かぶ

彼の真実

 ケネスがマデリーンと初めて会ったのは、彼がモーガンヒル・グループのマーケティング部門でランドルフのアシスタントという名目でインターンシップをしていた時の事だ。
 インターンシップは、三ヶ月近くに及ぶバケーションのほぼ全てを使って行われる。そのため帰郷もままならなくなったケネスが大学寮で寂しく過ごしてると知り、ランドルフが自宅での夕食に誘ったのだ。
 元々ケネスはランドルフが結婚をしている事も、その年の春に子供が生まれた事も知っていた。古い新聞記事や雑誌に掲載されていた結婚当時の写真で、「ランドルフ・モーガンヒルの妻」の顔を見てもいた。しかし、学内で耳にした噂によれば、在学時のランドルフは、モデルや女優にも引けを取らないようなゴージャスな美人を何人も恋人にしていたという。そのイメージが強すぎたのだろう。写真の中でランドルフの隣にいる女性は、確かに美しくはあるけれど、かのランドルフ・モーガンヒルが妻として選んだ女性だと考えるには物足りなく思えた。
 さすがにそんな考えを直接ランドルフにぶつける事はなかったが、何度かそれとなく家族の話題に水を向けてみた事がある。そんな時、彼は生まれたばかりの息子については「もう結構ですから!」と止めなければならないほど生き生きと語ってくれたのだが、妻の話になったとたん、口が重くなった。なぜだろうかと疑問に思っていたケネスだが、その謎は結婚に至る経緯を聞かされて初めて氷解した。
 つまり、ランドルフは父親の願いを叶えるために、手近にいた女性をやむなく妻にしたのだと、そう納得したのだ。
 だから実際に彼女に会う事については、特に乗り気でもなんともなかったのだが。
「はじめまして、マデリーン・モーガンヒルです。あなたがケネスね? 夫から色々と聞かされていたから、ずっと会いたいと思っていたのよ」
 心からのあたたかな歓迎の言葉と眩い笑顔で出迎えてくれたマデリーンを見た瞬間、これまで勝手に作り上げていたイメージが盛大な音を立てて粉々に砕け散るのを青年ははっきりと聴いた。
 見た目だけで判断するなら、自らの美貌を磨く事に全身全霊を懸けている女性たちにはっきりと軍配が上がる。けれど目の前に現れたこの女性には、そんな彼女らが中々持ち得ないものが備わっていた。それはたとえば初訪問客であるはずのケネスが、まるで長年の友人宅にやってきた時のようなくつろぎを感じさせる心配りであったり、どんな話題を振られても淀みなく反応を返せる知識の広さだったり、言葉もろくにしゃべれない息子を世話する時に見えた、溢れ出さんばかりの愛情であったり。そして、そう。その夜のメインとでも言うべき料理の腕やサービングのセンスも、モーガンヒル・グループの頂点にいずれ君臨する男の妻として望まれるべき水準を完全に満たしていた。
 ランドルフは、まるで適当に石を投げてあたった相手と結婚した、なんて事を言っていたが、本当のところは厳しい条件に添える相手を厳選したのだろう。そう考えを改めた。
 結局その夏は大半の休日と夕方をモーガンヒル家にて過ごしたケネスは、ランドルフとは揺ぎない信頼関係を作り上げ、マデリーンとはまるで姉弟のように親しみ、アマデオはもはや甥っ子同然になっていた。
 ただ一つ、どうしても腑に落ちなかったのは、マデリーンの夫に対する態度だった。
 後から思いかえせば、当時のランドルフはかなり率直に妻への敬意を、言葉でも態度でも示していた。これだけはずっと変わらない挨拶のキスや日中の様子を尋ねる言葉、ちょっとした気配りに対する感謝、料理の腕に対する褒め言葉、息子を世話する際のさりげないサポートなど、まめまめしく向けられる愛情に対してのみ、彼女は困ったように、戸惑うように、ぎこちない反応を示した。
 差し出した愛情への反応がそれでは、程度の差こそあれ失意を感じずにはいられまい。それも誰に対してもそんな風ならまだ救いもあるが、ケネスが似たような言動をした場合は、素直に感謝や照れ隠しの言葉を返すのだ。
 ランドルフはどうやら妻との距離を縮めようとしているようだが、当の彼女はそれを望んでいないらしい。だけどなぜなのだろう? やはり結婚に至る経緯で何かがあったのだろうか。
