かぶ

彼女の家庭事情 - 04

 あの夜から二週間後の土曜日、僕の忠告に合わせてきちんと前もってアポイントメントを取り付けたローナさんが、ロビンの家へと再訪した。
 出迎えたアーサーさん(ロビンと和解(?)したあの夜に、これからは名前で呼んでほしいと言われたのだ)にリビングへと招きいれられた彼女は、そこに僕を見つけて驚きに目を見張った。
「……これは、どういう状況なのかしら。どうしてその子がここにいるの?」
「あたしのワガママだよ、ママ。ランディに一緒にいてほしいって、あたしがお願いしたんだ」
「ロビンがそれで安心できるのならと、僕が許可したんだよ。責めるのなら、ロビンでもランディでもなく僕にしてほしい」
 わかりやすく僕に敵対心を見せたその人に、僕が何を言う間もなくフランシェード父子が反駁した。
「――そう、なら、いいわ」
 アーサーさんの様子に何かを感じたのか、ローナさんは軽く肩を竦めるとソファに腰を下ろす。その正面にアーサーさんが、アーサーさんの隣にロビンが座り、
 ていうか、どうしよう。僕、すごく嬉しい。ロビンの言葉もそうだけど、ロビンを想ってのアーサーさんの言葉が、すごく嬉しい。というか、ロビンが僕を必要としていることをアーサーさんに認めてもらえたのが、どうしようもなく嬉しい。
 ローナさんの正面にアーサーさんが、アーサーさんの隣にロビンが座る。一人感動に浸っていた僕
「それで……なんて、いちいち訊く必要はなさそうね。ロビン、あんた、こっちに残るつもりなんでしょう?」
 こちらの万全の態勢を見て察していたらしい。ローナさんはどこか自嘲気味に訊ねた。
「ごめんなさい、ママ。でもあたし、父さんと一緒にいたい。ランディとも離れたくない」
「それで本当にいいの? あんたまだ十歳でしょう? 子供同士の恋愛ごっこで意地になって、それで後悔しても遅いのよ?」
「後悔なんてしないよ」
「後悔なんてさせません」
 どこか馬鹿にしたようなその声に僕とロビンが返したのは、ほぼ同時だった。
「ローナ、諦めた方がいいよ。この二人は、今引き裂く方がよっぽど悪い方向に向かってしまう。君はまさかこの二人に、僅か十歳にして駆け落ちなんて経験させたいわけじゃないだろう?」
「……子供の駆け落ちなんて、成功するはずないわ」
「ランディを甘く見ちゃ駄目だよ。彼はね、もし僕が不甲斐ないままでいたなら、僕ら二人から親権を奪ってでもロビンを引き止めるために動くつもりだったんだから」
 どこか楽しげにくすくすと笑う彼は、短い間で本当に変わった。熱情だとか激情などというものには相変わらず欠けているけれど、少しずつ人間らしい感情を見せるようになった。
 そんな彼は、昔から付き合いのあった彼女には逆に珍しかったのだろう。奇妙なものでも見るような目で、ローナさんはアーサーさんを見た。
「アーサー、あなた……どうかしたの?」
「どうかした、か。うん、したよ。ランディにロビンを取られそうになって目が覚めた。――ローナ。ロビンが望まない限り、僕はロビンを手放さない。将来手放さなければならなくなるまでは、これまでできなかった分も父親としての役割を果たさせてもらうつもりだ。それに君が反対するのなら、僕は戦うよ」
 穏やかな口調ながらもきっぱりとした口調でアーサーさんが告げる。
「あなたに、ロビンの世話ができるというの?」
「世話は、難しいかな。今も家事はハウスキーパーまかせだしね。だけど、父親としてロビンを守るぐらいの事はできると信じたいかな」
「言っておくけれど、ロビンはなかなかに手ごわいわよ? 今はその子のおかげで大人しくしているけれど」
「それはきっと、君の血じゃないかな。知っての通り、僕は自ら動いて物事を変えようという感情には乏しい方だからね」
「そうね。いつだって私があなたを振り回していただけよね。――それですら、あなたにはどうでもよかったのだろうけど」
 傷ついたような顔で付足した言葉に、僕の隣でロビンがぴくりと反応を示す。その横顔に怒りが滲むのを見て、僕はそっと彼女の手を握った。今はまだ、ロビンが口を出していい場面じゃない。そう視線で伝えると、ロビンは小さく頷いて僕の手を握り返した。
「……本当にどうでもよかったなら、僕はそもそも君と付き合いなんかしなかったよ」
 十秒ほどの沈黙を経て、アーサーさんがため息交じりに告げる。その言葉に、ローナさんは訝しげな視線を投げかけた。
「アーサー?」
「僕は基本的に、興味のあることにしか関心が行かない。だから何度しつこく誘われても、僕自身が興味を持った相手でなければ、けっして付き合ったりなんかしない。それは恋愛関係でも、友情でも同じだよ」
「…………」
「あの頃、君は僕ではない人を欲しがっていた。手に入らないとわかっていながらも彼の関心を引きたくて、僕と付き合った。――そうだよ。僕は知っていたんだ。はじめから。君が僕を利用していることなんてね」
