かぶ

真実の目覚める時 - 59

「……なら、とても複雑だが、俺は君の意地に感謝するべきなのかもしれないな」
「え?」
 思いがけない言葉に驚いて、マデリーンは思わず夫を見上げた。そこに沈鬱な眼差しを見つけ、静かに息を呑む。
「だって、君が意地を張っていてくれてなければ、可能性として俺は君を理由もわからないままに失っていたかもしれない。とはいえ、俺の事だから地球の果てまででも君を追いかけて取り戻していたとは思うが、それでも君に別れを告げられていたらどう反応していたか……」
「ドルフ……」
「女々しい繰言を言ってすまない。だが、本当に、君に捨てられなくてよかった」
「捨てるわけ、ないじゃない。あなたに捨てられたくないからって、ずっと我慢し続けていた私なのよ? 女々しいなんてこれっぽっちも思わないけど、お願いだから変なところで自信喪失しないで」
 仕方のない人ね、と呟いた彼女は、背中を伸ばすと夫の頬に小さな口付けを贈る。濃い茶色の瞳をもう一度覗き込めば、先ほどまでその色を濁らせていた苦悩が取り除かれているのがわかった。
「……仲がいいのは大変結構ですが、そういう事は二人きりの時にしてもらえません? あまりにも身の置き所がないんですが」
 初めて聞く、というくらい苦々しいケネスの声に、彼の存在を思い出したマデリーンは咄嗟にランドルフから身体を引きかけた。しかしそれをすばやく押し留め、ランドルフが不敵に返す。
「諦めろ。本来なら今夜はマデリーンと二人でデート気分を満喫するはずだったんだ。それをお前のせいでお釈迦にされたからにはこれくらいの嫌がらせは受けて当然だ」
「子供ですか、あなたは。……まあ、いいですけどね。それよりそろそろ本題に戻りませんか?」
 半ば投げやりな態度で提案をすれば、先ほどまでの話の流れを思い出したのだろう。二人は軽く姿勢を正して先を促した。
「ブルネイが僕に言ってきたのは、マデリーン、あなたが言ったまさにその言葉どおりでした。ランドルフには他にも何人か囲っている女がいたけれど、今は自分がその中でも一番の存在だ。その証拠に最近エスコートする相手は自分ばかりだろう、と。まあ、種明かしをされたおかげで、彼女が偶然か恣意的にか、あなたの目に留まりやすい位置取りをしていたからだろうと今では思えますがね」
 ほとんど空になっていたグラスを完全に乾し、青年は更に言葉を重ねる。
「当然ですが、はじめの頃は、あまり信じてませんでした。だから他の自称愛人の女性たちにしていたように、他の手段でも手に入るような情報を与えるだけに留めていました。だけど彼女もそれに気づいたんでしょうね。ある日、作戦を変えてきたんです。『あなた、ミセス・モーガンヒルに恋しているのでしょう? だったら私、あなたが彼女を手に入れる協力をしてあげるわ。変わりに私がミスター・モーガンヒルの妻になるお手伝いをしてくれない?』ってね」
「それで、お前はあっさりと寝返ったのか?」
「まさか。僕としては、マデリーンへの想いは極力隠しているつもりでしたからね。盛大に否定しましたよ。だけど彼女は確信を持っていたようで、実にしつこく巧みに僕の意思を誘導したんです。どうせあなたはマデリーンに対して誠実な夫ではないのだし、すでに彼女と将来の事まで話をしている。彼女への仕事の依頼が増えたのもそれが理由の一端なのだと。……まあ、この点についてはかなり疑問に思えたのですがあなたはそんな理由でひいきをするような人じゃありませんからね」
 目で確かめてくる青年に、当然だとランドルフは頷く。
「人格がどうであれ、才能のある人間を引き立てるのは当然の事だからな。俺が彼女を起用していたのは、ただ単に彼女のデザインが、俺の求めるものに合致したものだったからだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「でしょうね。元からそう思ってましたし、その点は別に大して重要じゃありませんから」
 あっさりと首肯したケネスは、一度マデリーンを見つめてから、もう一度ランドルフに視線を戻した。
