かぶ

真実の目覚める時 - 61

 男性二人が使っていたグラスを片付けてから寝室へと戻ったマデリーンは、シャワールームから夫が出てくるのをみて、思わず足を止めた。明日は土曜日で休みだから、もしかしたら仕事を持ち帰っているかもしれないと思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。
 アイビーのバスローブに身を包み、濡れた髪をバスタオルで乱雑に拭いていたランドルフは、ドアの傍で立ち尽くしている妻に気づいて穏やかな笑みを浮かべた。
「面倒を押し付けてすまないな」
「別に面倒なんかじゃないわ。それより、今日はお仕事はもうしないの?」
「今夜は初めから全部置いてきたよ。元々君とのデートを満喫する予定だったからね。その後に仕事が待っているなんて考えていては、楽しみに翳りが挿してしまうだろう?」
 そんな事を口にしながら髪と身体の水分をたっぷりと吸収したタオルをシャワールーム内に置いてあるバスケットへと投げ込んで、後ろ手にドアを閉めると妻の下へと足を向ける。
「想定外の邪魔が入ったのは残念だが、明日の大部分も二人で過ごせるんだろう?」
 逆光になっているせいで表情がよく見えないが、それでもその目が自分をしかと捕らえている事はわかった。ほんの少し前まで胸を締め付けていた哀しみや罪悪感が瞬く間に消え去り、はしたない期待が口の中を乾かせる。
「え、ええ。アマデオを迎えに行くのは夕食前でいいって話だから……」
「それは重畳だ」
 満足げな笑みを口元に浮かべる夫へと、マデリーンは小さくため息を吐く。
「まったく、あの子はまさしくあなたのミニチュアね。大好きな女の子の傍にいる事が最大の使命であるような口を利いていたのよ」
「ほう? それはつまり、俺も君の傍にいる事が最大の使命と思っているのだと、認めてくれているという事かな?」
「……そうね、そういう事になるわね」
 ここしばらくの夫の言動を思い返し、彼女はもう一つ、今度は深い深いため息を吐いた。
「あまり、嬉しそうではないな」
「そういうわけじゃないの。ただ……あまりにも物事が変わりすぎて、少しずつ順応してきてはいるのだけれど、それでもやっぱり時々戸惑ってしまうだけよ」
「マディ……」
 控えめな言葉に隠された心の動きに気づき、ランドルフはそっとマデリーンの手を取る。そのままベッドへと向かい、並んで腰掛けた。
「――こんな事を言ったところで今更だし、何も変える事などできないが、それでも……すまなかった」
「ドルフ? あなたは何も――」
 驚いたような声を上げるマデリーンの唇を人差し指で押さえ、その先の言葉を封じる。
「君はさっき、自分が悪いのだとずっと繰り返していたが、それは違う。俺がもしはじめから、もしくはもっと早い段階で君に真正面から愛を告げていれば、君はこんなにも長い間苦しまなかったはずだ。君の様子に不審を感じるたび、いらない遠慮や怯えなど持たず、もっと踏み込んでおくべきだった。君がそういった諸々を俺から隠そうとしていたのは事実だが、それでも俺が、そこに何かがあるとわかっていながらあえて見過ごしていたというのも事実だ」
 後悔の言葉を口にするごとに、妻の表情が苦しげになる。きっと彼女はランドルフの後悔さえも自分に責任があるのだと考えているのだろう。だが、実際にはそうではない。
「そんな顔をするんじゃないよ、マディ。俺の後悔は俺のものであって、君に責任があるわけじゃないんだから」
「でも……でもドルフ。私はずっと、気づかずにいたのよ。あなたの愛にも……ケネスの想いにも」
「マデリーン。ケネスの言葉を聞いていただろう? あいつは、本音がどうあれ、お前が幸せに笑っていればそれでいいと言ってるんだ。自分の気持ちを知れば君が苦しむとわかっていたから、これまでずっと伝えずにきた。もし少しでも報いてやりたいと思うのなら、それはそれとして受け止めて、俺と幸せになる事を考えるべきだ」
 あまりにも強気な夫の発言にマデリーンが眼を瞠る。その目元に軽い口付けを一つ落とし、ランドルフは言葉を続けた。
「それに、あいつもきっと、今夜で全てにきりをつけたはずだ。帰り際には、まるで憑き物が落ちたような顔になっていたからな。君が赦した事で、あいつは救われたんだろう」
「……そう、かしら」
「そうに決まってる。まあ、正直なところ、見ていて楽しい光景とはいえなかったが、それでも君の慈悲深さには純粋に感動したよ。俺はきっと、聖女を妻に娶ったんだろうな」
