントは気に入らないが、確かに言われてみればそのとおりだ。
「ふん。口先だけはよく回る」
「そりゃあ、あなたについて習いましたから」
 悪態を吐くも、あんまりにもしれっと返されて一瞬鼻白む。いい加減にしろと言いかけたところで、ベンチに座ったまま事の成り行きを眺めていたマデリーンが楽しげな声を上げて笑い始めた。
「残念だけど、ランドルフ。今回はケネスが勝ちだわ。諦めるべきね」
「マディ……」
「そんな顔をしないでちょうだい。それより、そろそろ帰宅する人もいるのではないかしら。会場に戻った方がいいかもしれないわ。あなたを探しているかもしれないでしょう?」
「……君がそう言うのなら」
 しぶしぶと頷いて立ち上がろうとしたランドルフを、ふとマデリーンが仕草で止める。中途半端な姿勢のままで動きを止めた夫の頬にそっと手を触れ、羽のように軽いキスを落とした。
 思わず言葉を失い、呆然と妻を見詰める。そんな彼に照れたような笑みを浮かべ、彼女は柔らかに囁いた。
「少しは機嫌、よくなったかしら?」
「……まったく、君は……」
 ぽかんと見つめ返し、くつくつと咽喉の奥で低く笑う。本当に、彼女はどうしてこうも無邪気に彼の心を奪うのだろう。
 胸の空くような爽快感を覚えながら立ち上がると、マデリーンが当然のように彼の膝の汚れを払ってくれる。くすぐったく感じながら彼女が再び視線を上げるのを待ち、ランドルフは優雅に腕を差し出した。
「美しい君。俺の腕を取ってくれるかな?」
「ええ、よろこんで」
 芝居がかった動作で立ち上がり、マデリーンは満ち足りた笑みを夫へと向ける。それを十分に堪能した上でそういえばと視線を巡らせたものの、目のつくところにケネスはいない。どうやら付き合ってられないと、一足先に会場へと戻ったのだろう。
 残っていたシャンパンを乾しながら展示会場へと戻り、通りがかったボーイに空のグラスを返す。マデリーンが言ったとおり早々に帰路に着いているのか、それとも他の一般展示を見に行っているのか、彼らが抜け出すまでは混雑の様相を見せていたその場所は、どこか閑散としていた。