かぶ

Goodbye To You, My Love : Clive - 02

「まったく……お前が誰かをそんな目で見る日が来るとは、いまだに信じられんよ」
 低く囁く声は、確かに楽しげな響きを伴っていた。
「ゲオ?」
「今はあまり使われない言葉だろうが、まさしく信奉者の目だ。他にもたった一人を深く愛する人間を知っているから、初めて見るというわけではないが、しかし、しかしだな……」
 くつくつと咽喉の奥で笑いを漏らすゲオルグに苦い気持ちで顔をしかめる。
「言いたい事があるならはっきり言ってください。それに、あなたがそういう嫌味ったらしい笑みをするなんて事、エレンはご存知なんですか?」
「さて、どうだろうね。知っているかもしれないし、知らないかもしれない。だけどそれくらいの事で、彼女は私を離婚しようとはしないだろうから気にした事はないね」
 にんまりと笑む上司に嘆息し、クライブはぐるりと目を回す。
「お惚気をどうもありがとうございます。ですが下世話が過ぎる上院議員ってのは、リコール対象になり得るかもしれませんよ。何しろ民衆は、クリーンなイメージの政治家を求めてますからね」
「思い出させてくれてありがとう。しかしクライブ、クリーンなイメージは、未来の政治家にも求められるものなんだよ。気ままでいるのが許されるのは、政治の世界に身を投じるまでの事だ。場合によっては、それ以前の生活が問題視される事すらある。そして君は、この世界に足を踏み入れて久しい」
「……何が仰りたいのです?」
 上院議員と同様に声を低め、クライブは自らのそれより上方にある灰色の視線を真正面から受け止める。
「別に、私が何を言う必要もないだろう。精々……」
 そっと息を吐き出し、部屋の片隅で難しい顔をしているジョージーナへと注意を向ける。視線に気づいたのか、ふとこちらを振り返った彼女は、自分を見つめている二人の男性へと微かに笑みを浮かべてみせた。
「……彼女は私にとって、すでに娘も同様だと忠告しておくぐらいさ」
「あなたがそれを言いますか。僕の記憶では、僕がミッシャとデートしていた当時、あなたには全面的に協力いただいていたはずですがね」
「だからこそだ。父親としては憎らしい限りだが、娘の幸せを願わないわけにはいかん」
 片頬にシニカルな笑みを浮かべ、ゲオルグは続ける。
「ミッシャはお前に深い関心を持っていて、お前がゆくゆくは政治家となって国政を動かしていく事を目標にしている事も知っている。更に加えるなら、私の後継者の位置に最も近いのは他の誰でもないお前だ。――となると娘が何を考えるか、わからないはずがないだろう。あの子はお前が、今は恋愛に現を抜かしていても、いずれは自分自身の夢のために、"正しい道"を選ぶだろうと信じている」
 遠回りに伝えられる未来図は、確かに確かに一度はクライブが脳裏に描いたものだった。それを現実にするために、確実な布石を打ってもいた。けれどそれも、ジョージーナへの想いを自覚するまでの事だ。出会うべき相手に出会って尚、そんな未来図を守り続けるような不誠実さを、クライブは持ち合わせていなかった。
「ゲオ、彼女と僕は……ミッシャとは、エスコートの際に避けられない程度の接触を除けば、何一つあなたに顔向けができなくなるような事はしていません。それに、ジョージーナと出かけるようになってからは、申し訳ないとは思いますが、ミッシャに期待を抱かせるような言動は意識的に避けてもきました。それが誰に対しても誠実な対応だと思ったからです」
 ジョージーナと一緒になる事で政治家としての道が閉ざされるというのならば、それはそれで構わない。何らかの形で政治に関与し、意思を上層部に伝え、実行させる事ができる地位を新たに見つけ出せばいいだけの話だ。いくらでも別のやり方を見つけられるようなもののために、この世でただ一人しかいない相手を失うのは、正真正銘の大馬鹿野郎だ。
 本来ならばもっと違う状況で伝えたかったが、この際だ。せっかくゲオルグから話題を振ってくれたのだから、それに乗るのも悪い考えではないだろう。
 半ば以上開き直りの心境でクライブが口を開きかけた、その時だった。
「いやぁっ!」
 部屋の空気を一瞬で凍らせるような、そんな悲鳴だった。
「嫌……嫌よ、だって、そんなの……そんなの嘘だわ!」
「――ジーナ?」
 明らかに異常な恋人の様子に不安を覚え、短い逡巡の後ジョージーナへと足を向けた。その背にはっきりと、気遣わしげなゲオルグの視線を感じる。
「嘘、嘘よ……いいえ、やっ、いやぁ――!」
 まるで子供がむずがるような否定の言葉に続いた悲鳴を耳にした瞬間、クライブは意識するより先に柔らかな絨毯を蹴っていた。
 果たしてそれは、実に正しい行動だった。
 悲鳴の残響が消えるよりも先にジョージーナの身体がぐらりと揺らぎ、力を失った手から零れ落ちた携帯電話が、重力に引かれてフローリングの床で硬質な音を立てる。
「ジョージーナ!」
 ぎりぎりのところで抱きとめた愛する女性をゆっくりとその場に横たえる。見下ろした恋人の顔は血の気を失って、まるで陶器でできた人形のように白くなっていた。視界の端によく磨かれた黒い革靴が映る。それが誰のものなのかを一々考える事もせず、青年は短く告げていた。
「人を――いや、救急車を呼んでください。脈も呼吸もあるが、意識がないようだ」
「ああ」
 部下から命じられた事を気にする様子もなく、ゲオルグは秘書の言葉に従い重厚な扉を開いて使用人を呼ぶ。その間もクライブは、指先で冷たい頬を優しく叩きながら、繰り返しジョージーナの名を呼び続けていた。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。肩を叩く手にはっと振り返ったクライブの耳に、悲痛さを顔に浮かべたゲオルグが重い声で告げた。
「彼女の母君が事故に遭って危篤状態にあるらしい。――今夜が峠で、乗り越えられる可能性は限りなく低いとの事だ」

