かぶ

真実の目覚める時 - 63

 はっと息を呑む音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。それから数秒の沈黙の後に、アリシアはヒステリックに声を上げた。
「プ、プライバシーの侵害だわ! そんな事を調べるだなんて――」
「君がそれを言うのか? それともまさか、電話帳には載せていないはずの電話番号を調べたり、他人の秘書から情報やスケジュールを引き出すのはプライバシーの侵害には当たらないと考えているのかな? ああ、もしかすると、法律的には違うかもしれない。だがもし君が公的機関に私の行動を告発したとしても、こちらには君がした事に対して法的手段をとるために行った、という大義名分が成り立っている。そう考えると、あまり不用意に騒がない方がいいと思うのだが」
 完全に血の気の失せた顔を感情の篭らぬ目で見やり、ランドルフは続ける。
「先ほども言ったように、私は君の行為をそう簡単には許せない。だが、だからといって、あまり大事にもしたくないんだ。何しろこの件が世間に知られてしまえば、私や君だけでなく、妻までもがいらない注目を浴びてしまう。ただでさえ君や君の同類のおかげで彼女の心は弱っているんだ。これ以上負担かけたくない」
 そっと息を吐き、個人用端末のそばに立てているフォトフレームへと視線を向ける。息子を抱いて幸せそうに微笑む妻の姿絵を見るだけで、荒みがちな心が自然と静まる。
 本音を言えば、マデリーンを苦しめた人間などどうにでもなればいいと思っている。いっその事、破滅させてやろうかなどと物騒な考えを抱いたのも一度や二度じゃない。けれどもしもそれを実行に移した時、優しすぎる彼の妻はきっと喜ばないだろうと――それどころか、自分と関わったせいでそんな事になってしまったというように、逆に自分自身を責めてしまいかねないと容易く想像がついた。
 ランドルフが常に願っているのはマデリーンが幸せである事と、幸せに微笑む彼女のそばにある事。ただそれだけだ。
 だからこそ彼にはケネスを一概に責める事ができなかった。もしも自分が彼の立場にあったなら、きっともっと強引に事を進めていただろうという確信さえあった。もちろん無罪放免にするつもりはないが、情状酌量の余地はある。
 しかしアリシアは、ただただ自分の野望のためだけにマデリーンを傷つけた。それでいて、自分のしでかした事に対する反省の色はまったくない。まあ、これまでにも地位のある男を、妻や恋人の有無など気にせず誘惑しては己の望みを叶えてきたのだ。今回に限って妻の座を求めた理由はわからないが、そのターゲットにランドルフを選んだ時点で、彼女の敗北は決まっていた。
 声は出さないままランドルフは静かに笑みを浮かべると、改めて目の前の女性へと顔を向けた。
「本来は、万が一にも妻が私以外を望んだ場合に引き止める切り札として使うつもりだったんだが、こうなってみると、あの条項は中々に面白い意味合いを持つ事になる」
 唐突な話題変換に、アリシアだけでなく部屋の隅で控えているケネスさえもが不審な顔になる。そんな二人を見やり、彼はどこか楽しげに続けた。
「これは別にオフレコではないから言いふらしてくれて構わない。――実のところ、君や君の同類の企みが功を奏していた場合、私個人が有する財産の大半はマデリーンに与えられていたのだよ。婚前契約書に私が書き入れた内容なのだが、彼女に譲るとした中には投資や節税目的で購入した土地や株、それからモーガンヒルの経営権も含まれている」
 この言葉の意味を彼らが正しく理解できるまでには、しばらくの時間を要した。
「なっ――!? そんな馬鹿な条件をつけるだなんて……正気じゃないわ!」
「そうだな、確かにそうかもしれない。だが、恋情が人間から正気を奪うというのは歴史が示しているとおりだ。私は妻への想いが一生変わらないという自信があったし、妻の性格を考えれば、離婚する事で私が一文無しに限りなく近い状態に陥ると知れば、そう簡単に私を捨てる事はないだろうと考えたのだよ。それに、万が一にも私が心変わりを起こしていた場合、その相手の想いを計るかっこうの指針ともなっていただろうね。たとえば君ならどうかな、ミズ・ブルネイ。離婚によって私が無一文になるとわかっていても、君は私を妻から奪いたいと思うかい?」
 答えを確信しきっているその態度に、アリシアはきつく唇を噛み締める。
 彼女には理解できなかった。一生を確信できるほど強く人を愛する人間がいるなど考えた事もなかったし、その相手を引き止めるために、もしくは心変わりを償うために、財産を投げ打てるような人間が存在するなど、夢にも思った事はない。離婚率は高まるばかりな上、親子間の愛情でさえ確実とはいえないこの時代に、どうして男女間の、夫婦間の愛をそこまで重くみる事ができるのだろうか。
「君の調査書から、君はどうやら愛情というものにあまり重きを置いていないらしいという事はわかった。だが、だからといって、他の人間もみなそうだなどと考えるのはどうだろうか。君がこれまで会ってきた人間はそうだったかもしれないが、私も妻もそんな人間じゃない。そこにいるケネスもだ」
 優雅に持ち上げられた手が示した方へと視線を向けて初めて、アリシアはケネスもこの場にずっといたのだと知った。同時にこれまでランドルフによってなされた真実の開示を思い返し、全身が羞恥と晒し者にされたという怒りで熱くなる。
「どうして彼が、ここにいるの?」