 そんな風に考えていたある日、ケネスはふと、自分が考え違いをしていた事に気づいた。
 息子をあやす夫の姿を見守るその目は、確かに二人への愛情が宿っている。何でもない時に夫から何気なく触れられたその場所を、幸せそうに指先で辿る。思わずそっけない態度を取ってしまった後、ほんの少し翳りを浮かべる夫の横顔を、苦しげな表情を浮かべて見つめている。褒め言葉や感謝の言葉をかけられた時は、ほんの刹那、嬉しげに顔を輝かせてから態度を取り繕う。
 どうしてそうなったのかはわからない。たけど彼女はただ、不器用なだけなのだ。夫から向けられる愛情を、どのようにして返せばいいのかがわからないのだ。
 一度気づいてしまえば、それが事実なのだと示す証拠はいくらでもあった。むしろそれに気づけないランドルフに対して苛立ちさえ覚えた。今振り返れば、マデリーンがどんな目で自分を見ているかに気づけるだろうに。ああ、そこで引くなって! マデリーンが何か言いたがってるだろう? 違う、違うから。彼女は嫌がってるんじゃなくて反応に困ってるだけなんだってば。まったくどうして気づかないんだよ。あなたが気づけば全ては丸く収まってハッピーエンドだってのに。もしも自分がランドルフの立場にいたのならなら、きっとすぐに彼女の本心を見つけ出せるはずだ。そうしたら彼女を強く強く抱きしめて、愛しているよと告げるのに……!
 一気に現実に立ち返った。
 今、自分は何を考えた? 誰に、何と告げようと思った?
 自分の感情がどう動いているのか、自分自身でもわからなかった。恐怖に胃が引き攣れそうなのに、心臓は興奮から信じられないくらいの速さで鼓動を打っている。身体中が燃えるように熱いのに、全身を覆っているのはじっとりとした冷や汗だ。
 それでも目の前に現れた真実を、今更否定する事はできなかった。
 ケネス・ヒルストンは、ランドルフ・モーガンヒルの妻であるマデリーン・モーガンヒルを愛している。そしてマデリーンは夫であるランドルフを愛していて、ランドルフも妻を憎からず想っているようだ。
 ならば自分の出る幕など、これっぽっちもない。
 そうは思っても、簡単には諦められなかった。行き場のない恋を忘れようと、何人かの女性と付き合ったりもしたのだが、どうしてもマデリーンと比べてしまって長く続かない。大学を卒業し、マーケティング部長になったランドルフの正式なアシスタントとして働き始めた時点で、マデリーンの身代わりを求めるのはやめにした。代わりに仕事に打ち込みはじめたのだが、そうすると今度はランドルフの浮気性な部分を見せつけられる羽目になり、それが原因で哀しむマデリーンの姿に、何度も慰めるための腕を差し出したくなった。――慰めが慰めだけで終わらなくなってしまう事が怖くて、結局一度も行動には移せなかったけれど。
 十年という年月は、長く見えるようで意外に短い。その間にランドルフはモーガンヒル・グループのCEOに上り詰め、ケネスはアシスタントから筆頭秘書へと地位を上げた。大学寮を出た後は安アパートでシェアをし、安さだけが売りのスーツを着ていたが、今ではそこそこのフラットに一人暮らしをし、テイラードのスーツを年に数着買えるだけの稼ぎも得た。
 だが、それでもマデリーンへの想いは変わる事なく、ただその強さだけが増していく。ランドルフのプレイボーイ説は完全に定着し、そんな噂を耳にしても、マデリーンは表情をほとんど変えなくなった。彼らの間は完全に冷え切り、アマデオがいなければ二人の関係は壊れているのではないかと考える事もしばしばあったが、妻に関してランドルフが見せる嫉妬心の片鱗や、マデリーンの夫へと向ける切ない視線を見るたびに、彼らが互いを求め合っているのだと改めて思い知らさた。募る忠誠心と恋情と嫉妬心の鬩ぎ合いは激しさを増す。その苦しみに身を焼かれ、限界の近さを感じながらもケネスは忙しい日々をただただ生きてきた。
 アリシア・ブルネイがケネスに声をかけたのは、そんな時だった。
 これが上手くいってもいかなくても、何らかの終止符を打つ事ができる。そう思った。