かぶ

Goodbye To You, My Love : Clive - 03

 ジョージーナからの電話は、ナッシュビル空港についた直後、手配されていたヘリコプターに乗る直前の慌しいものが最初で最後だった。
 病院にいるのだろうから携帯をそう易々と使えないというのも理解しているし、伝聞した状況からすると彼女の母の容態が予断を許さないらしいという事もわかっている。
 それでも、否、それだからこそ、ジョージーナの様子が気になった。
 時計の針が深夜を指してから一時間以上が過ぎている。元々早寝の習慣はないが、それでも今夜は眠れそうにないと自覚していた。だから仕事を、と考えるも、どうせ集中できないだろうとあっさり努力を放棄する。何をする事も考えられず、仕方なしにケーブルテレビの映画チャンネルを適当に眺める事にした。クライブ自身がまだ幼かった頃に映画館の銀幕で大いに楽しんだタイムトラベル映画が、最新型のテレビの中でコメディタッチのストーリーを展開させる。
 これまでに何度も繰り返し見ていたおかげで、集中しなくても先の展開がわかる。ミネラルウォーターのボトルを口元に運びながら、何度見ても笑いを誘われるコメディシーンへと虚ろに笑みを浮かべた時、ティー・テーブルに置いてあった携帯電話の柔らかな電子音が着信を告げた。
 意識するより先に手の中にすっぽりと収まる電子機器を掴み取り、受話キーを押下する。
「ジョージーナ?」
『……クライブ』
 その声だけで、全てが理解できた。彼女の哀しみを我が事のように感じ、胸が締め付けられる。手元のリモートコントロールでテレビの音量を下げると、ソファに身を預けたクライブは、通話口に向けて優しく囁きかけた。
「……うん、僕だよ。ここにいる。ちゃんと聞いているよ」
『もう、一時間になるのかな。お、おか……お母さん、が……』
 それ以上は言葉にならず、嗚咽が耳に届いた。こんな時、何をどう言えばいいのか咄嗟に判断できず、ただ、低く相槌を返す。傍にいさえすれば、抱きしめる事もできるのに。やはりあの時、反論を無理に封じてでもついていくべきだったと、改めて思う。いっそ夜が明けると同時に出発しようか、などと考えかけた時、再びジョージーナの声が耳に届いた。
『こんな時間にごめん。もう、寝てたよね』
 落ち着いたついでにいつもの気遣いが戻ってきたのだろう。意外に冷静な言葉を耳にして、ほんの少し笑いが漏れる。
「眠れないのはわかってたから、ずっと起きてたよ。だから心配しないで。それよりジーナ、君の方こそ大丈夫かい? 今はどこにいるんだ?」
『病院の、カフェテリア。ここなら携帯電話を使っていいって言われたから。――今夜はここで泊まる事になったの』
「ここって……病院で?」
 鸚鵡返しに問いかけると、ジョージーナがうん、と電話越しに頷く。
『お父さんが、鎮静剤を打ってもらって眠ってるの。……お母さんの事、私だって、辛いのよ? だけどそれよりも、お父さんが、本当に見ていられなくて……。お父さん、お母さんの事、すごくすごく愛してたから。――今は眠っているんだけど……それでもずっと、呼んでるの。お母さんの事、何度も何度も。信じられる? 薬の影響下にあるってのによ? こんな事初めてだって、看護士さんも言ってたくらい。こんなにも、人は人を愛せるんだって、改めて思い知らされた』
 時々しゃくりあげそうになりながらも、その声は穏やかさを取り戻しつつある。その事に安堵しながら、同時に聞かされた話に深く感心していた。
「……ああ、そうだね。本当に……すごい」
『ええ、そうでしょう? なのに……なのにどうしてあんな……!』
 引きつったように、神へ救いを求める言葉が呟かれる。それに続いたのは抑え切れない慟哭で、せめて声で抱きしめたいと、クライブは切なく愛しい恋人の名を囁き続けた。
 そうして一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。両親とクライブの名を繰り返し呼びながら哀しみに沈んでいたジョージーナが、震える声で、まだそこにいるの、と呼びかけてきた。
「もちろんだ、ジーナ。僕はいつだってここにいるよ。君が呼んでくれるなら、今からでも駆けつける」
『クライブ……』
「もしかしたらダニエルには、君のお父さんには負けるかも知れないけれど、それでも僕も、君を愛しているんだ。僕にできる事があるなら何だってするよ。だからジーナ、僕に頼ってくれ」
『ん、ありがとう』
 声からも、彼女が微笑んだのがわかった。それに続いて、息を整えるように、心を落ち着かせるように、深く呼吸を繰り返す音が耳に届く。乱れがちなその音からも、ジョージーナの心痛が伺える。
 ようやく嗚咽が混じらなくなった頃、まだ哀しみの影響は引きずりながらも、いつもの彼女らしいはきはきとした口調で、必要な連絡事項を伝えてきた。