「う、そ……」
 しんじられない、とこぼされた言葉は、きっと本心だったのだろう。それを耳にして、アーサーさんは小さく苦笑した。
「僕は身代わりだって知っていた。だから何も言わなかった。……言えなかった。僕はどうしようもない臆病者だから、君が僕を通して違う人を見ているのだと、改めて告げられるのが怖かったんだ」
「なら……それならどうして……どうしてわたしと結婚したの?」
「結婚すれば、前みたいに振り回した勢いに任せて手放されないかなと思ったから、かな」
 結局それも意味がなかったけれど。
 そう付け足して笑ったアーサーさんの表情には、以前あった翳りはまったく見えなかった。
「引っ越してきた君を見て、戻ってきてくれたのかもしれないという希望はすぐに消えたよ。だって君は、僕を見るたびに罪悪感を浮かべていた。昔の君が時折見せていたのと同じ表情をね。だから、ロビンの事を隠していたことだけじゃないんだって、また何かがあって僕を利用しようとしてるんだなって、すぐにわかった。だから僕は様子見に徹した。……君がいつかまた、僕を置いていってしまうことはわかっていたからね」
 達観しきったその言葉を聞いて、ローナさんの顔が一層青褪める。
「予想外だったのは、君がロビンを置いていってしまったことだ。本人を前にしては言い難いけれど、もしかしたら君は、僕の遺伝子を引く娘が重くて手放したかったのだろうか、とまで考えた」
「そんな事――!」
「うん、そんな事は考えてなかったんだよね。君はただ、いつも考えが足りないだけだ。自分の言動が周囲にどんな影響を与えるのか、それがわからない。ただそれだけだ」
 アーサーさんの言葉に身を硬くしたロビンをそっと抱き締める。僕の腕の中で、ロビンは息を殺して場の成り行きをじっと見つめていた。
「君が出ていったあの夜、ロビンは泣いたよ。ランディの腕の中で真っ青になって泣いていたよ。自分が父親と住みたいなんて言ったから、君を無理やりここでの生活に縛り付けてしまったんだと、それが原因で君を追い詰めてしまったんだと、酷く自分自身を責めていた。……情けなかったよ。そんな状況で頼ってもらえなかったこともだけれど、娘をあそこまで傷つけた自分の不甲斐なさが。同時に憎くなったよ。僕から十年も隠し続けてきた娘をないがしろにした君の考えなさが」
 あの日、ローナさんが出ていってしまったあの日、僕は泣き続けるロビンをただただ抱きしめているしかできなかった。母さんに無理を言って帰る時間を思いっきり遅らせてもらって、そうして少しでも長く一緒にいるしかできなかった。帰ってきたアーサーさんが状況を理解した時、何を言うでもなくただ自室に篭ってしまったのを見て、こんな状態の娘を放置するだなんて父親失格だ、とさえ思っていた。
 だけど違ったんだ。彼は信頼関係の薄い自分より僕の方がロビンの力になると考えていてくれたのだろう。
 そしてだからこそ、今、この場に僕が同席することを認めてくれもしたのだ。
 彼に認められていた。それがとても誇らしくて、思わず抱きしめたままのロビンに頬をすり寄せてしまう。きっとそんな僕の感情に気づいたのだろう。ロビンもほんのりとはにかんで、僕の好きにさせてくれる。
 ううう、やっぱり今ここで娘さんを僕にくださいってやっちゃ駄目かなあ。まったく、どうして僕はまだ十歳なんだろう。
 などと、状況をまったく無視して身悶えていた僕は、恐る恐るといった様子でかけられたローナさんの声に現実へと立ち返った。
「アーサー、私……ごめんなさい。ねえ、どうかしら? 私たち、もう一度……」
「――それは無理だよ、ローナ。僕はもう、君になんの期待も持てない。今はロビンの事があるからこうして顔を合わせているけれど、そうでなければ会いたいとも思わない。本当に、君の事はどうでもいいんだ。だから今は、ロビンの親権についてだけ話をしよう」
 とうさん、と、ロビンが喘ぐように声を漏らす。それは本当に幽かで、僕にしか聞こえなかったくらい小さな声だった。その声に誘われてアーサーさんへ視線を向けた時、ロビンが呟きを漏らした理由をはっきりと理解した。
 さっきまで確かに見えていた感情が、アーサーさんの顔から完全に消え失せていた。
 その表情を見て、わかった。これまで僕は彼を無表情な人だと思っていたけれど、今に比べればまだ幾分読み取れる何かがあった。
 この人は、ローナさんへと完全に見切りをつけたのだと、はっきりと理解した。
「アーサーさん」
「うん? 何かな、ランディ?」
 そっと僕が呼びかけた、それだけでも感情の片鱗を浮かべたアーサーさんは、僕の腕の中ですっかり固まってしまっているロビンを見た瞬間、実に色鮮やかに感情を溢れださせた。