かぶ

真実の目覚める時 - 56

 帰宅する車の中は、重苦しい沈黙に包まれていた。
 ドライバー全員の交通マナーが最適であるとは口が裂けても言えないニューヨークで、どこまでも快適にリムジンを走らせる運転手は当然ながら、仕切りを上げて密室となった後部座席に座る誰もがじっと押し黙っていた。
 すぐ隣の夫は赤の他人よりは近いという距離をおいて座っており、視線は窓の外へと向けられたままだ。それでもマデリーンが孤独を感じずにいられるのは、彼がじっと彼女の手を捕まえているからだ。車の振動で緩みそうになるたびに、彼はまるで放すまいとでも言うように、そしてどこか縋るような強さで握ってくる。その度に彼女は大丈夫だと宥めるように、夫の手を握り返していた。
 そんな夫の正面には、やはりこちらも沈黙したままのケネスが、ほんの僅かにも自分の足先から視線を上げる事もなくじっと座っている。薄暗い車内だというのに、彼の顔には表情らしい表情が浮かんでいないのがわかる。それがこの後に待ち受ける時間について苦悩しているためなのか、それとも他に理由があるからなのか、マデリーンには見透かす事はできない。だが、この状況を作り出したのは彼自身であり、故に何が起ころうとも責任を取るつもりでいるのだろう事は自然と察せられた。
 メトロポリタン美術館のロビー近くでケネスとアリシアの会話を偶然にも盗み聞きする形になってしまったマデリーンは、追いかけてきた夫に聞いてしまった話の内容について問われ、咄嗟に言葉を返せなかった。
 その理由はいくつかある。
 一つには、当事者がケネスであり、また彼女が予想していた以上に深く事態に関わっていたと知ってしまったから。二つ目は、下手に口を滑らせてしまっては、たとえ本人がどんなに覚悟を決めているとしても、ケネスから、彼が現在手にしている全てを奪ってしまうかもしれないと考えたから。
 そして三つ目は、今のランドルフは、ほとんど何も聞いていない、などというおためごかしを受け入れてはくれないだろう事が、直感でわかってしまったから。
 戸惑いに揺れて真っ白になったマデリーンを救ったのは、彼女の背後から姿を現したケネスだった。
「あなたらしくもないですね。どうせなら、マデリーンから間接的に話を聞くのではなく、当事者である僕から直接聞けばいいじゃないですか」
 思いがけない言葉に、はっとして振り返ったマデリーンは、自分の顔から一気に血の気が失われるのを感じていた。
「ケネス」
「嫌だな、そんな顔しないでくださいよ。あなたに心配されたりしたら、嫉妬に駆られたランドに殴り飛ばされてしまう」
 そんな言葉を口にしたケネスは、大げさに身震いをしながら笑みを浮かべた。笑みを消さないまま直属の上司へと視線を向けると、先ほどまでのように感情を含まない声で問いかける。
「僕はいつでもご質問にお答えしますが、後日に伸ばしますか?」
「いや、今夜にしよう。お前を信じていないわけじゃないが、後味の悪いままで今夜を終わらせたくない」
 こちらもやはり堅い声で返したランドルフに、ケネスはあっさりと了解の頷きを返し、では、とまっすぐにクロークへと足を向けた。状況の転換に付いていけずにぼうっと立ち尽くすマデリーンは、夫が優しく腕に触れてようやく我に返った。
「あなた……」
「行こう。ケネスが待っている」
「だけど」
「あいつもきっと、全てを話したいと思ってる。そうでなくて、どうしてわざわざこんな場で事を起こしたりする?」
 そんな風に諭されれば、それもそうかと思ってしまう。けれどふと別の事にも気が付いて、彼女は無意識に訊ねていた。
「ドルフ、あなた……ケネスの事、知っていたの?」
 何についてなのかは、敢えて言わない。半ばかまかけに近い問いかけだったが、ランドルフは静かに頷いた。
「君がどれだけの事を聞いたのかはわからないが、多分その内の一部については知っていると思う。つい先日、本人が断罪を求めてきたからね」
 だからなのか、と、ようやく得心がいった。夫はきっと、懺悔をしてきた青年を赦したのだ。だからこそ彼は、彼を惑わした相手に立ち向かう決心をしたのだろう。だからこそ、マデリーンに話を聞かれていたとわかっても尚、深く動揺せずにいられているのだろう。
「わかったわ。なら、行きましょう」
 肺の底から重苦しい息を吐き出し、マデリーンは夫を促した。掴んでいた腕を放した彼は、代わりに彼女の手を取ると、ケネスが待っているロビーへと足を向けた。