「わかりきった事じゃないか。ケネスは今回の件に深く関わっている当事者であるし、私が君と二人きりになるのは甚だ好ましくない。個人的には弁護士も呼んでおこうかと思ったのだが、さすがに物々しすぎると判断してね。関わりのない人間を呼んでもよかったが、それでは望まぬ噂が広まらないとも限らない。結果、ケネスを同席させる以外の選択肢がなくなってしまったというわけだ」
「だけど――こんなの不公平だわ!」
「では、今からでも君の秘書なり弁護士なりを呼び出すか? 私はそれでも構わないよ。事を大きくしたくないというのは純粋にこちらの都合だ。君が事を構えるつもりなのなら、私は喜んで応じるだろう。探られて痛むような腹はないし、全力で君を叩き潰すだけの理由ができる」
 アリシアの激昂は、まさしく一瞬で凍らされた。
 正面にいる男性の目も、表情も、声も、その纏う空気でさえ、彼が今口にした言葉は百パーセント本気であると告げていた。
 彼はアリシアに対し、本気で怒りを覚えていたのだ。結果はどうあれ、自分と妻の仲を引き裂こうとした事を、そしてその手段としてケネスを利用した事を、深く憤っていた。それを今まで隠せていたのは、彼の類まれなる自制心があってこそだ。そうでなければ、今頃彼女はモーガンヒル・グループビルの一室ではなく、判事の前に立っていたかもしれない。
 そう悟った瞬間、アリシアは身体の中が凍りついたような感覚を覚えた。
「あ、あ……」
 どうしてこの男性を、手玉に取れるなどと思ったのだろう。他の女性たちがどんなに手を尽くしても彼を手に入れられなかったと聞いた時に、なぜ、自分ならば上手くやれるなんて考えたのだろう。
 たしかにこれまでのアリシアにとって、失敗の二文字は――特に男性を相手にした時には――存在しないも同然だった。わざわざ過去を振り返る必要もなく、ただ前を、上を見て進んでいけばいいだけだった。欲しいものは、金であれ、男であれ、地位であれ、ほんの少しの立ち回りでいとも容易く手に入った。もちろん時には望まぬ事もした。だけどそれも、自分の願いを叶えるためだと思えば、いくらでも我慢できた。その時さえ耐えれば、最後に笑うのは自分なのだからと、そう自らに言い聞かせて。
 今回は、その中でも最大の躍進になるはずだった。磐石の地位と後ろ盾を手に入れるための一歩のはずだった。
 なのに一体どこで間違えたのだろう。どうして彼を侮り易しと見くびってしまったのだろう。なぜ計画がうまく運んでいない事に気づいていながらも、計画の変更を考慮しなかったのか。
 ああだけど今更そんな事を考えたからといって事態はまったく好転しない。どうせならこの状況から少しでも早く逃れるにはどうすればいいかを考える方がよほど建設的だ。
 逡巡と弱気を追い払うために強くまぶたを閉ざしてゆっくりと呼吸を繰り返す。ともすれば挫けそうになる心を無理やり奮い立たせながら目を開き、意識的に姿勢を正すとランドルフを見上げた。まるで実験動物でも観察するような温度の感じられない目に怯みかけるが、ぎりぎりのところで矜持を保つ。
「それで、結局あなたは私に何をさせたいの? ご自宅まで出向いて奥様に謝罪でもすればいいのかしら」
「君がそんな事をしてもマデリーンは喜ばないさ。それに、こちらから君に何をして欲しいというつもりもない。ただ、君のような信用の置けない人間に今後も仕事を依頼するような真似はさすがにできない」
「っ――! ま、さか……」
 ほんの少し血の気を取り戻していた顔が、再び色を失う。その変化をはっきりと見とめながらも、ランドルフはどこまでも冷静に告げた。
「残念ながら、きっと君の想像どおりだ。ケネス、書類を」
「はい」
 部屋を対角に横切り、ケネスは脇に抱えていたマニラ封筒を上司へと差し出す。元いた場所に戻る直前、アリシアへと視線を向ける。どうにかこうにか保っていた緊張の糸が切れてしまったのだろうか。哀れみさえ覚える程に青褪めた彼女は、腰掛けている椅子に全身を預けたまま、ただ呆然と宙を見つめていた。
 秘書より受け取った封筒を開き、内容物を確認する。現代の契約書類というものは、一般人が一読しただけでその内包するすべてを理解する事はできない。日々複雑化する理由としては、各陣営が自らに有利な抜け道を残そうと腐心するからであり、同時に自分以外ばかりが得をしないようにと様々な状況を想定した上で、相手に枷を嵌めようとするためなどだ。
 稀に、自分にとって不利な契約を故意に結ぶ者もいるにはいるが、それはそうするだけの理由があってこそだ。
 今回のケースでは、アリシアがモーガンヒル・グループで現在手がけている案件全てから手を引かせる事が最大の目的である。しかし雇用契約の破棄という問題がかかわってくるため、不用意に実行しまうと、不当解雇として逆に訴えられてしまいかねない。また、すでにある程度形ができているものについては、どこからどこまでを採用し、採用した部分の権利をどう取り扱うかなどについても慎重に決める必要がある。
 ショックのために思考力が落ちているようだが、彼女が我に返った時、どんな手段でもって反撃をしてくるのか、まったく想像がつかない。今のアリシアの状況は、まさに追い詰められたネズミだ。破れかぶれになって、巨大なネコののど笛を食い千切らんと飛び掛ってこないとは言い切れない。
 そのため、ランドルフはアリシアの罪状を徹底的に洗い上げる間に、グループで擁している弁護士にコンタクトを取って今回のようなケースではどのような法的措置を取り得るのかを確認した。その上で不当解雇や契約違反で訴えさせないための手段や、将来的にアリシアがモーガンヒル・グループおよび彼ら家族に不利益を与えられないようにするための策について意見を求めた。こういった諸々全てをクリアした上で作成された誓約書が、ランドルフが現在手にしている封筒の中に一式揃っている。