かぶ

真実の目覚める時 - 54

 モーガンヒル夫妻が特別展示室から姿を消してから数分の間を置いて、アリシアは彼らが向かったであろう物販コーナーへと足を向けていた。
 どうやら勝率は思っていた以上に低かったらしい。いや、低かったのではない。原因がどこにあるのかはわからないが、何かが起きて、それ故に低くなってしまったのだ。勝率を変えたきっかけが何なのかはわからない。けれどまだ挽回はできるはずだし、できなかったとしても、せめてこの雪辱は果たしたい。
 そのためにも、今、あの二人から目を離すわけにはいかない。
 ただそれだけを考えて大ホールに繋がる階段を下りたところで、協力者だったはずの男が行く手を遮った。彼と一緒にいるところを見られるのはあまりにもまずい。そう考えて、すぐ傍にある中世美術展示の通路へと無言のまま促した。
「来るなと忠告しておいたのに、まさか来るとはね。呆れて物も言えないとはこの状況を表すんだろうな」
 カツン、とわざとらしく音を立てて足を止めた相手は、言葉の意味を正しく伝える温度の声で告げた。
「忠告を無視して悪かったわ、とでも言えば満足かしら?」
「まさか。俺が満足するのは、君が彼女に平身低頭して己のしてきた事を謝罪した時だけだ」
「あら、いいの? その時には私、何もかもを洗いざらいぶちまけるけれど」
 相手の発言を鼻先で笑い飛ばし、アリシアは鋭く振り返って挑戦的な視線を投げる。だが、それを受け止める青年の顔には不自然なまでの静けさだけがあり、どうやら状況はますます悪くなっているようだと思い知る。
「好きにすればいい。俺はもう、手に入らないとわかりきっている高嶺の花に手を伸ばすのはやめたんだ。多少口惜しくても、一番輝けるところで幸せに咲き誇っているのを見る方がいい」
「それが他の男の腕の中でも?」
「それが花の望む場所であり、根付いている場所でもあるんだから仕方がない。無理に引き抜いては輝きを奪うだけでなく枯らしてしまいかねない。それではまったく意味がなくなってしまう」
「ふん、馬鹿馬鹿しい。男はロマンチストって言うけれど、どうやら本当みたいね」
「女はリアリストだと聞いているが、君はどうやら例外らしいな。何しろ現実がまったく見えていないようだからね」
 皮肉に皮肉を返され、強く奥歯を噛み締める。
「あんなのは……あんなのは今だけよ! これまでその役目を放棄していた女なのよ? どうせすぐにまた、ワガママを言いはじめるわ。そうすればその時は――」
「きっと彼が言葉を尽くして彼女を説得するだろうし、彼女の意思を受け入れた場合でも、もう二度と、彼女の身代わりを隣に置いたりはしない。何しろあの人は、俺が諦めざるをえないほど、彼女に心底惚れ抜いているんだから」
 一瞬だけ静けさの中に揺らぎが生じるがそれも束の間の事で、反応する間もなく消え失せてしまう。
「――それにしても、この状況は誰かさんが俺にもっともらしく語って聞かせた話とはあまりにも展開が違いすぎないか? 一体どういう事なんだろうね?」
「その小賢しい口を閉ざしなさい、ケネス・ヒルストン!」
 どこまでも神経を逆撫でしてくる青年に、彼女は一歩詰め寄ると抑えた声で強く命じる。けれど彼は変わらず静かな表情を浮かべたまま、軽く肩を竦めた。
「君の命令を聞かなければならない理由がわからないな」
「私は、あなたが私に協力していた証拠を持っているのよ」
「だから?」
「この事をばらせば、私だけでなくあなたも破滅するわ」
「ああ、そういう事か。それは考えもしなかったな」
 教えてくれてありがとう、と言い出さないのがいっそ不思議なくらいの明るさで返され、アリシアは目の前の青年に不気味さを覚える。一体、何がどうしてしまったのだろう。彼は失恋のショックで精神に異常でもきたしたのだろうか。
 そんなアリシアの困惑にはまったく気づいた様子もなく、ケネスはまたしても先ほどの静かな表情に戻り、どこまでも穏やかな表情のまま、その口を開いた。



 ランドルフは幼少の頃から、マデリーンは大学時代から何度も通っている場所だけに、特別展示に関連した商品がどのようなもので、どれくらいの規模取り扱われるのかについてある程度予想していたものの、今回ばかりはその予想はいい意味で裏切られた。彼らの予想を遥かに超えて充実していたのだ。
