かぶ

真実の目覚める時 - 60

 自嘲交じりの苦笑を漏らし、彼は淡々と言葉を続ける。
「人間、自分の判断力に自信が持てない時は何もするべきじゃありませんね。ほとんど言われるがままに情報を流してしまって……実際に行動に出たのだと言われた時には、本気で愕然としました。何しろ彼女は嬉々として語ってくれましたからね。どれほどあなたのプライドを傷つけるのが容易かったのか。これならきっと、そんなに時間を掛ける事なく望む結果になりそうだと、そう豪語してました」
 実際にはまったく違う結果になったわけですけどね。そんな言葉で締めくくり、青年はゆっくりとマデリーンへと顔を向ける。
「僕の知る限りでは、彼女があなたに接触をしたのは、あのレストランの落成パーティの翌日からです。だけど僕は、そのしばらく前から彼女にランドの情報を流していた」
「……ええ、そうね。あの日の事は覚えているわ。新しいレストランの落成記念だから遅くなる、とは聞いていたけれど結局ランドルフは帰ってこなくて、きっとお客様の相手をしている内に帰るのが面倒くさくなっただけなのだろうと自分に言い聞かせていたタイミングで、電話がかかってきたんだもの」
「マディ……」
 ずっと片手で握っていた妻の細い手を改めて両手で包み込み、ランドルフは沈んだ目で妻を見つめる。これまでずっと知らせまいとしてきた現実を今更に耳にして苦悩する夫へと、マデリーンはほんの少し微笑んでみせた。
「そんな顔をしないで。言ったでしょう? 今はちゃんと、あなたを信じているって。ただね、私が選んだあなたのスーツやタイの手触りや質感にまで言及した上で浮気宣言をされたのは初めてだったから、いい加減慣れていたつもりだったけれど動揺してしまって。その後だって、彼女のコメントは、嫌になるくらい効果的だったわ」
 軽く肩を竦めた彼女に、ケネスも同意を示す。
「彼女の話術は、悪用すればかなり広範に被害をもたらしかねないものがありますからね。ただこのところ、物事があまりにも狙いどおりに行かなかったせいで焦りがでてきてました。そのおかげで、僕は罪悪感からランドの悪い噂が全て真実だと思い込もうとしていたというのに、彼女が組み立てた理論の綻びが目に付き始めたんです。これを認めるのは結構業腹なんですが、あなたがマデリーンだけを見ていてくれて、本当によかったですよ」
「お前に感謝される覚えはないな。俺はただ、自分の心が正しいと思う事に従って行動していただけなんだから」
「でしょうね。僕だって本当はそうしたかったんです。この一年もの間、協力をやめようと思った事は、信じてもらえないでしょうけれど、一度や二度じゃないんです。だけどブルネイは、僕が彼女に協力していた事を僕の弱みとみなした。実際、それを誰かに――いえ、違います。あなたに知られるのがあまりにも恐ろしくて、ほとんど存在しないだろう希望に縋っては罪を重ねていたんです」
 翳を増した瞳を膝へと落とし、ケネスは掠れるほどに小さな声で付け足した。
「さっきはランドばかりを責めてましたけど、僕だって大して違いません。ブルネイがあなたに脅迫めいた電話をすると言い出すまで、僕はあなたがそんな目に遭っているなんてまったく知りませんでした。しかもそんな嫌がらせをずっと受けていたというのに、一度としてランドから離れようとしなかったあなたが今後もその想いを変える事がないだろうと知っていながら、ブルネイの思惑に加担した。――あなたをどれだけ苦しめるのかなんて、実に容易く想像が付いていたというのに」
「ケネス……」
 どんなに隠そうとしても、吐き出される言葉の一つ一つが痛切な響きを伴っていて、マデリーンは気遣わしげな声をかける。だが呼びかけの先は、ケネスのきっぱりとした言葉によって遮られた。
「ですからマデリーン、どうか僕に同情はしないでください。あなたは優しいから、僕を哀れんでくれてるはずだ。だけど僕は独りよがりな考えであなたを傷つけた人間なんです。あなたの慈悲には値しない」
 潔すぎる言葉に、何も返せなくなる。咽喉の奥で出所を失った言葉は冷たい塊となり、飛び出そうとする他の言葉さえ押し留めてしまう。それに、わかってもいた。今、彼女がどんな言葉をかけたところで、それらはケネスにとって、望まないものでしかないのだと。
「……言いたかった事はそれで全部か?」
 突き放すように投げつけられた言葉に虚を突かれ、一瞬きょとんとランドルフを見つめた後、ケネスは一つ頷いた。
「わかった。なら、今日はもう帰れ。すでに深夜も過ぎているしな。泊めてやってもいいが、お前は嫌だろう?」