『――お葬式は、明後日に決まったわ。病院の近くにある教会で。その後も、色々整理しなければならないから、すぐには帰れないの。早くて、一週間くらい先になると思う。こんな時に、ごめんなさい』
「馬鹿だな。こんな時だからこそ、こっちの事は無理にでも忘れてゆっくりすればいい。上院議員も夫人も、文句を言うような人たちじゃない」
『ええ、ええ、そうね。でも、それだけじゃなくて……』
「……ジーナ?」
 唐突に、これ以上聞いてはいけないと直感した。これ以上話させてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴り響く。
 しかしその予感は、僅かながらも遅すぎた。
『ごめんなさい、クライブ。だけど私、もう決めたの。――こっちに帰ってきて、父と一緒に暮らすわ』
「っ――!?」
『本当に、ごめんなさい。こちらの事が一段落着いたら、父と一度ボストンに戻る。戻って……全部片付けて、ケンタッキーで一から全部、始めようと思うの』
 耳から入ってきた言葉を頭が拒否するとはこういう事だろうかと、クライブはまるで他人事のように考える。
 ケンタッキーでやり直すという事は、ボストンでの生活を全て無に帰すという事だ。
 それはつまり、これからもボストンで生きていくだろうクライブとの関係もゼロに戻すという事で……
「う、そだろう? ジーナ、ジョージーナ、いいかい? 君は今、母親を亡くして動揺している。大切な人を失った時、人間は懐かしい場所へ戻りたいと願うものだけれど、それは逃避行為だ。休みが必要なのなら僕からゲオにそう伝えるよ。だから早まった結論は……」
『クライブ、違うの。これはそういう問題じゃなくて……』
「だってジーナ、君が言っているのは、それはつまり、僕とも別れるという事なんだろう?」
 情けなくも震える声で問いかけると、電話の向こうでジョージーナが沈黙した。
 否定の言葉を求めて息を潜めるクライブの耳に届くのは、痛いくらいの静寂。無言のままで疑念を肯定され、とうとう彼はうそだ、と、低く漏らした。
「ジョージーナ、お願いだから考え直してくれ。僕は君を愛してるんだ。例え君が哀しみの中に沈んでいるのだとしても、僕から離れる理由にはなり得ないし、もしお父さんの事を気にしているのだとすれば、僕は彼を力づける助けにもなる。だからジーナ」
 こんな風に誰かに縋った事なんて、一度もなかった。
 生まれがどうあれ、政治家を目指すからにはそれなり以上の自尊心を持っている。だからこれまでに付き合った相手と別れる時は、それがどちらから切り出したものであれ、クライブはスマートに事を片付けてきた。
 だけどジョージーナは、そんな風に割り切れるような相手じゃない。彼女と共に生きていくと考えた時点で、彼が割り切ったのは連邦議会への道の方だ。輝かしいと称される未来など、心から愛する相手と生きていくという幸福と見比べれば、ダイヤモンドの前のガラス程度の輝きしか持たない。
 必死になって言葉を繰ろうとするクライブを止めたのは、悲鳴のようなジョージーナの声だった。
『駄目よ、クライブ。お願いだからやめて!』
 氷の爪で心臓を引き裂かれた気がした。
 こんな声を上げさせたいわけがない。何をしてでも、彼女を苦しめる原因を消してやりたい。ああ、だけどどうした事だろう。今彼女を苦しめているのは、他の誰でもないクライブ本人なのだ。
「ジーナ……」
『あなたには酷い事を言っているって、わかってるわ。でも……どうしようもないの。こうする以外に、方法がないの』
 しゃくりあげる声が青年の心身を切り刻む。呼吸が浅く、速くなり、鼓動は喪失への怖れ故に早鐘を打っている。
 ジョージーナに何が起きたのか、なぜこんな事になっているのか、何一つわからない。わかるのは、誰よりも愛しい相手が、彼女にとってはどうしようもない事情故に別れを告げている事。そしてそれに否の言葉を繰り返したところで、彼女の背負う重荷が軽くはならないのだという事。ただ、それだけだ。
 何科を言わなければならないのはわかっている。だけど何を言えばいいのか、それがどうしてもわからず、クライブはとうとう口を閉ざしてしまう。
 その沈黙をどう取ったのか、先程まで嗚咽を漏らしていたジーナが呼吸を整えているのが電話越しにわかった。落ち着きを取り戻してくれたのだろうか。そんな微かな希望は、しかしいともたやすく打ち砕かれた。
『……あなたが私を愛してくれて、本当に嬉しかった。これまで生きてきた中で、一番幸せだった』
「……ジーナ?」
 違う。聞きたいのはそんな言葉じゃない。そう口を開きかけた彼を制するように、ジョージーナは柔らかに、いっそ残酷なまでに優しく囁いた。
『あなたを愛してた。今も、きっとこれからも愛してる。だけどごめんなさい――さようなら』