 一般的な絵画や美術品のポストカードやブックマークをはじめとして、今回の展示に即した書籍や歴史を紐解くための学術書。当時の製法を再現して織られたという絹を用いたハンカチーフやショールに、キャラバンを彷彿とさせるエキゾチックな置物。更には実際の宝石を使って作られた、実際に交易された宝飾品のレプリカまでもが売られていた。
 自分たちのための記念品は元より、アマデオとロビンのためのお土産ですら選ぶのが困難な有様で、しばらくあれもいいこれもいいと見比べた後、マデリーンは困ったような笑みを浮かべた。
「なんだかあんまり目移りしすぎて頭が一杯よ。少し、落ち着く場所に行きたいわ」
 正直なところ、ランドルフから離れて女性だけが集うそこへ向かうのは不安だった。けれど比較的遅い時間であるし、何より今夜のパフォーマンスじみた夫の言動が風当たりを少しは緩めてくれているかもしれないと考えての事だった。
「ああ、そうだな。……一緒に行こうか?」
 彼女の行き先がどこであるかを正しく推察したランドルフは、からかうように言葉を付け足す。もちろん、口にしたからには実行に移す心積もりはあるものの、断られるだろう事は百も承知で、だ。
「――馬鹿を言わないで。すぐに戻るから、ここで待っててちょうだい」
 宥めるように腕を撫でながら羽のようなキスを頬に残してマデリーンは踵を返す。背中に夫の視線があてられているのを感じながらも、あえて振り向かずにエントランスへと一度出る。ずいぶんと久しぶりにやってきたので、目的とする場所はどこだったかしらと歩く早さを緩めた時、ふと聞き慣れた声が耳に届いた、ような気がした。
「これ……ケネス、よね?」
 そういえば、さっき二人を呼びにきた後から姿が見えなかったように思う。きっと聡明な彼は、雇い主であるランドルフの考えを察して、あえて彼らから離れていたのだろうけれど、それにしてもこんな場所で誰と話をしているのだろうか。もう一つの声は、抑えられていて聞き取りづらいが、その高さからして女性のものだろう。
 出歯亀なんて下世話だとは知りながら、好奇心が理性を僅かに凌駕した。
 ほんの少し、様子を見るだけだ。今聞こえてきたのが本当にケネスの声なのか、確かめるだけ。だってほら、他の人の可能性もあるではないか。それに、たった今まで忘れていたとはいえ、わざわざ気を使って離れてくれている弟代わりのような青年の居所が気になるというのは、姉代わりとしては当然の事だ。
 そう自分に言い訳をしながら、大階段の脇にある中世美術展示のコーナーをそっと覗き込んだその時。
「その小賢しい口を閉ざしなさい、ケネス・ヒルストン!」
 苛立ちを含んだ鋭い声に、ぴたりと足が止まった。
 これは、この声は、あの女性の声、だ。この一年余り、何度も何度も聞かされた、悪意に満ちた言葉を吐く声。――アリシア・ブルネイ。
 だけどなぜ彼女が、こんな意気高な言葉をケネスに吐くのだろうか。
 浮かんだ疑問は、間を置く事なく彼らの会話が説明してくれた。
「君の命令を聞かなければならない理由がわからないな」
「私は、あなたが私に協力していた証拠を持っているのよ」
「だから?」
「この事をばらせば、私だけでなくあなたも破滅するわ」
 急速に、身体の中が凍えていくのを感じた。
 気づかなければよかったと、気づいてしまってから繰り返し考えていた事。それが事実だったと思い知らされるのがこれほどまでに衝撃的な事だなんて、それこそ知りたくなかった。
 数日前、ランドルフの言葉がきっかけとなって行き着いたのが、夫の身近にいる誰かがアリシアに、彼の詳細なスケジュールを漏らしている、という考えだった。となれば自然とその候補者は一人に絞られてしまう。しかしそれを信じたくなくて、苦しい理由付けだと知りながら、バレンタインのサプライズイベントを話の種としてケネスに電話をし――そしてそれは惨敗というに相応しい結果に終わった。
 疑惑が確信に変わっても、それでも信じたくなかった。だからこそ、信じているからと念押しの言葉まで押し付けた。なのに今、どうせなら一生眠らせておいて欲しかった真実が、今、白日に晒されている。
「ああ、そういう事か。それは考えもしなかったな」
 本当に、今気づいたとでも言うような口調で、ケネスが脅しに答える。いつだって穏やかな青年ではあるが、この静けさはどうにもケネスらしくない。まるで、そう、全てを諦めたかのような、諦観が漂っている。
 まさか彼は。
