かぶ

真実の目覚める時 - 55

 エメラルドよりは翡翠を思わせる目が、限界まで見開かれる。その顔には、ケネスの言葉が、真意が理解できないとはっきり書かれている。
 実際、理解できなかった。
 ケネスがランドルフの妻である女性によからぬ感情を抱いている事を知ったのはほんの偶然からだった。
 彼女が現在勤めている設計事務所はモーガンヒル・グループの物件を何度も扱っており、仕事の打ち合わせのために訪れるランドルフやケネスの姿を、アリシアは早い時期から何度も目にしていた。ゴシップ好きの同僚や、ギブ・アンド・テイクの関係にある上司から入手した情報によれば、上手く立ち回れば望みのものを――今のままでは決して手に入れる事などできそうにないものを手に入れる事ができるかもしれないと思うようになった。
 ボーイフレンドが途切れた事はなく、ハイスクールでも大学でも、イベントのクイーンに選ばれたのは一度や二度ではない。男は頭がよく、見目のいい女を好み、媚を含んだ眼差しや艶めいた態度でいくらでも思いどおりになった。身体が武器になる事だって、生きてくる中で自然と覚えた。今の地位も、そうしたものを活用して築き上げたのだ。これからだってそうしてみせる。
 そう考えていたというのに、ランドルフ・モーガンヒルは、アリシアが予想したより遥かに手強い相手だった。
 仕組んだ出会いの場で誘う意図を含んだ身振りや接触を試みれば、あの男性的な顔に満更でもなさそうな笑みを浮かべる。しかし更に踏み込もうとすれば、笑みは消さないままにやんわりと告げるのだ。「俺には妻がいるんだ」と。妻や恋人という言葉を口にするのが牽制だなんて、教えられるまでもなくわかっている。だが、この手の牽制が言葉だけという事も同じくわかりきっていた。何しろこれまで同じセリフでアリシアの魅力に抗しようとした男たちは、悉く最後には彼女の手に落ち、彼女が求めた全てを――金を、セックスを、地位を、惜しみなく与えたのだから。
 なのにランドルフは、パーティではエスコートを引き受けはしても、その後の誘いには一度も乗らなかった。人気のない場所で二人きりになる事すら難しく、運良くそんな状況に持ち込めたのだって片手に余る程度の回数しかない。もちろんその機を逃すものかと慎重に擦り寄ろうとしたが、いつだって手の内に入れる事はできず、その度に家族を、妻を裏切るつもりはないと繰り返された。
 ならばその家族がいなくなればいい。そう考えたのは、アリシアにとっては自然な流れだった。
 だが、まさか直接手や口を出すわけにも行かず、熟考した挙句、ランドルフに最も近い人間から情報を手に入れようと考えたのだ。
 ちょうどその頃、上司に何度もねだってようやくモーガンヒルの案件に参加させてもらえる事になったアリシアには、担当するレストランの直接の発案者であるケネスに近づく機会が豊富にあった。それを利用して、まるで仕事の話の延長線のようにランドルフがああも繰り返し言い訳に使う『妻』について訊ねてみたのだ。
 青年が上司の妻に欲望を持っている事は、彼が彼女について語り始めて最初の二分で気づいた。更にいくつかの問いかけを投げ、上司の振る舞いのせいで傷ついている彼女を思って苦慮しており、自分こそが彼女を守る立場にありたいと願っている事まであっさりと聞き出した。
 ランドルフに深く信頼された秘書であり、モーガンヒル家とは家族ぐるみの付き合いがある彼がどれほどの利用価値を持つのかを理解した時、アリシアは静かに勝利を確信した。
 ケネスを味方に付けるのは、ランドルフを相手にしていた数ヶ月を思えば実に容易いものだった。欲しい情報は望む以上に与えられたし、まどろっこしいとは思いながらも、慎重に邪魔者を排除するため動き始めた。
 対象とする相手だけは自分の思いどおりに動いてくれなかったものの、策は上手く働いていたはずだった。――ごく最近までは。
「あなた、絶対頭がどうかしてるわ。だってそうじゃなくて……どうしてこんな……」
「どうかしてたのは君に唆されていた時期の俺の方さ。欲望は目を曇らせるというが、本当なんだと今更に思うよ。今の君も、まさにその状況下にあるようだ」
 感情が篭らない分、その言葉はどこまでも深くアリシアを抉る。
「はっきりと現実を見たらどうだ? ランドは、あの人は、君ごときの手に負えるような相手じゃない。どこからどう考えても――君の負けだ」