「嫌、とは言いませんが、こちらではきっとまともに寝られないでしょうね」
「まあ、家に帰ったところで何が変わるとも思えないが、帰るまでに少しは頭も冷えるだろう」
 こんな風に言われたのがもし、ランドルフをよく知らない人間であれば、きっと彼を冷たい奴だと思っていただろう。けれどケネスは、こんな風に隠された彼の心の機微に気づけてしまう程の年月を、彼の傍で生きてきた。だからこそ、声や言葉こそはそっけないものの、その目を見れば、憔悴の中に気遣いが含まれているのがわかる。――わかって、しまう。
「わかりました。では、僕はお暇させていただきます。週明けはいつもどおりで?」
「休みたいと思ってるのはお前だけじゃないが、月曜日は朝から報告会があったはずだ。いくら面白みのないミーティングだからといって、俺やお前がサボるわけにはいくまい」
「確かに」
 心底からうんざりと告げる上司に笑いを誘われ、青年はほんの少し頬を綻ばせた。簡単に畳んでおいてあったジャケットを手に取って立ち上がり、タイは締めないまま羽織る。どうせ今からは帰るだけだし、コートを上から着るのだからラフにしていたところで支障はない。だが、そうするのがすっかり習慣となっているらしく、勝手に指がジャケットのボタンを留めていた。
 身支度を済ませて振り返ると、マデリーンとランドルフが寄り添うように立って見送りの体勢を取っていた。何気なく視線を下ろした先にしっかりと握り合わされた手を見つけて、胸が締め付けられる。そういえば今夜のランドルフは、事が起きてからずっとマデリーンの手を捕まえて離さなかった。もしかしてこれは、彼の不安の表れなのだろうかと、唐突に思い至る。
 なんだかんだと言いつつ忠実な部下であったはずの自分の背信を、妻が長い間堪えてきた苦難を初めて知らされた事で、磐石だと思っていた足元が頼りなく思えたのかもしれない。それでもケネスの前で情けない姿をさらけ出すわけにいくはずもなく、だからこそ彼が唯一弱みを見せられるだろう相手に、最小の態度で縋っていたのだろうか。
 本当のところがどうかなんて、訊いたところで答えてくれるような人じゃない。だけどそんな風に弱いところも持っている人なのだと思ったとたん、これまで以上にランドルフへの親近感が増した。
 特に言葉を交わす事もなくリビングを抜けて玄関ホールへとやってきた。クローゼットからケネスのコートを取り出したマデリーンはそれを持ち主へと手渡し、彼がどこか夫に似た仕草で身に着けるのをじっと見つめていた。
「どうか、しました?」
「別に、何がどうというのでもないのだけれど」
 自分の視線に気づかれていたと知り、不躾だったかしらとほんの少し赤面する。それからほんの少しの逡巡を経て、マデリーンは改めてケネスへと向き直った。
「ねえ、ケネス、少し屈んでくれないかしら?」
「いいですけど、一体……?」
 いぶかしく思って問いかけるが、マデリーンはさあ、と手の動きで促すばかりで何も言わない。肩口に糸くずなりなんなりついているのだろうかと戸惑いながらも言われたとおりに背中を屈める。そのとたん、ふわりと伸びてきた腕が彼の首へと回され、細い肩口へと彼の頭を押し付けるように抱きしめられた。
 自分の突然の行動に驚きのあまり硬直する青年を、マデリーンは精一杯抱きしめる。
 ただ、このまま彼を帰したくなかった。結論なんて全然出ていない。だけどせめて、今の正直な気持ちだけは伝えておきたかった。
「あなたがした事を、今すぐ全て赦す事はできないわ。だけど、あなたを憎む事も、嫌いになる事もできないの。だってあなたは……私たちにとって、本当の弟も同然の人なんだもの」
「……はい」
「しばらくは、ぎくしゃくするかもしれない。でも、またいつか、これまでどおり笑い合えるようになるわよね……?」
 耳の傍で、何かが咽喉につかえるような音が聞こえた。だけどそれには気づかない振りをして、彼女は優しく告げた。
「大好きよ、ケネス。私を好きになってくれてありがとう」
 その言葉に、抱きしめる身体がはっきりと震えるのがわかった。奥歯を噛み締める音と、乱れる呼吸を整えようと深い呼吸を繰り返すのが耳に届く。
 残酷な言葉を口にしているという自覚はあった。だけどどうしても伝えておきたかったのだ。たとえそれが、結果的に彼を傷つけるだけになったとしても。
 どれだけの時間が過ぎたのか、マデリーンにはわからなかった。しかしケネスの身体から余分な緊張が取れ、どこか遠慮がちに抱きしめ返された時、自分は間違えてはいなかったのだと思えた。