「問題になるのは息子を産んだあなたの妻だと言っていました。彼女がいては、当然だがブルネイがあなたの隣を正当な位置にする事ができない。けれど地位も名声もあるあなたから、長男を産んだ女性に離縁を告げるのは難しい。それもモーガンヒルで使用している食物の四分の一近くを提供している農場の娘ともなれば尚更だ。あなただって長く冷戦状態である今の妻を何とか厄介払いしたいと思っているのだから、僕は彼女に協力するべきだ、とね。そのためには程度の低い手段を取る必要があるのだけれど、これまでそういった事はほかの女性たちもしてきていたのだから、彼女にとってはそこまで脅威ではないかもしれない。だが、僕の協力を得られれば、その手段はより有力になる。何しろ正妻であるマデリーンが知らない事までも知る事ができるようになるのだから。そうすればきっと彼女は自分の無力さを思い知って、いずれは自分からあなたを去るだろう。そうなればブルネイは大手を振ってあなたの後妻に収まる事ができるし、僕はマデリーンへと正々堂々アプローチするチャンスができる。何も悪い事はない。そう説得されました」
 目の前にいるマデリーンを悪しき様に告げるのが苦しいのだろう。ケネスは声に感情を込めず、どこまでも客観的に言葉を並べた。
「言い訳になりますが、あの頃は僕自身、忙しさのせいであまりまともな判断ができてなかったんです。あなたは相変わらず浮名ばかり流しているし、マデリーンはあなたを見てはため息を吐くばかり。ジュニアがいない場では、二人の間の溝を隠そうともしなくなってましたから、うまく立ち回れば、もしかすれば僕が入り込めるような隙間ができるかもしれないなんて思ってしまったんです」
 人々が懺悔に行く気持ちが初めてわかった。胸につかえている全てを吐露する事そのものは確かに苦しいが、そうする事によって、ずっと背負っていた何かが重さを減らしていくのが実感としてわかる。
 ただ一つ、大きな違いを上げれば、懺悔なら赦しを得られる事が前提条件としてあるという事だ。この場では、ランドルフやマデリーンが赦しを与えてくれる保証はどこにもない。むしろ先ほどアリシアが言っていたように、これまでの年月で培ってきた信頼関係や築き上げてきた地位といった全てを失う可能性の方が遥かに高い。
 それでも別に構わないと思った。
 だって、欲しいと望んでいたものは、すでに手に入っているのだから。
 ランドルフが、マデリーンが、そしてアマデオがケネスへと与えてくれた、家族に対すると同然の信頼と愛情。そして愛した相手の心からの幸せな笑顔。
 きっと後悔はするだろう。けれどその後悔は、今こうして全てを白日に晒した事にではなく、信じてくれていた人たちを裏切っていた自分自身の弱さに対しての後悔だ。犯した罪はあがなわなければならない。だからどんな罰を下されようと、ケネスは甘んじて受け入れるつもりだった。
 ぎりぎりのところでポーカーフェイスを保っている青年が、判事の前に引き出された有罪が確実な罪人のような心境でいるだろう事は、その硬く引き絞られた口元や、白くなるほどに握り締められた手からも見て取れた。
 ランドルフがどう思っているかはわからない。しかしマデリーンには、彼を断罪するつもりなどなかった。
 もう長い間、弟のように思ってきた相手なのだ。どうして、という戸惑いはあったけれど、それが自分への恋情が原因と知っては嫌う事もできない。どんな苦難を呑み込んででもランドルフと共にありたいと望むマデリーンが、ケネスが望む意味で応える事もできるはずがない。
 これまでとは違う種類の葛藤が胸を締め付け、喘ぐように空気を吸いこむ。
「いつから……彼女とそういう風に関わるようになったの?」
 まさかマデリーンからそんな問いが投げられるとは思っていなかったのだろう。ぴくりと肩を震わせたケネスは、瞬く間に動揺をポーカーフェースで包み隠すと、感情の篭らない声で答えた。
「ブルネイが話を持ちかけてきたのは、彼女を初めて起用したプロジェクトが大詰めを迎える直前でした」
 反射的に当時のスケジュールを浮かべたのだろう、ランドルフが驚いたように口を開く。
「なら、一年ぐらい前になるんじゃないか? 確かお前、まともに家にも帰れてなかったよな?」
「そうなんですよね。今から思えばもっと他の人間に任せられたはずのタスクもあったんですが、どうしても全部自分で切り回したかったもので、文字どおり週に七日、二十四時間働いてるような状況でしたよ。あの頃は本当に、仕事にだけ全ての能力を傾けていたので、それ以外の事柄に対する判断力がめちゃくちゃになってたんです。スーツのジャケットとパンツが色も形もまったく違うものだった、なんてのは全然可愛いレベルで、支払いの明細をごっちゃにしてまったく違う金額を振り込んだりとかしてましたからね。……そんな中の一つが、彼女の誘いでした」