 彼女の不安がピークに達した時、どこまでも静かなその声が淡々と告げた。



「ランドルフは、俺を自分の後釜に据えるつもりでいる。半年ほどヨーロッパの支社に出向した後、モーガンヒル・グループのジュニア・パートナーになる手はずが整っていると、内密にではあるが、先日伝えられた」
「なっ……何よそれ!? 一体どういう事なの?」
「別に、驚くべき事でもないだろう? 世間では、世襲制に対する反感は強まりつつあるが、それでもやはり一族の名を冠するからには自分自身の子供に次の世代を担って欲しいと望むのが親ってものだ。だけどランディは、彼の息子はまだ幼い。だから自分が育てた若手をまずはジュニア・パートナーに据えて経営を任し、それからゆっくりと息子に手をかけるつもりでいるらしい」
 ケネスが口にした言葉は、半ば以上が嘘だった。
 ランドルフがケネスを後釜に据えたのは、自分自身がモーガンヒルのビジネスから手を引くためであり、アマデオが父親の後を継ぐか継がないかは完全に本人の意思に任せるというのが彼の考えだ。しかしランドルフがケネスに語って聞かせた内容をそのままこの目の前の女性に伝えるのは、むしろモーガンヒル・グループに悪影響でしかないと判断した。けっして遠くない将来、浮き足立っているアメリカの経済に、大きな変化が――それもよくない方向で起きるであろうというのが、見識ある人々の予想だ。
 まだそれまでに若干の猶予があるとはいえ、無意味にグループを危うくさせる必要はない。
「俺はモーガンヒルの一族ではないけれど、ビジネス・パーソンとしての俺を育てたのは他の誰でもないランドルフ・モーガンヒルであり、彼のビジネスにおける精神が、きっとDNAにまで沁みこんでいる。だからこそ、若き御曹司に英才教育を施すためにも、面倒な事は俺に押し付ける事にしたんだ」
 実に合理的だろう? 笑みさえ浮かべるケネスを、アリシアは蒼白な顔で睨みつけている。
「嘘よ……嘘に決まってるわ、そんな事」
「本当だ。信じられないというのなら、今日の出席者の中でランドと取引をしている人間を片端から捕まえて訊けばいい。彼らはみんな口を揃えて言うだろう。今夜彼は、彼の最愛の妻と優秀な後継者を紹介してくれた、とね」
 この時ばかりは誇らしさが声に滲むのを抑えきれなかった。目の前の、並みのモデルとも張り合えそうなほど整った顔が険しさを増すのを見ながら、彼は更に続けた。
「ランドを出世の手段としてしか見ていなかった君にはわからないだろうが、俺は今の状況に満足してる。俺は確かにマデリーンに恋をしていて、彼女を幸せにしたいとずっと願ってきた。だけど彼女が幸せになれるのは、どんなに悔しくてもランドの傍に――腕の中にいる時だけだって知っていたし、多大なる誤解の山が崩れた今となっては、俺が願う必要もなく、彼女は幸せに満ち溢れている」
「ふうん。それにしてはあなた、積極的に協力していたじゃない?」
 挑発する声に低く笑い、ケネスはきっぱりと返す。
「それは、君の嘘を俺が信じたがったからだ。哀しい目をするマデリーンを見ていたくなかったし、何よりそんな目をさせるランドルフが憎かった。どんなに彼女が彼を愛していても、彼に彼女を幸せにする意思がないのなら、俺が奪ってでも幸せにする。その感情を煽ったのは、君だ」
 逃げる事など許さないと、ケネスはまっすぐにアリシアを見つめる。強く奥歯を噛み締めながら、アリシアもケネスを睨み返した。
「君は疫病神だ、アリシア・ブルネイ。これ以上ランドルフやマデリーンに厄災を振り掛けるというのなら、俺は全てをランドルフにぶちまける。君がマデリーンにしてきた事を知れば、彼はきっと即座に報復に出るだろう。それが法的手段によるものか、それとも社会的になのかはわからないけれどね」
「――張ったりよ! そんな事をしてごらんなさい。あなた、せっかくのジュニア・パートナーの地位を投げ捨てる事になるのよ!? マトモな人間ならそんな事、できるわけない!」
 震える声で決め付ける彼女に、ケネスはゆっくりと頭を振る。
「できるさ。さっきも言っただろう? 俺は、ランドルフから最高の信頼と栄誉を与えられた。マデリーンが心底から幸せに笑う姿も見れた。……それだけで、俺は十分過ぎるほどに満たされたんだ。彼らの幸せを守るためなら、俺は何だってできる。たとえそのために手の届くところにある地位を失うとしても、きっと後悔はしないだろう」