 誇らしげに見下ろしてくるランドルフの視線が、唐突に重く感じられた。そっと唇を噛み、マデリーンは視線をついと下方へと逸らした。
「あなたは私の事、美化しすぎているわ」
「まさか。そんな事はないさ」
「いいえ、そんな事あるわ。だって私は、ただずるいだけなのよ。もちろん、あの時口にした言葉に嘘はないわ。だけどああすればケネスは私たちから離れていこうとはしなくなるだろう、あなただってケネスに対して厳しい態度に出られなくなるだろうって、そんな計算すら頭の片隅にあったわ」
 罪悪感に顔を曇らせているマデリーンの顎を指先で持ち上げて、苦しげに噛み締められている唇を優しく奪い、硬く閉ざされた入り口を舌でそっと舐める。海色の瞳に驚きを浮かべる彼女を、ランドルフはじっと見つめる。
「それでも、普通の人間なら、あの場でケネスに許しを与える事はできないだろう。俺が君の立場にあったなら、きっとあいつに一つどころじゃない恨み言を投げつけていたはずだ。もしかしたら、平手の一発も喰らわせていたかもしれない。間違っても、赦そうなんて考えは、ほんの一瞬たりと頭を過ぎったりしなかっただろうと確信を持って言える」
 反論を許さぬ声に、マデリーンはただ戸惑う。そんな妻の感情を見て取り、彼はもう一度甘く口付けた。そして優しく頬を撫で、穏やかな声で続ける。
「君の事だから、きっと自分を偽善者のように感じてるんじゃないか? だが、そんな風に感じる必要はない。ケネスは君に嫌われる事だけを恐れていた。たとえ心のどこかに潜んでいた弱さからの行動だったとしても、言葉に嘘はなかったんだろう? なら君は、あいつが一番必要としていたものを真実与えてやった事になる。そのどこに偽善がある?」
 そんな風には考えていなかったのだろう。息を呑んで瞠ったままの蒼を、その心に眠る全てを見る事ができるものならと願いながら覗き込む。
「だからマディ、君は堂々として、自分が正しいと信じる事を行動に移せばいい。君が間違えていたなら俺が指摘するなりその誤りを正すなりするし、間違えていないのなら全力で君をサポートする。ただ君は、俺と自分を信じていさえすればいいんだ」
 全面的に肯定する言葉が、弱気な心に力を与える。ほんの少し、どうしようもないくらいに弱い自分を赦し、認めてもいいのかもしれないと思ってしまう。
「やっぱりあなた、私の事を甘やかしすぎだわ」
「俺が? それは嬉しいな。何しろずっと、君を猫っ可愛がりしたくて仕方なかったんだ」
「もう……」
 さっきまでの苦しげな表情は、いまや嬉しさを押し隠すための苦笑が取って代わってしまっている。そんなマデリーンを優しく抱き寄せ、髪に挿されているコームを引き抜く。ほんの少し歪になりつつも優雅な巻貝の形を保っていた絹糸の束が、波を打って流れ落ちた。そのうちの一房を救い上げ、鈍い光沢へ唇を寄せる。
「本当の事だ。馬鹿げたすれ違いをしている間も今も、俺の最大の望みは君を俺自身の手で幸せにする事なんだ。他の人間にその役目を譲れるほど、俺は寛大にはなれない。だから……」
 腕の中にすっぽりと納まる細い身体を強く抱きしめ、微かな身震いと共に肺の底から息を吐き出す。
「……君を、失わずに済んで、本当によかった……」
「ええ、そうね。……私、あなたを諦めなくて、本当によかった」
 素直に頷いて、彼女は夫の胸へと身体を預ける。
 自分自身の勇気のなさゆえに自ら迷宮へと閉じ篭っていた年月は、居たたまれないほどに孤独で苦しかった。だけどその痛みをなくすためにただ一人愛した相手から離れるなど、考える事すらできなかった。彼を手放せば、更なる苦しみが待ち受けているのだと心のどこかで知っていたから。
 そしてその苦しみの先に今がある。ずっと二人の間で深い眠りの中にあった真実が憂苦の日々の果てにようやく目覚め、彼らに揺ぎない幸せをもたらしてくれた。
 もちろんこれからだって、問題は打ち寄せる波のように彼らを訪れるだろう。だが、これまでを思えば、そして今の二人の絆を鑑みれば、どんな難問であったとしても乗り越えていけるだろうという確信が、マデリーンの中にしっかりと根を張っている。
 だから、大丈夫だ。今はただ、抱きしめてくれるこの腕を信じて、全てを明け渡せばいい。
「ねえあなた」
 肌触りのいいパイル地のバスローブにそっと頬を摺り寄せ、甘えるように呼びかける。
「ん? どうかしたかい?」
「大した事じゃないの。ただね、伝えたくて」
 肌越しに深く響いてくる声にうっとりと酔いながら、マデリーンは詠うように続けた。
「幸せなの。あなたとこうして一緒にいられて。あなたに愛されているって感じる事ができて……ただただ幸せなの」