 駐車場からリムジンが運ばれてくるのを待つ間にロビンの家へと電話をかけたマデリーンは、今夜は迎えにいけないから泊まってきなさいと連絡を入れた。てっきり迎えに来るという連絡だと思っていたらしい少年は、母親の言葉に手放しの歓声を上げ、すぐそばにいた小さなガールフレンドに笑われているのが聞こえた。
 二人の子供たちの世話をする家政婦の女性によろしくお願いしますと伝えたところでようやく車が到着し、促されるままマデリーンは豪勢な内装の後部座席へと乗り込んだ。
 それ以来、ただでさえ閉塞感に息が詰まりそうな車の中を、重苦しく張り詰めた空気が支配している。
 どちらかといえば短い時間で何度目になるかもわからないため息を吐いて、マデリーンは傍にいる二人の男性たちから窓の外へと視線を移した。
 ダウンタウンからミッドタウンへと北上するにつれて車の台数は数を減らし、どぎついネオンは素朴ささえ感じさせる個人経営のレストランやショップの看板へと取って代わる。そのとおりの奥にちらちらと見え隠れする黒い影は、セントラルパークの木々だろう。
 年がら年中どこかしらで道路工事が成されているにも関わらず、そういった無粋な現場や渋滞を巧みに避けてスムーズに街を走り抜けた車は、アパートメントの前で静かに停止した。エンジンの振動も止まってからようやく、後部座席のドアが開かれた。
「モーガンヒルさん、お帰りなさいませ。ヒルストンさんも、お疲れ様です」
 建物からの光が逆光になっている上、濃すぎるほどに濃い肌の色のため顔の表情が咄嗟に読めないが、これまで長くドアマンの仕事をしていながらも一度として不機嫌な顔を見せた事のないジョージは、きっといつもと同じくにこやかな顔をしているのだろう。
「ただいま、ジョージ。遅くまで大変だな」
「大変なんかじゃありませんよ。なにしろこの仕事のおかげで人様がせっせと働いている昼日中にのんびりできるんですからね! 映画だって、格安で見放題なのが最高です」
 あっけらかんと笑う男に笑みを誘われながら、ランドルフは車から降りようとしている妻に手を差し出す。浮かない顔をしてはいるものの、素直に手を委ねられ、ほんの少し緊張が緩んだような気がした。
 最後にケネスが街路へと降り立ち、リムジンの運転手に帰って構わないと合図をしてからアパートメントの入り口へと向かう。重厚なインテリアのロビーでは初老のコンシェルジェが、陽気なドアマンとは異なって、実に気品のある穏やかな笑みで迎えてくれた。
 エレベーターで最上階まで昇り、今は無人の自宅に足を踏み入れる。ほとんど言葉も交わさないままそれぞれのコートをクローゼットに仕舞うとリビングへと向かった。
 ランドルフとケネスの後からダイニングキッチンに入ったマデリーンは、身に付いた習慣のままキッチンに入り、冷蔵庫の扉へと手をかけた。
「マディ、ここは俺がやるから、君は着替えておいで」
「着替え?」
 突然かけられた声に驚いて振り返ると、苦笑を浮かべたランドルフが近づいてくるのが見えた。いつの間にかジャケットとタイを外しており、身体にぴたりと合っているシャツがやけに眩しく見えた。
「まさかとは思うけれど、そのドレスのままで酒肴を用意するつもりかい?」
「え? あ……いけない、すっかり忘れていたわ」
「だと思った。俺としては、汚れたならクリーニングに出して、どうしても駄目なら新しいのを買えばいいと思うんだが、君はそう簡単には割り切れないだろう?」
「当然でしょう。だってこれ、あなたは教えてくれないけれど、かなり……その、したんでしょう?」
「……さて、ね」
「あなたってば、いつもそうなんだから」
 とぼけた様子で肩を竦める夫に、つい苦笑が漏れる。そのついでに、ちょっぴりの本音も一緒にこぼしてみた。
「それに私、あなたが私のために買ってくれたものを粗末になんかしたくないもの」
 思いがけない告白に、ランドルフが目を瞠る。次の瞬間、満面に笑みを浮かべた彼は、彼女の名前を口にしながら強く抱きしめてきた。
「もう、だめよ。ケネスが待っているし、ドレスも皺になっちゃう」
「俺をこんなにも喜ばせる君が悪い。だけどせっかくの君の気持ちを無駄にしたくはないからな……」
 実に渋々といった体で身体を放した夫にふわりと微笑んで、マデリーンは名残惜しげに肩へと乗せられた手を外した。
「……じゃあ、すぐに着替えてくるから、後はお願いね」
「かしこまりました」
 慇懃に腰を折る夫にまた小さく笑って、彼女は急いで寝室へと向かった。