かぶ

真実の目覚める時 - 62

 超高層ビルの最上階に繋がるエレベーターは一基のみで、それを部外者が利用するには警備主任の持つカードキーと暗証番号の入力が必要となる。レセプションにてそんな説明を受けたアリシアは、セキュリティの物々しさに畏れを抱くより、そんなシステムを可能とするモーガンヒルの強大さに強い憧憬を覚える。
 彼女は今、モーガンヒル・グループがニューヨーク本社を構えるモーガンヒル・プラザの最深部にひっそりと存在する、重役用エレベーターホールで、最上階から降りてくるエレベーターを待っていた。
 これまでこの建物を訪れた事は何度もあるが、この場所に足を踏み入れるのは初めてだ。いや、それどころか、こんな場所が存在する事さえ、ほんの数分前に知らされたばかりだ。
 現行の、もしくは将来的なプロジェクトに関する事以外でランドルフがアリシアを呼び出すのは、これが正真正銘初めてだった。呼び出した、と言っても直接連絡があったわけではない。当然だが、彼の秘書であるケネスからアリシアの秘書へ彼の意思が伝えられ、アリシアの予定を相手の都合に合わせて調整した上で会談を承諾した。
 物柔らかな電子音と共に、エレベーターのドアが開く。慇懃な態度で中へと促す警備主任に同じく慇懃な態度で頷きを返し、アリシアは一般のエレベーターよりは広い、しかし今の心境からすれば十分すぎるほどに狭い空間へと足を踏み入れた。
 ランドルフ・モーガンヒルは、何事にも電光石火の判断力と行動力で全てを動かすと世間では評されている。それは紛れもない事実で、彼の元に上げられた案件は、よほど重要な課題でもない限り、彼が目を通してから三十分以内には必ず回答が与えられる。そんな相手だからこそ、アリシアの暗躍に対して彼が何らかの行動を取るつもりならば、翌日にはその噂が伝わってくると思っていた。
 だが、メトロポリタンでの祝典からすでに五日が過ぎている。
 当初こそはお咎めなしかと安堵していたのだが、音沙汰がまったくない日が連なるにつれ、本当にそうなのだろうかと不安が芽生え始めた。もし行動を起こすつもりがあるのにあえてまだ起こしていないのだとすれば、それは何が原因なのだろうか。なぜ、彼は何も言ってこないのか。スキャンダルを恐れたのだろうかとも考えたが、これまでゴシップ誌を盛大に騒がせていた男なのだ。今更すぎるし、それきしの理由では黙殺するには至らない。
 考えれば考えるほど自分に不利な結論しか導き出されず、アポイントが取られた昨日の夕方からずっと、アリシアはまんじりとできずにいた。
 鏡代わりにつかえそうなほど綺麗に磨き上げられた黒いアクリル板と木目プリントの板が、ドア側を除いた三面の壁をそれぞれ三等分して交互に並べられている。色ゆえに自分の顔色や細かな造作までは見えないまでも、身だしなみを確認するには十分使える。
 今日のアリシアは、どんな展開が起こったとしても対応できるように、比較的フォーマルなグレイスーツを身に着けている。あわせたパールホワイトのブラウスは胸元に華やかなシルクのレースがあしらわれており、長い脚を覆うくるぶしまでのタイトスカートはバックに膝までのスリットが入っており、歩くたびに形の整った白いふくらはぎの印象を、すれ違う人間の脳裏に強く焼き付ける役割を果たしていた。
 気圧変化による不快感をなんとか飲み下した時、不意に下方向への重圧が強くなり、無機質な電子音声が到着を告げた。さほど待たずして開いたドアの向こう側には、完璧なポーカーフェイスで感情を隠したケネスが待っていた。
「お待ちしておりました。社長がお待ちです」
 慇懃な物腰で告げたケネスは、アリシアが腕に掛けていたコートを受け取ると、傍に控えていた女性へと手渡す。彼女がとても丁寧な手つきでそれをハンガーにかけるのを横目に見ながら、アリシアは先に立って歩きはじめたケネスを追いかけた。
 これが現代のビルの中とは思えないほどに重厚な雰囲気を持つ廊下の両サイドには、十分すぎるほどの間を空けて幾つものドアが並んでいた。全てのドアには磨き上げられた真鍮のプレートが取り付けられており、その全てがモーガンヒルを動かす重役の名前を刻んでいる。もしもこんな扉を、ネームプレートを持つオフィスを構える事ができたなら、それはどんなにか素晴らしい事だろう。
 だがそんな考えも、長い廊下の終端に見つけた、果てしない年代を感じさせる両開きの扉の前に立ったとたんかき消された。
「すごい……これ、どうやって……?」
 無意識の呟きに、ケネスがほんの僅かに笑みを漏らす。
「初めてご覧になるお客様は、大抵驚かれます。ここまでの廊下でも見ていただいた扉も含め、この階の内装には初代のモーガンヒル社長がヨーロッパで購入された邸宅で使用されていたものをそのまま持ってきているのです。アメリカに渡ってきてからもすでに五十年近くが経っていますからね。かなりの歴史的価値もあるはずです」
 これまで何度も繰り返してきたのだろう説明をし、ケネスは扉を強くノックした。
「失礼します」
 見た目だけでなく重いドアを押し開け、青年は客人を室内へと促す。
 ケネスに先導されて足を踏み入れたとたん、ガラス張りの窓の外に広がる、この季節にしては珍しいほど綺麗に晴れた空とダウンタウンが目に入った。