* * *

「本当に、ついていかなくても大丈夫なのか? 議員も構わないと言ってるし、やはり一緒に――」
「もう、クライブったらこれで一体何度目なの? ……気持ちは嬉しいけど、無理な事は無理よ。あなたも私もいないのでは、パーティの準備が滞っちゃうじゃない。フォルトナー一家に任せてしまったら、せっかくここまで立ててきた計画がみんな台無しになってしまうわ」
 一々チケットを取るのも面倒だと言い切ったゲオルグは、知り合いに掛け合ってジョージーナのために自家用ジェットを用意していた。到着予定のナッシュビル空港には、彼女を病院へと速やかに送り届けるはずのヘリコプターも手配されている。
 離陸準備が整うまでのほんの僅かな時間すら惜しく、ジョージーナをジェットの中まで送り届けたクライブは、戻るべきだと言う恋人の言葉に逆い、その場に居座っていた。
 こんな時だというのに、それでも気丈に笑みを浮かべようとする彼女に胸が苦しくなる。どうして彼女は自分を頼ってくれないのだろう。ほんの少しでも寄りかかってくれたのなら、クライブは全力で彼女を支えるだろう。なのにジョージーナは、頼れる腕があると知りながらも自分一人の足で立とうとする。それがどうしようもなく歯がゆい。
「……君がそういうのなら引き下がるけれど」
 そっと息を吐いて、恋人の身体を強く抱きしめる。背中に回された指が、まるで縋るようにスーツを掴むのを感じて、やはり一緒に行くべきではないかと、すでに何度も否定されてきた考えが再度浮かぶ。
「ジーナ、これだけは忘れないで。僕は君が必要としてくれるなら、何時でもどこへでも飛んでいく。君のために、万難を排してみせる。だから何かがあれば、他の誰よりも先に必ず僕を呼んでくれ。いいね?」
「ええ、わかってる。わかってるわ、クライブ」
 涙を滲ませた声に、抱きしめる力を更に強める。そして秀でた額に、つんと高い鼻の先に、何より愛しい唇に、それぞれ口付けを落とした。
「愛してるよ、ジーナ。君が帰ってくるのを待ってる」
「ええ、クライブ。私も愛してるわ」
 囁きあって、名残惜しく口付けを重ねる。そんな二人に、遠慮がちなクルーの声が届いた。
「あの……申し訳ございません。ですが、出発の準備が整いましたので……」
「ああ、すまない」
 口付けを中断し、ジョージーナの頭を胸に抱きかかえてクライブが返す。インド系の美人なフライト・アテンダントはそっと笑みを浮かべ、二人を残してキャビンへと戻った。
 最後にもう一度、確かめ合うような口付けを交わして、青年はこつんと額を合わせる。
「君のお母さんが、よくなるようにと祈ってるよ」
「ありがとう。愛してるわ、クライブ。必ず電話するから」
「待ってるよ。君の電話も、君の帰還も」
 そっと微笑みあって抱擁を解く。ひやりとした空気がさっきまで触れ合っていた熱を奪い、たったそれだけの事で身を切られるような気分になる。痛みを振り切るように、唇に当てた指先を、もうすでに恋しくなっている相手へと投げる。
「気をつけて」
「ん。……ね、クライブ」
「うん?」
「愛してるわ」
 どこか切ない笑みを浮かべて呟くように愛を告げたジーナは、喜色を満面に浮かべている恋人へと、口付けをそっと投げ返した。