かぶ

彼女の家庭事情 - 02

「……なんていうか、嵐みたいだったね……」
 ドアの閉まる音が消えてようやく、僕は正直な感情を口にした。
 僕が知っていたローナさんと今日見せ付けられた本来のローナさんのあまりの違いに正直驚倒してもいた。なんていうか、かつての父さんの変貌に次ぐレベルの衝撃だ。
「まあそうだろうねぇ。なにせあのヒト、こっちにいた間は必死で猫被ってたから」
 僕のコメントにけらりと笑いながら、ほんの少し寂しげにロビンが付け足す。
「本当はね、あんな風にすっごいさっぱりしたヒトだったんだ。まあ、ボストンでシングルマザーやりながらキャリアウーマン兼任しようと思ったら、それくらいの性格してないと無理だろうけど」
「ボストンはよく知らないけど、大きな会社とかで働きながら女手一つで子供を育てるって、想像するにかなり大変そうだよねぇ……」
「実際のところは大変どころじゃなかったんだけどね」
 呟いて、まだ僕の腕の中にいたロビンはことんと頭を肩に乗せてきた。
「ロビン?」
「……もしかしたらあのヒトは、こうなる事を望んでたのかもしれない」
「え……?」
「だってあたしがいなけりゃさ、あのヒトは残業せずに帰らなきゃとか、朝早く出られないとか、長期の出張には行けないなんて考えずに、バリバリ自分の好きな仕事に打ち込めたはずなんだ。だからもしかすると、あたしがお父さんと一緒に暮らしたいって言い出したのは、あのヒトにとってはいいきっかけだったのかもしれない。あたしがこっちに慣れた頃にボストンに戻る事も、本当は計画のうち、だったのかもしれない」
 苦しげな声に胸を突かれた。
 そんな事ないと否定するのは簡単だ。でも、それが本当かどうかわからない状況では、安易な慰めはしない方がいい。だから代わりに僕は、強く彼女を抱きしめた。
「……だけどさ、ロビン。君のママの決断のおかげで僕らはこうして今、一緒にいられるんだよ? もしかしたら君のママが君を置いていったのは、僕がいたからかもしれないじゃない」
「アマデオが……?」
 耳にした言葉の意味が理解できないとばかり顔を顰める彼女にうんと力強く頷いてみせる。
「そう。ほら、僕。出会ってすぐからもうロビンの事が大好きで、絶対離したくないって思ってたし、態度にも表してたでしょう? そんな風にロビンを想っている僕がいるのに、無理やりボストンに連れて帰るのは可哀想だって思ってくれたのかもしれないよ? だから少し時間を置いた今、もしかしたら僕とは普通の友達になってるかもしれないって考えて迎えに来たのかもしれない」
 無邪気を装って告げてみせれば、ロビンはぽかんとしてしばらく僕を見つめた後、我慢できないとばかり盛大に吹き出した。
「アマデオ、お前マジ最高っ! よくそこまで自信持てるよな……!」
「え、僕、そんな変な事言った? 本当の事しか言ってないよね?」
「いや、もう、どこまでも親父さんそっくりすぎるって! とりあえずさ、普通ならそこまで何事にも自信たっぷりじゃいられないし、中々口にもできないもんだぜ?」
 くすくすと笑いを収めつつ、ロビンはそんなコメントを返してくる。
 いや、まあさ、確かに僕は父さんが母さんを想うくらいの強さでロビンの事が大好きだけど、なんとなく父さんと比較されるのはちょっと嬉しくない。
 だって、何だかんだ言いつつも、父さんは大切な言葉を惜しんできちんと告げなかったせいで、母さんを何年も哀しませていたんだ。
 もちろん反面教師にしているからそんな失敗は犯さないつもりだし、そもそもはじめから僕はロビンに想いを伝え続けているから僕の方がよっぽど上手のはずだ。だからどうせ比較をするなら、ちゃんと僕の方が上なのだと言ってもらわなきゃ困る。
「ほら、ンな顔しない。せっかくの美形が台無しだぜ?」
 笑いを残した声で囁いて、ロビンがそっと頬に唇を寄せてくる。程なくしてちゅ、と軽い音が耳に届く。そのとたん、自分でも笑っちゃうくらい心と身体に羽根が生えたような気分になってしまうのだからもうどうしようもない。
「うん、そうだね。――それじゃあまず、対策を立てようか」
「対策?」
 きょとんとこちらを見つめる彼女に、力強く頷きを返す。その上で、答えはわかってるつもりだけれど、念のために訊ねておく。
「そう。確認するけれど、ロビンはローナさんのところに行くつもりはあるの?」
「……あるならさっき、さっさと答えてたし。ていうか、アマデオだろ。オレの事、絶対離さないって言ってたの。あれ、本気じゃなかったのかよ」
 拗ねたように唇を尖らせるロビンのあまりの可愛さに、僕は心臓をモロに打ち抜かれた。うん、やっぱり僕は父さんの息子みたいだ。今の言葉だけで、何だってできるような気分になってしまった。
「本気だよ! 本気に決まってる! ただ、ロビンの意思を曲げるわけにはいかないから確認しただけ! ロビンがこっちに残るつもりなら、何をしてでも手放すもんか!」
 力の限りで腕の中の少女を抱きしめる。ああもう、どうして僕はまだ子供なんだろう? 大人だったら、結婚でも何でもして正々堂々と守れる立場に着くのに! 決めた。二人とも結婚できる年齢になったら、すぐにでも結婚するんだ! そしたらローナさんだろうがお父さんだろうが誰だろうが、絶対に手出しさせるもんか!
「なら、話は早いね。僕、今から家に電話して、今日は遅くなるって伝えるよ。父さんにも連絡して、こういった事情に詳しい人を紹介してもらおう。ロビンはロビンのお父さんに連絡を入れて、話がしたいから早く帰ってきてほしいって伝えてもらってもいい?」
「父さんに?」
「うん。だって今、ローナさんと戦えるのは、僕でもロビンでもなく、ロビンのお父さんのはずだから。ロビンのお父さんの本音を聞いて、その上でどう対抗するか考えよう」
「……うん、わかった」
 ほんの少し不安げな様子を見せながらも頷いてくれたロビンを、僕は力づけるように抱きしめた。


