かぶ

彼女の家庭事情 - 01

 それは、夏休みまであと一ヶ月になったある日の放課後。
 僕は夕方まで帰ってこなくていい、という父さんの指示を受けてロビンと一緒にロビンの家に行ったんだ。
 出掛けに父さんから渡された大量のサマーキャンプの資料を二人で見て、どれに参加するのかを決めるのがその日の予定だった。
 だけどその予定は、誰もが予想していなかった人の登場によって変更を余儀なくされたのだ。
「ああ、ロブ! マイ・ディア・ロビン! 会うのは本当に久しぶりね! ちゃんと世話もしてもらってるみたいだし、元気そうじゃない。突然置いていってしまったから心配してはいたのよ? でも安心した……」
 すごい勢いでまくし立ててロビンに抱きついた女性がまさかその人だなんて、僕には咄嗟に理解できなかった。
 だって僕が知っていた彼女は――ロビンのママのローナさんは昔の母さんみたいな、いつもどこか寂しげな空気を纏った人だったから。
 ロビンによく似た赤い髪をうなじの辺りでゆるく括り、女性的ではあるけれどどこか地味な格好をしていたはずの彼女は今、髪を一つのシニヨンにまとめて正しくキャリアウーマンって言いたくなるようなぴっとしたダークグリーンのパンツスーツを身に着けていた。
 ロビン自身もこの状況は予測していなかったらしい。何度も抱きしめては顔中にキスの雨を降らせるその人を呆然と見つめていた。
「……母さん? どうしてここに……?」
「どうしてって、迎えにきたに決まってるじゃない! やっとボストンで新しい仕事が正式に決まったの! それも前より遥かに待遇のいいポストなのよ! ほら、以前会ったでしょう? ミスター・オルソン。あの人が私が仕事を探していると知って紹介してくれたんだけど、あんたとも一緒に暮らせるきちんとしたアパートメントも用意してくれるらしいわ。もう、至れり尽くせりってこういうのを言うんだわね!」
 戸惑うロビンの様子には気づいていないのか、ローナさんは興奮も露わにまくし立てていた。
 ――彼女の帰還を、僕は歓迎するべきだ。
 だけどそれがロビンを連れて行ってしまう事と同義だというのなら、僕にはどうあっても喜ぶなんてできない。
 できるはずが、ない。
 ゆっくりと息を吸い込むと、荒れ狂う心をほんの少しだけ落ち着きを取り戻す。その上でかき集められる限りの冷静さをかき集め、ポーカーフェイス代わりの笑顔を顔に貼り付けると、辛うじて作り上げた平坦な声を搾り出した。
「――ローナさん、お久しぶりです。僕のこと、覚えてらっしゃいますか?」
 きっと僕のことなんて目に入ってもないのだろうと思っていたけれど、まさにその通りだったらしい。ぎょっとして顔を上げたローナさんは、しばらく僕の顔を呆然と眺めてからはっとしたように頷いた。
「え、ええ、もちろんよ。たしか……ランディ、だったわね? 久しぶり。まだロブと一緒に遊んでくれているのね」
「はい。以前と変わらずロビンとは親しく『お付き合い』させていただいています。今日も二人でこの夏休みの計画を立てようと、パンフレットを持ってお邪魔したんですが……」
「あら、そうだったの? でも、困ったわね……」
 ちらりとロビンに向ける視線から、彼女が娘は自分を選んでついてくるのだと信じて疑っていないらしいと気づく。だけど当のロビンはと言えば、ほんの少し顔を青ざめてきゅっと口元を引き絞ったままだ。
 これは、この表情は――
「ロビン、大丈夫だよ。君が嫌なら、誰も君に無理強いはできないし、させない。だから安心して?」
 ローナさんの腕の中からやんわりとロビンを取り返し、その上でじっと目を見つめて微笑めば、ほんの少しだけロビンの身体から緊張が抜ける。その事に安堵して、僕はロビンのママを振り返った。
「ところでローナさん。ロビンのお父さんはあなたがここにいる事をご存知なんですか?」
「え? ええ、前もって連絡してはいるわ」
「では、彼は間もなく戻ってくるんですね?」
「さあ、どうかしら? 電話をした時には中に入れるように指示しておく、としか言わなかったもの。わからないわ」
「そうですか……」
 まったく、ロビンのお父さんときたらどうしてこうも頼りないのだろう? そんなにもロビンに興味がないのなら本気でさっさとうちにもらってしまおうか。養子縁組をしてしまったら将来的に面倒になるかもしれないから、親権だけこっちに預けてもらおう。そうすれば僕は四六時中ロビンと一緒にいれるし、父さんが母さんといちゃいちゃしたがるせいで取り残されて居心地悪くなることもなくなるし!