 高所恐怖症であれば卒倒してしまいかねない光景だが、アリシアにとっては、まさに夢に見た光景だ。それを目にした一瞬、全身を駆け抜けた震えはきっと、夢想でしかなかったものが現実として目の前に存在するという興奮ゆえだ。
 彼女をかき立てるのは窓から見える光景だけではない。初めて入る事を許された部屋そのものが、ハイステータスの証だった。アリシアが己がものとしたオフィスの優に五倍は広さのあるその部屋は、いっそ寒々しささえ感じさせるほどに無機質で、生活感もなければ、誰かがそこで日常的に仕事をしているという空気すらない。
 これがもしも自分の仕事場であれば、スチールとアクリルガラスなんて素材は使わない。しっとりと重厚な年月を感じさせる木製の調度に、現代風のカラフルに染められた本革をあつらえるべきだ。アクリルやプラスチックもいいけれど、使いすぎると安っぽくなってしまうから、最低限のだけ使う。それもできれば、人があえて目を留めないちょっとした置物などで使えばいい。来客は視界の端になんとなく引っかかった色に思わず振り返り、そこで思いがけずポップな素材を見つけて目を瞠るのだ。この部屋のこんなところにこんなものがあったのか、と。
 無意識に頭の中でインテリアの設計図を描いていたアリシアは、彼女が入室する前からデスク上の端末を操作していた部屋の主が作業を終えて彼女を観察していた事にも、本来であれば退室しているべきケネスが閉ざしたドアの内側に控えていた事にも気づいていなかった。
 どれくらいの時間呆然としていたのか、受けた衝撃がようやく引いて現実に立ち返った頃、深みのあるバリトンが耳朶を打った。
「ミズ・アリシア・ブルネイ。忙しいところ、わざわざすまないね」
「いいえ、どうぞ気になさらないで。最近は忙しさにも慣れてしまったのか、多少のオーバーワークにも動じる事はありませんの」
「それはそれは」
 微かに口元を笑みの形に歪め、改めて椅子から立ち上がったランドルフは、彼の机の正面に置かれているシンプルな造りの椅子を手で示した。そのジェスチャーの意味するところを正しく捉え、アリシアが計算しつくされた挙動で腰掛ける。
「さて、君は今日、どういう理由でここに呼ばれたのか、わかっているのかな?」
「意地悪な方ですわね。教えられてもいないのに、どうして私が知っていると思うの?」
「おや、そうなのかい? 君には特殊な情報網があると秘書から聞かされていたからね。てっきりすでに知られていると思っていたよ」
 鋭い視線がアリシアを射抜く。元々理由も与えられず呼び出された時からあまりいい予感はしていなかったが、どうやらそれは的中したらしい。じわりと冷たい汗が背中に浮かぶ。
 それでもその不安をわざわざ見せる必要もない。もしかすると、まったく別の件で呼び出されたのかもしれないのだ。――その可能性は、限りなく低いけれど。
「何の事かしら。私にはさっぱりわからないわ」
「卑劣な事をするわりに、中々胆が据わっているらしい。いや、無神経なだけか? その両方かもしれないな。だがまあ、それはどうでもいい」
 予想以上の辛らつな言葉に顔をしかめたアリシアなどはあっさりと無視して、ランドルフは引き出しから取り出した書類を机の上に広げる。
「すでに察しはついているだろうが、ケネスは君との関係について洗いざらい白状している。それを元に、ちょっとした調査も行わせてもらったよ。おかげで中々にショッキングなものも見せられたりしたが、それは今回の件に直接関係しないのでね。今は言及せずにおこう」
 書類からほんの僅かな間だけ視線を上げてじっと次の言葉を待つ女性を見つめ、彼は言葉を続けた。
「では、早速本題に入ろう。――君が私の妻に対して成した行為については、当然だがそう簡単に赦す事はできない。本来であれば、私に対する名誉毀損と妻に対する精神的苦痛の損害賠償を求めたいところだが、人生とは不思議なものでね。君にとっては不本意極まりないだろうが、今回の事があったおかげで、妻との間にあった問題が完全解決してね。今では新婚時代よりもいい関係を結べている。そう思えば、私は君に対して、感謝を示すべきかもしれないな」
 揶揄の言葉を口にしつつも、その目は変わらず冷たい光を放っている。あまりにも居心地が悪くて視線を膝の上に落とすが、これではまるで負けを認めているようだと思い直し、アリシアは大きく息を吸って、睥睨してくるモーガンヒルの頂点に立つ男性を仰ぎ見た。
「お二人の仲がどうなんて知りませんし、それに感謝……? 私、何か特別な事でもしまして? まったく心当たりがないのだけれど」
「ミズ・ブルネイ、残念だがそれは通用しない。言っただろう? すでに調査は終わっているんだ。モーガンヒルが有する調査機関は君が想像するより何倍も優秀でね。私としてはそんなつもりではなかったんだが、彼らは常に私が期待する以上の結果を出してくれる。――もっとはっきり言おうか。私の手元には、君の来歴すべてを詳細に調査したものがあるんだ。その中には、君が私の妻に対してしてくれた行為のみならず、現在の地位を手に入れるために君が行動した結果、起きてしまった事象までもが掲載されている」