 真っ先に父さんに連絡を入れたのが功を奏したらしい。
 当然といえば当然だけど、僕が他所の家の事情に首を突っ込むのを渋った母さんを、何を言ったのかは知らないけれど父さんが説得してくれたらしく、その日は晩ご飯の後まで帰宅時刻を遅らせてもらえることになった。
「――こっちも連絡取れたよ。父さん、急いで帰ってきてくれるって」
 ほんの少しほっとした様子で告げる彼女に、僕はにっこりと笑ってみせる。
「そっか。一応ね、父さんも詳しい人を探してくれるって。具体的な話はまた今度になるだろうけど、まずはロビンのお父さんとしっかり話をしておきなさいって」
「う……ん」
 どうにも反応が芳しくないけれど、それも仕方がないかもしれない。
 だってこれまでにも何度か会ったことがあるけれど、ロビンのお父さんはどうにも感情が希薄な感じで……ロビンに対して愛情を持っているのかどうかを推し量るのさえも難しかった。
 けれどだからこそ、一度話をしてみたいと思っていた。きっとこれは、僕にとっても、ロビンとロビンのお父さんにとっても、いい機会になるはずだ。
 それから不安がるロビンを宥めつつ、夏休みの計画をしたり宿題をしたりしている間に夕方が訪れ、ロビンのお父さんが帰ってきた。
 ロビンのお父さん――アーサー・J・フランシェード氏は、ビジネスマンというよりは学者とかにいそうな撫で肩でひょろりとした体格の、あまり表情のない人だ。
 その表情の乏しさでうっかり見過ごしそうになるけれど、よくよく見ればロビンと同じ系統のとても整った顔立ちをしている。色彩も金に近い栗色の髪にブルーグレーの瞳で、雰囲気の違いからも、二人が並んでいても、あまり親子には思えない。ちなみに仕事は、どこか大きな会社の会計士をしているらしい。
「……お帰りなさい」
「あ、ああ……その、ただいま」
 ぎこちなく挨拶を交わす二人に心の中で苦笑しつつ、僕も挨拶をする。
「お久しぶりです。今日は無理に早く帰ってほしいなんて伝言をしてしまってすみません。でも、どうしても一度きちんとお話をしておくべきだと思いまして……」
「いや、早く帰るのは別に問題はないんだ。急ぎの仕事はきちんと片付けているからね」
 気弱な笑みを浮かべる彼を見て、ふと思った。この人、多分押しに弱い。ローナさんの本性が今日みたアレなんだとしたら、彼が彼女と対等に付き合えていたとはどうにも思えない。
 この件についても後で確認しようと頭の片隅にメモを取りながら、僕はどう切り出すべきか、ほんの少し考え込んだ。
 だけどこの沈黙が、いい方向に動いてくれた。
「……君は、ローナと一緒には行かなかったんだね」
 戸惑うような、だけど安堵を感じさせるようなその声に、僕たちは二人して正面に座る彼を見つめる。
「何それ。父さんは、あたしがママのところに行った方が良かったっての?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないけれど……僕は、いい父親ではないだろう? だから、彼女が君を迎えにくると聞いた時、きっと君は彼女を選ぶんだろうなって、そう思ったんだ」
 寂しげに微笑むその顔に浮かぶその表情を、僕はよく知っている。あれは――諦めだ。望む事すらおこがましいと、はじめから全てを諦めている顔。
 かつての母さんを思い出して、僕は胃の奥がきりきりと絞られるような錯覚に陥る。
 あの顔は、駄目だ。それが誰であったとしても、あんな顔をしているのは、絶対に駄目だ。
 強迫観念にも似たその考えに押されて、僕は空気も読まずに訊ねていた。
「どうしてそんな風に諦めているんです? 不安があるなら、直接ロビンに訊けばいいじゃないですか! ロビンは訊かれた事にはちゃんと答えるし、意見を求められたなら、きちんと返してくれますよ」
「うん、そうだね。それはわかってはいるのだけれど……」
 そっと息を吐いて、彼は困ったように笑った。
「……ローナとの事に関しては、いつでも何もかもが事後承諾で、意見も意思も訊ねられたことがなかったからね」