 ――などと無茶な考えを頭の片隅で転がしながら、僕はローナさんへと言葉を投げる。
「ところで、万が一にもロビンが一緒に行くと言ったとしても、まさか今日、今すぐ引き取るなんていいませんよね? というより今日、ここで今すぐ結論を出せとはおっしゃいませんよね? ロビンにはこちらでの学校や生活もありますし、僕をはじめとして友人たちもいる。それにロビンのお父さんの考えも聞かないうちに決断を下すなんてできませんし、してはいけないはずです。ローナさんもお忙しいでしょうが、今日は一度お引取りいただき、また日を改めて――その時にはきちんと前もってロビンのお父さんだけではなくロビンにも来訪をご連絡いただいた上で来てくださいますか? その時にはきっとあなたをお迎えする準備を整えているでしょうし、結論も出ているでしょうから」
 自分でもはっきりわかるくらい冷たい声が出た。
 きっと表情だってそんな風になっているのだろう。視界の片隅に映るロビンの驚いたような顔からもそれがわかった。
「え、ええ、それは、まあ……」
 まさか僕みたいな『子供』からこんな事を言われるとは思っていなかったのだろう。戸惑った顔でいたローナさんは、けれどすぐに冷静さを取り戻すとほんの一瞬顔を険しくさせ、それでも大人らしく表情を取り繕った。
「――ねえ、ランディ? これはうちの問題であって、あなたには関係のないことなのよ? 子供がいらない口を出さないでほしいのだけれど」
「ええ、そうですね。僕は子供だし、他人でもある。けれど、ロビンが今、酷く動揺していることに気づける程度には親しい仲にあるのも事実です。そもそもあなたはロビンを置いてこの家を出た。その時点で親としての権利を放棄したとも、彼女に対しての育児放棄をしたとも取ろうと思えば取れる。――そうですね、例えばあなたがここでロビンを無理にでも連れて行くというのなら、僕は警察に誘拐の現場を見たと連絡するのもやぶさかではありません」
 ただただロビンと離れたくないというその一心だけで、僕は無謀がすぎるハッタリをかましていた。
 だって僕は、ロビンのご両親が正式に離婚したのかどうかすら知らないし、こういった場合の法的な対処も知らない。こんな事が起きるとわかっていれば前もって調べておけばよかった、なんて今更に思うけれど、今後悔した所で意味がない。今後のために父さんに頼んで誰かにレクチャーしてもらおうと頭の片隅でメモを取りつつ、僕はロビンをぎゅっと抱きしめてまっすぐにローナさんを見返した。
 そんな僕を、彼女はまるで何か奇妙なモノでも見るような目で見ていた。
 彼女の戸惑いがどこにあるのかはわからないけれど、たった十一歳の子供にこんな風に言い返されるのも、ただの友達でしかないはずのロビンを僕がこんな風に必死で守るのも、いや、そもそもロビンがすぐさま自分を選ばないという状況すら、きっと想定外だったのだろう。
 なんとも言いがたい沈黙が場を支配する。
 それを破ったのは、そっと零されたロビンのため息だった。
「……ランディが正しいよ、ママ。オ、じゃない、あたしはもうここでの生活に慣れてしまってるし、ランディもいる。そもそもママが迎えに来るなんて、あたし、これっぽっちも思ってなかったんだ。だから――そう簡単にママと一緒に行くなんて、今のあたしには言えない」
「ロビン……」
 これがとどめとなったらしい。
 目を見開いてじっと娘を見つめていたローナさんは、実に苦々しい表情を浮かべると、ぎゅっと強く拳を握ってうな垂れた。
「……そうね。たしかに、突然だったものね」
 その言葉を聞いた時の僕らの安堵といったら!
 ロビンはわかりやすく身体から力を抜いたし、僕もうっかりするとその場にへたり込んでしまいそうなくらい膝から力が抜けていた。
 だけど、まだ全てが終わったわけではなかった。
 あからさまにほっとした僕たちにほんの少し悲しげな顔になりながらも、ローナさんは言葉を続けた。
「ただね、新しいアパートメントは早く決めなければならないのよ。あたしはあなたが一緒に住む事を前提に部屋を見繕ってもらったんだけど、あなたが来ないのなら部屋の条件も変わるでしょう? だから……そうね、次の日曜日に、もう一度来るわ」
 どうやらローナさんは、こうと決めれば行動に移す事を躊躇わない性格をしていたらしい。
 さっきまでのしおらしい態度はどこへやら、あっさりと再来の予定を告げるとすっくと立ち上がり、応接ソファのそばに置いてあったキャリーケースへと手を伸ばした。
「……お父さんには、会っていかないの?」
「会ってどうするの? ――あの人はあたしに、何も求めていないのに」
 ふっと諦めたように笑って最後にもう一度ロビンを抱きしめると、彼女は驚くほどあっさりと出て行った。