 マデリーンの姿が人波に紛れるのを見送る間もなく、ランドルフは比較的気心の知れた人々に取り巻かれていた。
「まったく……今日は一体何の日だ? バレンタインはまだ先だぞ?」
「ランドルフ、君、熱はないね? いや、あまりにもいつもの君らしからぬ態度だったからね……」
「あまりあざとい真似をするのはよしなさいな。彼女に突き刺さる嫉妬の視線の量といったら!」
「ようやっと君の華々しい女性遍歴に終止符が打たれるのか。いや、これはめでたいね」
 口々に掛けられる言葉はどれもこれも皮肉を含んだもので、一体自分が何をしたのだと思わず天を仰ぎたくなる。けれどそこに含まれるのは、パフォーマンス的な言動では隠し切れないほどに浮かれているランドルフに対する愛溢れるからかいなため、鋭く反論するわけにもいかない。
 こんな事ならマデリーンに嫌がられても同行するべきだったと内心で嘆息し、ランドルフはひょいと肩を竦めた。
「これまでご心配をおかけしてきた事はお詫びしますが、しばらくはそっとしておいてください。何しろ今は二度目のハネムーンを堪能しているような気分なものでね」
 謝罪の言葉を借りたのろけにやれやれと頭を振りつつ、華やかな容姿をした見た目だけは若い――ケネスより年下に見えるがその実ランドルフより数歳年上の――男が口を開く。
「これだからイタリア系の男は嫌いなのよ。愛に目が眩むと周りの迷惑を考えなくなるんだから」
「フランス系の君には言われたくないな。また恋人に振られたからってこっちにあたるのはよしてくれ」
 厭味にからかいの言葉を返したところで、内ポケットに入れていた携帯電話がバイブレーションした。振られてないわよ! 僕はボーと熱々なんだからね! と騒ぎ立てる友人にそ知らぬ顔で失礼と断って、比較的人の少ない場所まで移動する。
「モーガンヒルだが」
『ランドルフかい? フォルトナーだが』
「議院? どうされました?」
『いや……その、注進があってね。大階段の近くで、何事か起きているらしいよ。一応人は遠ざけているが、行った方がいい』
 歯切れの悪いあいまいな言葉に、ランドルフは眉をひそめる。
「もう少し、はっきり言っていただけませんか?」
『獅子身中の虫が窮鼠になって猫を噛んでるとでもいうのかな。更には寝耳に水な人もいるようで……一歩間違えると、とんでもないゴシップ種になりかねない。急ぎなさい』
 どうにも謎かけめいてはいるが、彼が言わんとする事は理解できた。短く感謝の言葉を告げ、足早に人々の間をすり抜ける。迷いのない足取りで大階段の方へ向かう途中、柱の陰に見覚えのあるSPを見つける。目礼をする彼がフォルトナー議院の命でそこにいるのだと気づいて頷きを返すと、更に足を進めた。
 展示室からは見えないだろうが、ロビー側からは一目瞭然な位置に緊張を漲らせる妻の姿があった。彼女自身がトラブルに巻き込まれていたのではないと知り、僅かに安堵する。改めて声をかけようと足を一歩踏み出したところで、マデリーンの立つ更に奥から聞こえてくる会話に気づいた。
 さすがに距離があるせいか、細かい言葉は聞き取れない。だが、それが誰と誰の間で交わされているものかはわかった。そして、先ほどフォルトナー上院議員が仄めかした内容から、どんな会話がされているのかも。
 その内容がマデリーンをどれほどに傷つけているのか。そこに考えが及ぶと同時にランドルフははっきりと足音を立てながら彼女へと歩み寄った。
「マデリーン、こんなところで何をしているんだ?」
 びくりと肩を震わせてマデリーンが振り返る。同時に柱の向こうの会話もぴたりと止まった。
 ぎこちない動きで振り返ったマデリーンは、青褪めた顔で縋るような目を向けてくる。
「ドルフ……」
「一人になったとたんに口うるさい連中に取り囲まれたものだから逃げ出してきたんだが……もう用事は済ませたのか?」
「ええ……いいえ、まだなの。その、どこにあったか忘れてしまって。ほら、ここって時々迷路みたいだし、夜なせいか妙な雰囲気もあるし……」
 取り繕うようにマデリーンが重ねる声に、ハイヒールが床を叩く音が重なる。それがどこぞへと遠ざかるのをはっきりと意識しながら、あえて気づかぬ振りを通す。
「言われてみればそうかもしれないな。特に北棟はエジプト美術が置かれているから、うっかり気が抜けているところでミイラとご対面、なんて可能性を考えると……ぞっとしないな」
「でしょう? それもあってあちらは避けようと思ったのだけれど、とっさにどこだったかわからなくなってしまって」
 誘導した会話に乗ってくるマデリーンはあからさまに安堵していて、ランドルフは哀しさが胸に重く圧し掛かるのを感じる。どうして彼女は、全てを一人で抱えようとするのだろう。どうして自分を、巻き込んではくれないのだろう。
 これが別の機会であれば、きっと彼女の望みどおり、この場で起きていた事について気づかなかった振りを貫く事もできただろう。だが、今回ばかりは別だ。
 ゆっくりと息を吐き、冷えてしまった肩に手を乗せる。手のぬくもりにすら肌を粟立たせる様子から、彼女はここに、彼と別れた直後からずっといたのだろうと推察する。暖めるためにもそっと滑らかな肌を撫でながら、ランドルフはいっそ優しげに問いかけた。
「――それで、マデリーン。迷っている間に、一体どんな話を立ち聞きしたんだい?」